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不合格体験記が好きな人の話

西野様:

かつて、西野マドカはぼくを見つけた。こう書くとまるでぼくが何か価値のあるアイテムであるのように思えてしまうが、そうではない。字面通りぼくは西野マドカに見つかった、ただそれだけの話を、今からする。今日からひとつの連載企画をはじめる、その前説として、ただ見つかったという話を書いておく。

西野マドカはぼくに何か書かせたいと思ったという。本人が最初に言っていたから、おそらくそのときはそうだったのだろう。メールやツイートのやりとりはかなりいっぱいあった。しかし、西野マドカはいっこうに具体的な仕事の提案をしてこなかった。西野マドカの本職は医療系出版社の編集者であるが、西野マドカの勤める会社から本を出したことはない。

対話の内容はいつも、今する必要のない話ばかりであった。それは決して、

「テコ入れ」

「開拓」

「再発見」

のような、現状を何か治療する類いの対話ではなかった。単に話をしましょう、縁をつないでおきましょう、というものばかりであった。今ふりかえってみると、ぼくはなんらかのケアを受けていた可能性がある。


そういえば西野マドカはたまに本を送ってきた。それはとてもいい本ばかりだった。一度に三冊くらい送ってくるのだが、ジャンルはばらばらで、必ずしも疾病や人の生死に関係がある本ではなく、というか、あとで気づいたことだけれど、どちらかというと病理の話よりは料理の話が多かったように思う。食いしん坊なのかもしれない。

ぼくが読んだことのない本は、ぼくが読みたい本であり、ぼくが読みたいことにぼく自身が気づけていない本だった。ぼくは西野マドカの本選びのセンスに3度ほど嫉妬した。そういえばぼくはずっと西野マドカをライバル視していたように思う。


西野マドカと一度、ブログで往復書簡企画をやったことがある。そのときの詳しい話は、いずれ引っ張り出してきて赤面するためのタネにとっておくが、今読み返すと、どうも、企画の間中、ぼくはずっと、ある種の劣等感のようなものを刺激され続けていた。自分の脳から出てくる言葉をひたすら貼り付けることに没頭しながら、何かとずっと競い合っていた気がする。

つまり、相手の脳の中にある言葉に目をこらすことを、あまりやっていなかった。

そして次第に西野マドカとは疎遠になった。


不思議なもので、一度途切れた縁を結び直すきっかけというのは、たいてい「無関係なおじさん」だ。おばさんだったことはない。おねえさんだったこともない。おじさんである。最近、佐渡島さんとnoteをはじめる準備をしていたときに、佐渡島さんがこう言った。

「言葉は、自分のものではなく、他者の頭の中にあるものです。」

佐渡島さんの本意は、あらためて彼とのやりとりの中でおうかがいするにしても、ぼくはこの一文を読んだときに、そうか、今なら西野マドカに自分の脳を飾り付けて見せびらかしにいくのではなく、西野マドカの中にある言葉をぼくが拾いに行くことができるかもしれないな、と思ったのだった。つまりぼくは佐渡島さんと話をしていたのになぜか西野マドカのことを思い出していたのである。


以前に西野マドカとやっていたブログのタイトルは「さよなら文通」という。これはブラッドサースティ・ブッチャーズの古い曲、「さよなら文鳥」をもじってぼくが名付けたものだ。あとでその曲の歌詞を見直してみると、ぼくらの往復書簡とは全くもって、カケラも世界観が合致していない曲だった。雑な命名だったなと思う。

今回、西野マドカとやるnoteのマガジンタイトルは彼女がつけた。理由は聞いた、腹が立つのでぼくからは言わない。言うの? しばらくないしょにしておくの? まかせるけれど、イラストまで用意して、まったく。まるでこういう日が来ることをずうっと待っていたかのような用意周到さではないか。

(2019.7.1 市原→西野)