見出し画像

かわいいかたちのクッキー

にしのさん:

というわけで以下の本をわたくし読み終えたわけです。

最高だった。

たしかにあなたのおっしゃるとおり、タイトルからするとぼくがあまり手に取らないタイプの本ですね。でも教えてもらってよかった。タイトルから瞬間的に想像した、「アンチョコ・ハウトゥー本」ではなかった。哲学というか……記号論でもあるのかな。

すでに多くの人が書評で触れていることだけれど、

「タイトルから感じた印象と本文の印象が違った、と書くこと自体がこの本に対する感想としてはめちゃくちゃハマる」

というメタ的な構造、おもしろかっこいい((c)ワタル)ですね。思考の階層を貫通するような本、楽しい。


おすすめにしたがってあとがきから読みましたが、あなたが前回のお手紙に書いてくれた、

ふと気づいたのです。

あとがきの書き手が,本編の概要を余すところなく解説しながら,本編で登場するきわめて重要な用語 --「書物」と「図書館」-- を一切用いていないということに。

え……あのキーワード使わずにこの解説……? これもしや,すごい芸当なのでは……?

瞬間,ちょっと鳥肌がたちました。

というこのくだりは、うわっとびっくり。ほんとだ。

ぼくなら絶対キーワードをちりばめて書くだろうな。

そういうとこ気づくの、偉いな……。さすがマドマド。


***


今残っている生命が、歴史の終着点にいて最適化されきった存在である、なんてことは言わない。そんなわけない。まだまだこれからも変化していくだろう、それはおそらく人間の脳に対しても言えることだ。

今の人間の脳が理想型であるとは思わない。

しかし、脊椎動物の別の種とくらべると人類の脳は明確に「存在が尖っている」。適者生存の理を長い間くぐり抜けてきた、歴戦のつわものという印象はある。進化には優劣はない、それはわかってる。でもやっぱヒトの脳は単純にコンピュータ的に眺めて優れているよなあ……。

そのくせ、海馬や下垂体などの例外を除くと基本的に「灰白質はどこもほとんどいっしょ」であるということ。やっぱそれ自体に意味があるんだろう、と、前回ぼくは書いた。


それを受けてあなたが使った「神経核」という言葉。古典的な脳科学において、神経の中継点・分岐点であると考えられている場所。線状核とか基底核とかが有名だ。

でも神経核の本質って、実は「灰白質」なんだよね。脳の外側にある灰白質と、成分としてはほとんど変わらない。メラニン含有量とかが多少異なる部分については特別に「黒質」などと名前が付けられていたりもするから、混乱するけれど、顕微鏡で細胞をみてもほとんど違いがわからない。なにより、ニューロンを取り出して来てほかの部位のニューロンと比べても差が見えない。


肉眼的には確かに、外側に灰白質があって、その中に白質があって、さらにその中にもう一度灰白質が出てくると、一番内側の部分は「島」みたいに見えて、なんだか特別な領域だろうなって思えてくるし、実際そこを事故や事件によって損傷すると、決まってある種の機能障害が生じるので……直感的に、「脳は場所ごとに役割がある」と考えたくなる。

でも所詮は「中にある灰白質」でしかないんだ。

入り組んでいるから島っぽく見えているけれど。

解剖学者にとってはあたかも意味がありそうに見えていたけれど。

ほんとうはそれって半分しか正しくなかったんだろうなってことをずっと考えている。


これから書く話は例え話で、フィクションで、寓話だと思って欲しい。

「医クラ」なんてものがインターネットの医療を支える場所だと思ったら大間違いだ。医クラが全部凍結されても、ネット上には医療の役割を果たす人が必ずまた現れるし、医クラ以外が発言した情報が医療の根幹を操作していることもある。そこに何の機能中枢もない。あるのはネットワークにノードとして参加する、人だけだ。あたかも、ニューロン同士に差がないように。

人がみずから「機能する場所」を気取れるのは、古典的なネットワーク学問に意図的に停滞している間だけなのではないかと思う。

(※実在する人物または現象とは関係ありません。)


***


「このエリアはね,完全に元のとおりにっていうのは無理だと思う。でも,そこに住んでいた・住んでいる人たちに心を寄せながら,その街の形を”取り戻していく”ことはできるかもしれない」

あるものに「役割」を与えて、システムの中で「回転」させていくということ。そこになんらかの障害が起こること。これまで「この場所にいる人はこの役割を担当するべきだ」と、当の本人達も信じていたことが揺らぐこと。

それが、再接続して、再編成して、元通りにはならないが、元と似たような和音の笑い声が響くように戻ること。


***


フィニアス・ゲージは、あるいは、周囲との間で再度自己の境界線を設定しなおすことで、外堀を埋めるかのように人格の範囲を再び確定させたのではないか。

その人の個性とか、唯一無二の存在理由とか、生きている意味みたいなものも、あるいは、周囲によって動的に規定されるものなのだろうか。

ぼくにとっての「周囲」には、冒頭のバイヤールの本が含まれている。かの本では流し読みを推奨していた。タイトルを見ただけで読書だとも書いていた。拾い読み、誤読、二次創作、果てには読書の末の忘却まで含めて、読書なのだという。

そのような、これまでぼくが十全ではないように思っていた読書が、自分を構成する「周囲」になるのだとしたら、これはもう、ぼくという存在、さらにはぼくの脳が映し出す現実世界のバーチャルモデルは、不連続な「周囲」、断片的な「周囲」、勘違いと深読みによって修飾された「周囲」によって外から構成された、型の中のクッキーみたいなものだということになる。

クッキーが割れても型が残っていればクッキーをまた焼くことができる。

ただしこの型、どうやら、日々蠢いているようである。


(2020.3.26  市原→西野)