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声楽とは言うが文章楽とは言わない

にしのし

これを書いているのは節分です。今年は2月2日なんですね。3日じゃなくて。こういうのって誰が決めてるんだろう?

なんていう疑問、ググればたぶんすぐわかることです。そこのスマホを手に取って数回なぞるだけでいい。「節分 2日 なぜ」。これでしばらく粘れば答えは出るにきまっている。となるとこの命題、もはや、回答が手に入っていると見なしてよい。だから、ググらない。


……みたいな間違い方をすることがあります。

たまにやってしまう。

「この本はまだ読んでないけど、なんとなくこういう感じかなというのはわかる、だから暇になったら読む、けど、ま、読んでいない」。

こうして読まないままでいる本がいくつかあります。もったいないことですよね。

芥川賞受賞作とかに多い。

ノーベル文学賞受賞作とかも。

アフリカ文学……も、かなあ。そこはまるで見えてなかったなあ。

先日読んだ『世界哲学史8』のトリ(第10章)がまさかの「現代のアフリカ哲学」だったんですよ。そういうジャンルを想起したことすらなかった。

読まないよりもさらに悪い、「読んでいない本があることにすら気づいていない状態」だったわけです。まったく、困ったものだ、脳。


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「ぴよぴよ」。情感あふれるぴよぴよ。かわいさをにじませるぴよぴよ。枕草子のテンションに耐えるぴよぴよ。時をかけるぴよぴよ。声優さんは、いったいどういうテンションで朗読を吹き込んだんだろう。

声優さんというのはすごい職業である。最近テレビが鬼滅ブームの余韻で声優フィーチャー回を増やしているけれど、どの企画もおもしろい。声の表現ってあんなに奥深いんだなあと惚れ惚れする。

逆に、あそこまで表現する努力をせず、日ごろから棒読み気味に発しているぼくの声が、とりあえず自分の周りとやりとりする分にはそこそこ機能してしまう事実も一周回ってすごいなとは思う。もちろん、その分、無駄に招いてしまっている誤解も多いのだろうけれど。


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人間のコミュニケーション手段として、文字よりも「スムーズ」で「汎的」なものが2つある。声と絵だ。

往復書簡をnoteでやっている以上、「そうは言ってもさ、やっぱぼくらは文字だよね」と言いたくなるけれど、冷静にSNS業界を見てみても、TikTokやinstagramのほうが現代の双方向コミュニケーションでは人気なわけで、Twitterは若者には「あそこめんどくさいよね」「おっさんが長文で飛びかかってくる」などと言われるばかり。

clubhouseがもてはやされるのもわかる気がする。あ、でも、ぼくは、招待されてもだめなんです、その、スマホがモンゴロイドなので(ワタナベアニさんのギャグ)。


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文字というのは、コミュニケーションにおいては根本的に欠陥があると思う。十全じゃない。

だからそれがいい、って話ではある。コミュニケーションがスムーズすぎる場所なんてのは、ヌーディストビーチみたいなもので、あまりにあけすけになりすぎて居心地が悪い。多少隠しているくらいがちょうどいい。引っかかって二度見するくらいのやりとりが心に残る。ヌ? なんて? みたいに。

ただ、そうは言っても、「声によるコミュニケーション」は、この先5G時代を迎えるにあたって、もっと前景に出てくるだろうな、とも思う。スムーズすぎて疲れる人が出ようと関係ない。Snapchatでもinstagramのストーリーズでも、TwitterのFleetでもずっとくり返されてきたことだ。まして、ギガが増えるのである。声はこの先、文字よりもはるかに気軽に誤解を生み続けるツールとして、再利用されていくだろう。

声業革命はもうはじまっている。


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首都圏に住む消化器科のベテランドクター・若杉聡先生と、半・定期的にお会いして、「症例検討」をやっている。

超音波指導医である若杉先生、病理専門医のぼく、そして診療放射線技師の長谷川君・金久保さんの4名で、医歯薬出版の会議室に集まって、昼の1時くらいから夕方5時くらいまで延々おしゃべりをする。

超音波画像を見ながら、ああでもないこうでもない、その後病理画像を見ながら、ここはこうだ、いやこっちがこう見えた、などとケンケンガクガク。

座談会の内容は、ぼくがその場でパソコンに入力する。みんながしゃべったセリフをバカスカWordにノールックで叩き込んで、帰りの飛行機の中で手直しをする。主に漢字の誤変換を直したり、「しyばっbでsyじゃ。」と書かれている文章を「そうなんですか。」に直したりする(右手がひとつ左にずれた場合にこうなる)。

千歳に着くころには、雑誌の連載原稿がだいたい5本くらいできあがる。


この原稿を作る際、ぼくは座談会の雰囲気を、「極めて忠実に再現」する。みんながしゃべった通りに打ち込むことが、現場の熱量を伝えるためには大事だから。

だいたいこんなかんじ。


若杉「あー、ここはですね、単純結節型、単純結節型? でも少し飛び出てはいるかなあ。」

市原「ね、でもね、こういった、飛び出ているところをちゃんと確認できるのが、エコーの……CTと比べたときの超音波検査のいいところなわけですよね。ねえ、長谷川さん、ほら、ここ飛び出てるでしょう?」

長谷川「です、ね。飛び出てますね。ぼくもその、今先生がおっしゃった、輪郭の部分の、そのくびれた部分を何度かこう、プローブを往復させて。」


で、この「ありのままの原稿」を、若杉先生をはじめとするほかのメンバーに送って手直ししてもらう。

すると若杉先生は、たっぷり1か月くらいかけて、これを見事に「別モノ」に生まれ変わらせる。上の文章が、だいたいこんなふうになる。


若杉「ではBモード像で病変の肉眼形態を確認してみましょう。一見すると、単純結節型に見えます。でも、よく見ると、輪郭の部分がこのように少し『飛び出て』いますね。ですから、これは単純結節周囲増殖型と判断すべきです。」

市原「なるほど。超音波検査は、CTと比べて、空間分解能に優れていますので、このように病変の輪郭がより詳細に観察できるんですね。」

長谷川「そうですね。確かに飛び出ていますね。」


見比べてみるとわかるが、元の痕跡すら残っていない。しかし、手直ししたあとのほうが圧倒的に読みやすくなっている。

このプロセスを毎回見ているぼくは、いつも感心する。



おそらくあなたを含めた出版業界の方々、特に、「座談会の文字おこし」をやる人々にとっては、とっくに知られていることだろうけれど。

「対談の文字おこしをそのまま文章にして、読める文章になる人」は10人に1人くらいではないだろうか。

特に、一人語りではない、対話における声というのは、あれ、リアルタイムで聞いていると意味をかなり共有できるけれど、そのまま文章にするとマジで情報量が1/4くらいに減る。ふしぎだ。




そして……この手直しをする際に、若杉先生はいつも、ぼくが入力した文章を、「10回音読する」のだそうだ。


座談会の現場の、生の「声」を、ぼくがそのまま「文章」にしたものを、若杉先生が「声」に載せてみて、ひっかかったところを直して「文章」として完成させたものを、ぼくは読んで、「すらすら読めるなあ」なんて言っているわけである。


そしてこの話はおそらく、詩や歌に帰結していくんだろうということも、とっくにみんなご存じなのだろうな、と思う。



(2021.2.5 市原→西野)