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ちなみにジェットは走る岩

西野氏


かつて、「カウボーイ・ビバップが嫌いなオタクなんていません」と言った人がいました。いや、直接聞いたことはないんですが、たぶん10万人くらいは言ったことがあるはずです。10万人……はかなりいいセンでしょう。地質年代調査くらいの誤差範囲では当たっているんじゃないかな。

みんな大好きカウボーイ・ビバップには、今にして思うとなかなか雑な、でもオタクなら大好きなシチュエーションがいくつか描かれておりました。その最たるものが、ラフィング・ブルという名前の男(?)です。

彼(?)はネイティブ・アメリカン風の服を身に纏い、町を遠く離れた草原のティピー型テントに棲んでいます。たき火の前であぐらをかいて、スパイクがたまにそこに訪れるのを待つともなく待っています。そして、ふらりと現れたスパイクに、なにやら意味深なことを言う。占い師的な存在なのです。そしてスパイクのことを「泳ぐ鳥」と呼ぶ……。

本編を一切見ずに、この部分だけをbotのツイートで見た日には、すかさず「えっペンギン?」とか混ぜっ返してしまいそうです。でも、いいえ、実際にアニメシリーズを楽しんでいる人には、そのような皮肉は通じませんでした。

なぜなら、カウボーイ・ビバップはとてもいいアニメだったからです。

「いかにも名言を言いそうなネイティブ・アメリカン風味の性別不詳の人」という、中二病レベル48相当、ど真ん中ゴリゴリのベタ設定が混じっても、違和感がない脚本、ハマる絵面、ぐっとくるBGM、豪華な声優、堕ちるオタク。

もっとも、ネイティブ・アメリカン風の人に名言を言わせるとハマる、という流れは、カウボーイ・ビバップをピークに衰退したようにも思えます。やはり定型としてわかりやすすぎたのでしょうね(後述)。より正確に言うと、私たちオタクにとっては「認知しやすすぎて、かえって引っかかりがなくなってしまった」のかもしれません。


(ここは関東…そして氷点下がニュースになる地域よ…)
と認知の矯正を試みてはいますが,あれだけは,未だに慣れません。
――ネガポジどっち/西野マドカ


「引っ越し」をすると、人はそれまでくり返してきた日常が微妙に変容したことを確認し、再適応を試みます(そしてしばしば失敗して、過去を懐かしみ、あるいは苦笑します)。住む場所が違えば天気が変わり、毎日通りすがる風景が変わり、出会って声を交わす人が変わり、呼吸する空気の質みたいなものも変わる。そこで、認知をきちんとし直すことは重要ですよね。

ただし、たとえ「引っ越し」をせずとも、つまりは過去と同じ環境のまま、慣れ親しんだものに囲まれて過ごしていたとしても、同様のことは起こっているのかもな、と思います。私たちは「引っ越し」ほど大きな変化がなくとも、常に周囲にナニかしらの違和感を探して、認知を修正しにかかる。

「昨日と同じはずの街並みが、違って見えた。」みたいな話、イヤってほどよく読むでしょう? 私も書いた覚えがある。


実際、人間の脳は「差分をチェックする」ところにかなりの労力を割いています。視覚にしても聴覚にしても触覚にしても言えることで、私たちは感覚器に入ってきたシグナルすべてを常時全数認識しているわけではなく、あくまで、「変わった部分だけをチェックする」ようにできている。視野全体を見ているつもりでも、実際には風景の中の「動いて変わっているもの」にもっぱら注目をして、残りの不動な部分は脳内で仮想イメージを構築して一時保存し、常時あらたに刺激を取り込んで解析しなくてもよいように「省力化」しています。

