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それ転がるのうさぎじゃねぇかよ

ニシノさん

半角カタカナって、ぼくはツイッターではちゃんと意図を込めて使うんですよ。でも、「それはどういう意図ですか」と尋ねられても答えることはできないですね。フィーリングです。フィーリングではないです。フィーリングです。ここは全角です。エモーションも全角。でもエモは半角かな。エモいは全角ですね。

ツイッターは全角。

ツイッタランドは半角。

効果音は半角です。ですからあなたの書き方、すごくよくわかります。

ボボン... シャワワー (←ドラムブラシ)...

のくだりは、ぼくだったら、

ボボン... シャワワー...(※ドラムブラシ)...

になるかもしれません。迷うところです。

 

Bon Joviがカントリーかどうかはともかく、MTV unpluggedはたしかにたまにカントリー臭がするなあと思いました。

MTV unpluggedで思い出に残っているのは、ブルース・スプリングスティーンが最初だけアコギを弾いたあと、「unpluggedはここまでだ」と言ってエレキギターをつないだ回です。確かロゴの"unplugged"の部分に、血文字のようなバツが付けられ……

(何を言っているかわからない人は下記リンク先のジャケ写をどうぞ。)

ああ、記憶のとおりでした。


***


さて、

それって新皮質(知性)が辺縁系(本能)に勝った(?)事例ってことでいいですか!

に、そう! と返事をしようかと思ったのだが、最近読んだ本をつなげていくと、どうもここにはもうすこし考える余地があるように思った。


ぼくは医学生時代に「ブローカ野」や「ウェルニッケ野」という言葉を用いて脳科学を習った。視覚中枢がどこにあり、手を動かすのはどの部分で、記憶がたくわえられるのはどこどこで、情動が存在するのはこのあたりで……。「脳には地図があり、それぞれに役割がある」という「真実」を、文字通り脳の一角に刻み込むべく、青春の1ページを……いや、2,3ページくらいを消費した。

なお青春は広辞苑より分厚い。


しかし、最近の脳科学を眺めていると、どうやら脳は「決まった場所に決まった仕事が割り振られている」というわけではないようなのである。刻み込んだ文字が不適切だったかもしれない。

『カンデル神経科学』の記載を丁寧に読んでも、『芸術・無意識・脳』を眠くなりながら読んでも、あるいはラマチャンドランがちょうどぼくの学生時代に出した『脳の中の幽霊』を今さら読んでも、『タコの心身問題』から得られる推測も、異口同音に同じようなことをほのめかしている。

「脳は必ずしも、場所ごとに分業しているわけではない」。

ただちに直感が抵抗してくる。左脳とか右脳の話のほうがカンタンだからだ。基底核は? 前頭葉と性格の関係は? 猿の脳、ヒトの脳。ホムンクルスのイラスト……。

でも、どうも、そうカンタンな話でもないようなのだ……。


脳が場所ごとに分業しているわけではないかもしれない、という直感に反する仮説は、実をいうと、ぼくが元々、ツイッタランドを眺めながらぼんやりと予想していたことでもある。


高次の意識には出所がなく、ただけもの道を踏みしめ続ける反復によってのみ、一時的に、維持され続けるだけのものなのではないか、という、不思議にエロチックな仮説。


日々、ネットワーク上での無数のやりとりを眺めていると、古典の好きな犬からは清少納言の話がいっぱい伝わってくるし、娘が先にゼルダをクリアしたシルエットアイコンの妖怪からは打倒ガノンの気概が毎日伝わってくる。ロシアの話。AIの話。ダジャレ。写真。これらの話題をタイムラインに流すアカウントはそれぞれ、ある程度、偏りがある。

しかし、清少納言の話をしているのは犬だけではなく、ミファー様を愛しているのは妖怪だけではない(世の中で一番ミファー様を愛しているのはぼくだ)。

そして、なにより、言い出しっぺよりも、それを受け継いで何度も語り、あるいはリツイートをする人々がタイムラインに断続的に現れることのほうに、社会の「意思」のようなものを感じるのである。

誰かがまず語ったというスタート地点ではなく、それが何度も何度も目の前を通過していくこと。

「社会の意識」。例えとして若干不適切かもしれないが、そういったものをぼんやりイメージする。

無数の人々が同じ対象について異なる発火をする。それがいつしか傾向となり、方向性を持つ。中心点が指摘できない。反射と保留。

単細胞生物に反射の保留はできない。単純な電卓は答えを保留する必要がない。

「ぼくのフォロワーは全体的にFGOやゼルダが好きだよね」、という、雰囲気だけが、最近、ぼくの「外付けCPU」にある。

ぼくがネットワークの内部にいるだけか?


こういうことを、言語化しないまま、ここんとこずっと、考えていた。



最近ある本を読むことで、ぼくはこの乱暴な仮説にかなりの自信を感じることに……いや、感じそうになった。

ところがこの本とぼくの相性は必ずしもよくなかったのだ。まったくままならないところだ。

そもそも第1章が微妙だった。読んだことがあるなあ。第2章もだ。うーん買うまでもなかったか。第3章あたりで違和感があった。ん?

しかし第4章で爆裂におもしろくなった。やった! これが読みたかったよ! そしてついに第5章、第6章でスタンディングオベーションである。

「ブローカ野」のような旧時代の異物的名称はただちに歴史の向こうに押しやるべきだ! 今こそぼくは脳とネットワークの何かが見えたぞ! わああっ!

ぼくは興奮した。このまま第13章まで実例が語られるのだと書いてある。やった、やった、今回の買い物は成功だ!


……しかし……7章が……急につまんなくなってしまって……。なんでそっちのほうに行ってしまうのか……。


脳科学を語る本ならば、ソーシャルネットワークのアナロジーで遊ぶのはほどほどにしてくれよ……。



笑っちゃうくらいに自分勝手なセリフが浮かび、うん、お前が言うな案件なのだけれど、たまらなくなって、思わず本を閉じてしまった。同族嫌悪か?



ぼくはここで訳者あとがきをみた。すると訳者もどうやらそのこと(?)をわかった上で、なお、本書を日本に紹介する意義を感じ取っているようなのである。だからいい本なのかもしれない。しかし第8章以降はまだ読んでいない。

そして、7章で本書を閉じてしまったぼくは、そこで、脳と思考と意識に対する考察が、なんだかキュンとしぼんでしまって、一次停止中なのである。

少し集中的に脳の本を読みすぎたのかもなあ……。ショウペンハウエルに怒られる……。


というわけで、先日から、千葉雅也に戻ることにした。難しくて全く理解ができない。いっさいわけがわからない。そんな彼のすばらしい著作に、じっくりと、いつもより10倍くらい遅いスピードで、1日4ページくらいずつのペースで取り組んでいる……。


うわあ西野が千葉雅也のこと書いてるぅ!!



まあそういうことだよね。お手紙読んで納得しています。

読書術の本、ご紹介よろしくお願いします。


(2020.2.27 市原→西野)