見出し画像

できればずっと変わらない場所で

にしのし


その後、そちらも寒くなったでしょう。雪もちらほら降ったり降らなかったりしたのではないかと思います。

北海道は……去年ほどではないかな。積雪はひどいけれど、ひどすぎるという感じでもない。ただ、自分の肌が去年より薄くなったのかもしれないなあとは思う。やたらと寒い。マイナス8度でこれならこの先いったいどうなるのだろうと、少し不安になっている。まあ、こういう感覚自体も、日が経つにつれてどんどん変わっていく。それが12月だ。


ぼくらの目と脳は、あるものを全部見て考えるのではなく、一瞬前の光景と今とを比べて差分をチェックするほうが得意である。動いた部分だけを、明るくなった部分だけを見る。イルミネーションが付いたり消えたりしなければいけない理由がここにある。12月の目と脳はいそがしい。

葉が落ち、雪が降り、風景が変わる。マフラーを巻き、コートを厚手のものに替える。変化に巻き込まれながら自分も変化する。さらに、そこに、変わることで目を引こうとする繁殖期のアニマルムーブが襲いかかる。いつもと違う装飾、この時期だけの音楽、特別なイベント。「ほら、こんなに変わったよ、見て!」がくり返される。やっぱり12月はいそがしい。


本来は、変化しないでいることにこそ我々は根源的な安心を感じるはずである。変化とは原則的にエントロピーの増大であり、それはホメオスタシスを崩すことに繋がる。乱雑さに突進していくなんて、生命としては危険極まりない。自分という秩序がノイズに戻ることこそが死だ。

死に抵抗する我々は変化に敏感になる。

前と比べて変わることを本能的に恐れる。

恐れるあまりに何度も何度も予行演習をする。死を味見する。

地獄谷の熱泉に軽く指を付けてみる。

ガラス張りのフロアで眼前の街を見下ろしてみる。

十分に仲の良かった友人に恋を申し出る。

くさい! と思った靴下をもう一度鼻に近づける。

最後のは違うか。



変化といえばnoteもそうだ。またちょっとうざくなった。なんでこんなにしょっちゅうユーザーインターフェースを変えてしまうのだろう。居場所であろうとする気がないのではないか。雑談ブームと言われて久しい世の中で、「変わらない安心」を用意する気がないプラットフォーム。なんでそんなにしょっちゅう新しいソファを買うの? なんでそんなにしょっちゅう間接照明を取り替えるの? 目的がある人にだけやさしくあろうとする改善。ただ居ることに恥ずかしさを覚えてしまうような営業。

noteのやりたいことはわかる。ぼくのやりたいことからはずれていく。

変わったのはnoteのほうか?

いや、ぼくのほうか。

noteを使って夢に近づいていく人はたくさんいる。そういう人たちのことは心から応援したい。思惑を練り込んだ生地をぐりぐりに伸ばしてダンダン切ってジャンジャン茹でて釜揚げで提供するセルフ讃岐うどん店のように、片っ端からアイディアにさっと熱を通してファンに食べてもらうための、居抜きで使える小店舗としてここは必要な場だ。

それに、新陳代謝が激しくても、ここにもホメオスタシスはある。ぼくとは違う秩序体系、すなわち、別種の生物としてのコスモス。変わり続けることで定常を求め、記憶と同一性を保持するシステムに乏しい。

ふとnoteは動物ではなく植物寄りなのかもなと思う。




”そのときわたしが feelしたものを,なるべくそのまま伝えられる言葉をもちたい。できれば誰かと共有したい,という,欲求。
情報を共有することで生物はサバイブしてきた,という説に首肯せざるをえないと思えるような,どうにも根源的なところにある,欲求。”

除夜の鐘でも消せますまい/西野マドカ

あなたが書いたこの部分、何かが目と脳にひっかかって、それは何だろうと考えて、最初は「feel」の部分かなと思った。でも少し考えて、おそらく冒頭の「そのとき」が大事なのだと思った。

「いまどうしてる?」の「いま」の部分。

「どうして?」ではなく、「どうしてる?」のニュアンス。

「私はついさっきまた少し変わった。なぜなら、いまそこにいるあなたを目と脳が受け止めたからである」ということ。

あるいはイルミネーションを見ながらのコミュニケーション。

微弱な変化を「いま」共有する。

できればずっと変わらない場所で。

何もかも変わりまくる中にうずもれたら、目が泳いでしまって困る。クリスマスは一年の中でいちばん自分の変化に気づかれない日だ。

言葉のわずかな違和に気づけるようになりたい。

あるいは、たとえ「いま」は気づけなくても、「あのときのあの声、なにかいつもと違ってた」ということが、じんわりと後から浮かび上がってきたらいいなと思う。


人間がサバイブするために必要だったのは情報の共有。「いま」のわずかな変化に敏感であろうとささやきあうこと。さらに、自分の見えない背中や後頭部の変化をかわりに見てもらうため、ときには背中合わせで、ときには車座になって、互いを目で見て脳に留めようとした、そんな場。

この話になると二言目には「焚き火」というエモアドバイザーがnoteに2000人くらいいて笑ってしまう。ほんとに君らしょっちゅう焚き火なんて囲んでる? や、ま、いいんだけど、そもそも冬の北海道で焚き火はピンと来ない。なら暖炉はどうだ、って? あれ管理すんのめちゃくちゃ大変なんだよ。スス出るし。乾燥するし。石黒ホーマに薪を買いに行かなきゃ。

本当は、ふとんかぶってTwitterがいちばん暖かい。でも2000人の有識者たちは今日も「Twitterでは感情の共有はちょっと無理」と言いながらnoteにやってきて、毎日違う井桁を組んで、毎日違う炎色反応でカラフル極まりないキャンプファイヤーのまわりで大騒ぎ。新陳代謝によるホメオスタシス。来年にはすっかり入れ替わる2000人。樹皮のような、年輪のような恒常性の維持。あるいは扁平上皮にも似ているかもしれないと、いまさら自らの植物性を思う。


(市原→西野 2022.12.23)