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違和感のコミュニケーション

西野ちゃん:

ヒィー ちゃん付けはキモい、やめます、変えます。


西野さん:

呼びかけ方が定まっていないのはこちらもいっしょです。さて、「認識を脱臼させる」という表現、いや確かに秀逸だけど、ぼくそれ別の本で読んだことあるよ、もしかしたらそこそこ有名なフレーズなんじゃないのかな?

と思ってあなたの手紙を読み続けて、最後にでてきた『文学を<凝視する>』(阿部公彦 著,岩波書店)という書名を見てぶっとびました。なぜならぼくが「認識を脱臼」を最初に読んだのも、間違いなくその本だからです。

ていうかこの本はあれだ、西野さんが送ってきてくれたんじゃないか。わかってて書名を後回しにしやがった。西野さんは中年を手のひらのうえで転がすのをやめてください。シャカか。


観察者に違和感を抱えさせるタイプの表現というのは、美術だけではなくて、たぶんロックミュージックとかにもあるんですよね。

変拍子なんてのはその最たる例でしょう。ギターやピアノのマイナーコードというのも、もともとはそういう文脈が与えられていたのかもしれない。整に対する不整、定に対する変、メジャーに対するマイナーは、後ろに理論が存在すればいずれ普遍的な表現となります(単なる不協和音として消えていったマイナーもあったはず)。最初は受け手に違和感を抱えさせるだけだったものにも、後付けの意味が生まれてきます。実際、今のロックシーンを見回してみると、「変拍子をキッチリ演奏する実力派バンド」みたいなのも複数あり、変拍子ってなんなんだよ、みたいな気持ちになります。

後世になればなるほど、かつて脱臼だったものは「可動域の広い、便利で新しい関節」みたいになっていくわけで、表現者は常に、まだだれも脱臼させたことがない関節みたいなものを探しにいかなければいけない、ということになります。胸骨とかを脱臼させるしかなくなる。

観察者の違和感をかき立てるタイプの「表現」っておもしろいけれど、それがなぜ起こっているのかっていう理論がおいついちゃうと、もう違和感じゃなくなってしまうのかな。それがあなたの書いていた「はかれないもの」のおもしろさなんでしょうかねえ。

でも、錯視のように、理屈はわかっていても脳が脱臼するパターンというのもあるか。

整形領域では「脱臼はクセになる」というフレーズが頻出しますけれども、認識の脱臼グセというのはかわいいような、変態のような、ぎりぎりのラインだなあと思います。


今回のお手紙の冒頭でぼくが書いた、「ぼくそれ別の本で読んだことあるよ」もまた一つの違和感であり脱臼でした。『文学を<凝視する>』の送り手であったあなたがそれに気づいていなかったとは思えないので、つまりは狙ってぼくを脱臼させようとしましたね、楽しそうだな、シャカだなーと思いました。なお、「シャカ」は本来の意味であれば「釈迦」って漢字で書いたほうが正しいんでしょうけれど、カタカナのシャカにすると聖闘士星矢の文脈になって、違和感が生じて、西野さんの側頭葉あたりが脱臼しねぇかなーと狙って仕込みました。

けれども、西野さんが聖闘士星矢に対して思い入れがあるタイプがどうかわからないので、効果は薄かったかも知れません。後の先というのは難しい。どうしたって比べられてしまう……また比較だ。往復書簡を比較以外の方法で進めていくにはどうしたらいいのかな? まあ、わからなくはないんだけれど……。

(2019.8.5 市原→西野)