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ヤ、間際の無効に、病の先に(9)


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遅れてやってきたぼくが、

セッションに思考のピントを合わせるまでの間、

たらればさんは、(ぼくにいきなり振られて)ここまでの小括を試みる。


たられば「ここまで……君の音声がつながらなかった間、まず、漫画家・おかざき真里先生に、『阿・吽』で死を描かれていることについて、お話を伺いました。

ぼくはずっと前からおかざき先生の大ファンなんですけれども、恋愛とか仕事とか、非常にキラキラしたものを描くことが得意な作家でいらっしゃると思っていました。

その方が、いきなり仏教の話を描き始めた。

……1巻の最初から、人がばんばん死ぬんですよ。

そして最初の1ページに、

「生まれてそして死ぬまで、何もわからない」

と書かれていて。


そんなおかざき先生に、死を描くにはどういう工夫があるのか、気をつけていることはあるのかと伺ったところ、

「わからないことをわからないまま描いています」

とのことでした。「わかっちゃいけない」という言い方もされていて、すごく印象的だった……。」
たられば「続いて、高野山高祖院・飛鷹全法和尚に、「仏教は死をどう扱ってきたのか」というお話を聞いたんですが。

飛鷹和尚もまた、生に対して死がある、だから死は生を充実させるようなものだと考えている、死とはあまり向き合いすぎないほうがいいということをおっしゃっていて、

あぁ、なるほど。それはすごい発見だな、と思いました。」


心根の奥のところが武者震いをしている。シナプスの歩調がそろわず、思考がふわふわとする。


犬がお題を振った。


たられば「医師であるヤンデル先生にぜひ聞きたいのは、次のようなことです。

今、日本人はだいたい8割の人が医療施設で亡くなります。ということは、ほとんどの人の死に場所は病院で、医者が看取っているということです。

ところが僕は個人的に、お医者さんは死を語ることがあまり得意でないような印象があるんですよね。」


(なるほど)


たられば「たとえば緩和ケア医は、死にすごく直面しているようですけれども、それ以外の医者は、死を語らないようしているようにも思えてしまう。

どうですか?

ヤンデル先生は、直接患者に会う立場ではないかもしれないですけれど、死をどう語っているのかについて、伺ってみたいです。」


たった2秒のタイムラグを越え、ぼくの声がスタジオに届く。

すると、反応が、照り返ってくる。

テーブルの上でくるん、くるん、と落ち着かず揺れ回っていた三角フラスコが、回転を止めてぴたりと落ち着いたときに鳴るような、スゥン、という(無)音が、スタジオから聞こえた。

ぼくは安心をした。



ありがとうございます。

最近読んだ、
ある本の中に書いてあったことを参考に、
ちょっとお話します。
では……まずは、京都をイメージしていただくのがいいかな。

京都の町の中にいると、
一番遠くに山並みがあるじゃないですか?
その山の向こうは、
まったく見えないわけです。
このとき一番遠くにある山の縁を
「前縁」
前の縁と書いて、
ゼンエンと呼ぶことにします。
「そこから向こうは見えない線」
というもの。


それとは別に、京都の町の中には、
「塀」とか「区画」とか「川」といった線がいくつもあります。
いずれも「線」ですけれども、
これらは前縁とは違って、
線の向こうに何があるかわかる、
「境界」
です。

遠くの山の縁には「前縁」。
町その中には「境界」がたくさん。

さあ、町の真ん中に自分がいることを
イメージします。
このとき、僕ら医者からすると、
「死」とは山の向こう、
前縁より向こうにあります。

まったく見えないんです。
行って戻ってくることもできないし、
向こうを想像することもできません。

つまり医者にとって、山の向こうのこと、
「死」は、
視界の外である。


これに対し、
日頃ぼくらがやっている医療というのは、
「境界」の手前と奥とを行き来するような仕事でして。

京都の市内には境界が……
たとえば川が流れているわけですが、

仕事のとき、医者はその川を見ている。

「ある川」を越えると……
たとえば、
患者さんの体調がすごく悪くなるとする。

すると医者は、
「川の向こうから、こっちに戻っておいで」
と言ってみたり、
手を伸ばして引っ張ったり、あるいは、
「川の向こうにいるんだったら、
こういう暮らしをしたらどうかな」
と声をかけたりする。


でも「死」は、
「川の向こう」とかじゃないんですよ。

本当に「山の向こう」にある。

ぼくらは、生老病死のうちの
「生・老・病」までは見ますけど、

「死」に関しては本当に見えていない。


***


「各々が死をどう語っているのか」に対して、漫画家・僧侶・医者、三者三様の「わからない」が並んだ。

ここでたらればさんはすかさず、

「でも医者は、特に病理医は、死をもう少しリアルに扱うのではないか」

と問う。



矢印がすべて同じ所を指していては見えてこない。

ズレとスキマが必要だ。

空隙に流れ込むように思考が湧き出て、穴埋めをしたり、あちこちに矢印を伸ばしたりする。ギャップを丹念に探ると、場に思考が満ちていく。

だから犬は揺さぶりをかける。光量をかけて何かを照らす。

光と影とがなんらかの形に見える。

ロールシャッハテストがはじまる。



たられば「病理医・市原先生は、患者さんの死体を解剖する機会というのがありますよね。ですからたぶん、ここにいる誰よりも、「物としての体」とか「心がなくなった物体としての人体」と接している機会が多いと思うんです。

何と言うのかな……リアルとしての死というか……。僕たちはどうしても死を観念的に考えちゃうんですけど、もっと具体的な死を見ているような気がするんです。その辺りはいかがですか?


材料が出そろった。ぼくはズレとスキマに脳を溶かす。


例えば病理医は、
確かに多くの死体を相手にします。
でも、
その死体を見て「死」を思うというよりも、
「この人がどうやって生きて、
どのように苦しんできたか」
の最終結果が死であるととらえています。

つまり、
生きていた過去のほうに戻るということ。
これは解剖の役割の1つなんですね。

「いったいどういう経路で、
死にたどり着いたのか」
をわかりやすく説明することが、
病理解剖の意義の1つです。


もう1つ、

病理解剖で具体的に
「他人の死」をどう見ているかについてですが、
「死を乗り越える」というか……。

ある患者さん自身の死を見るというよりも。

その患者さんと同じ病気になる
将来の誰かに向けて、
「この死が、未来の患者さんに何か参考になるのではないか」
と考えています。

「もっとこういう医療ができたら、
もっとこういう処置ができたら、
今後同じ病気の人が出てきたときに、
もう少し苦しみが減るのではないか」

未来の別の患者さんのため、
未来に生きている別の人のために
解剖をするということがあります。

リアルに死を見ていることには違いないですけど……
実際に患者さんの「死そのもの」に
向き合っているんじゃないですよね。

死から、「過去の生」や「将来の生」に
フィードバックや
フィードフォワードをするための目線。
学者や医者としての目。

今、
あなたに問われてちょっとぞっとしたのですが、
ぼくは誰よりも
「死体」は見ているんですけど、
「死」を見ているかと聞かれると……。


***


わからないものを、わからないままに。

ズレたスキマをこじあけて。


そこに流し込む。




(ごめん、続く)

(知ってた)

(このまま最終回とかどう考えてもボリューム的に無理)


(2020.9.3 第9話)


↓次回記事(最終回)