よく考えると、私たちが日常会話において話すモチーフもまた、「変わったもの」についてのことがほとんどです。「昨日行ったカフェの内装がさー」と言うとき、

・しょっちゅう訪れるわけではない(いつもとは異なる)カフェについて
・スルーすることができない(いつもとは異なる)内装について

会話を繰り広げる。ほら、やっぱり差分のことを話すんですよね、私たちはいつだって。

逆に、「昨日も朝7時にはいつも通りの血圧115/65でさー」とか、「今日も出勤は車でいつもどおり35分かかってさー」みたいに、「いつもと全く同じであったこと」を会話にしようとはあまり思わない。そんな会話は退屈ですからね。

認知を矯正し続ける、というか、(このnoteではくり返し書いてきたフレーズでもありますが)認知を微調整し続けている感覚がある。自転車を前にこぎ続けるためにはハンドルをしっかり握って細かな揺れに適応し続けないといけない、みたいな感じです。……これは誰かが本に書いていた気もするから、別のたとえに入れ替えようかな? ……ほら、今みたいに、自分の脳から出て指先を通ってキーボードの向こうで顕現した文字に対しても、私は目から再輸入して「あれ?」と違和感を探して微調整しようとしている。



ラフィング・ブルに話を戻しましょう。私たちオタクがかつて、「ネイティブ・アメリカン風味の人に名言をしゃべってもらいたい欲」をアニメに求めてきたのはどういうことだったのか、認知の矯正・微調整というテーマから掘ってみます。

スパイクをはじめとする「諸行無常タイプの主人公」(移ろい、ゆらぎ、瞬間に命を燃やしかねない、最後まで元気でいてくれる保証がない、ハッピーエンド以外の展開があり得るタイプの主人公)が全盛となったシリアス系アニメにおいては、「そこにいて変わらないことを担当することで、かえって変化する方のキャラクタを浮き彫りにする役割」が必要であったということだろう、とまずは考えます。ドタバタコメディにもときおりアイキャッチとしてかわいい犬の止め絵が挿入されたりしますが、話数が進む毎に滅び去っていくような強い変化を描くシリアスなアニメでは、もっと強くはっきりやる必要がある。スパイクやジェットがたき火の前を訪れると、そこで「まるで時間が止まったかのように」座って、「あたかも静止した真実のような言葉」をかけてくれるラフィング・ブルという存在は、動に対する静のネガティブコントロール(陰性対照)として効果を発揮しました。

ただし、おそらく、動と静の対比目的でのみ要請されているわけではない。動かない存在が必要だ、というアンカリングポイントとしての役目に留まらず、「動かないものを掘り出して得られる言葉」こそが必要とされたのではないか。

私たちが差分を認識して語るとき、用いる言葉はもっぱら「変化を描写するもの」になりがちです。すると、動かずにそこにあり続ける、脳内で仮想世界としてほとんど固着してしまったものにかんする描写は痩せていきます。これがトレンディドラマならそれでもいいんです、役者たちは私たちが感情移入しやすいように、私たちと似た環境に暮らして、私たちと(差分以外の)共通点が多いように設定されているので、すでに私たちが脳の中で固定してしまった「動かないもの」をドラマの役者たちも同じように固定している、だとしたらそこは語られなくてもすでに視聴者との間で共有は終わっています。だったら動いている部分、偏差の部分だけを語ってくれれば、私たちは勝手に自分の外側にドラマを着込んで、「強化外骨格ごっこ」をして楽しむことができます。ギャバンが蒸着するかんじです。プリキュアが変身するかんじです。自分の周りにふわっと浮いた、薄い部分だけが入れ替わる。これを「浮薄」と縮めて呼ぶならば、トレンディドラマのいわゆる軽佻浮薄さはそこから来るのだと思います。でも、トレンディドラマは軽佻浮薄なのではなくて、「不動の部分を描写しないタイプのエンターテインメント」なのでしょう。それはそういうプロの仕事である。

でもアニメオタクは「そっち側」ではなかった。差分だけでなく「動かないでいる部分」を描けるのがアニメだと心が納得していた。そして、「動かない、変わらない部分から掘り出された言葉」がないとエンターテインメントとして満足できない体になっているのです。

そもそも論ですが、アニメの画面は、動かない部分だってきちんと描き込む必要がありますね。まあ、動く部分にセル画をいっぱい用意して、動かない部分は使い回すという現場の知恵はあるにしても、「動かない部分だからと言って描かないわけにはいかない」のです。これはわかりやすく絵の話でしたが、キャラクタ性、脚本についても言えることです。アニメに登場するキャラクタは二次元・非実在であり、どのような設定も許されるからこそ、逆に私たちとの差分がでかすぎて、「すべてが違う」。となると、トレンディドラマのように「自分だったらこうだな」と、自分にあるものを当てはめて世界の仮想イメージを完成させることができませんので、作品の中になるべくすべてを描かないと、浮薄な周辺事項を「着る本体」が不在になってしまう。アニメやマンガが、オタクが、SFはおろか日常系萌えアニメであろうとも、本編で取り上げない設定資料集を死ぬほど作り込むというのは、つまりはそういうことです。「差分以外」まで描いている。

スパイクが肉食動物のように跳ね回り、山寺宏一が初主演ボイスを炸裂させ、物語が残虐かつエレガントに折りたたまれていく過程で、「中心にいて動かずに保証する何か」を描かないと世界がふらつく。「そこは普段はあえて語らないけど、でも中心にないと困る」と思ってくれるような言葉を、私たちは自分と同じ生き物に感じるわけではなく、非実在のリアルの中からきちんと掘り出さないといけない。だからこそネイティブ・アメリカン風味をまとった「差分を一切描かずに本体だけを言い表す言葉」は必要だったのです、カウボーイ・ビバップに限った話ではなく、きっとアニメ全般において。

でもねえ、あ、これは冒頭で(後述)と書いたものに対応する話ですが、ネイティブ・アメリカンが真理を語るなんてイメージ、それこそ外野の勝手な投影であって、作ってるほうも見ているほうも、ネイティブ・アメリカンだって毎日外界の変化に対応しながら「差分を語って生きている」んじゃないかなと想像はできるわけで、ま、古き時代にはあり得たけれど今はもうあの描き方をしても「不動らしさは得られない」というか、知恵が隅々に行き渡る過程で通用しなくなってきたキャラ設定ではあります。20年前のエンターテインメントにこれ以上ツッコむのも野暮ではあるのでこれくらいにしておきましょう。

閑話休題、今の世の中にはそういう名言枠は必要ないのかというと……いえ、必要とされていますし、実際にあちこちで目にします。ネイティブ・アメリカン風味はなくなりましたけれど。では今はどういう形になっているかというと、単行本の章頭や、アニメの冒頭、エンディングなどで、哲学者や古典文学者の言葉を短く引用する「エピグラフ」あたりがその典型なのではないかと思います。あとは、「枕草子から学ぶ! 現代を生き抜くヒント」とか、「シェイクスピアには必要なことがすべて書いてある」みたいなやつ。昔の人が言っていたことの中で、時間の選択圧を超えて今にも通用する部分とはつまり「変化しない部分に対すること」なのだろうということは容易に想像が付きます。

名言とは、人びとの視座がそれぞれに違っても受け止めやすい、かつ、日ごろから差分を言語化するのに慣れた私たちが、言語化を「省略」している部分に対してなんだかうまいこと言ってるなあというものを指すのでしょう。あるいは……省略というか……そもそもほとんどの人は言語化できない(名言メーカーみたいな人はそこがうまい)。根源に近すぎて掘り出すのが難しい部分からポンと出てきた言葉。彫刻みたいですね。アフォーダンスでもいいかな。すでに世界に含まれているんだけど、掘り……彫り出す人じゃないと取り出せない、みたいな。哲学者の用いるフレーズなんてまさにそうですよね。「えっナニ? 運命彷徨? なんのこっちゃ(カッケー)」みたいな。


長くなりました。なんでこうなった。カウボーイ・ビバップやばい。フェイ・ヴァレンタインはなぜ峰不二子になれなかったか問題はまだ解決できていません。


(2022.2.4 市原→西野)