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ここは陰か、日向か。


ぼくが今から書くことは、ぼくの身の回りで起こったこと、ぼくが経験したことである。誓っていうけれども真実だ。

ただし、医学論文に例えると、あくまで、
「20ほどの症例を検討したケースシリーズ」
に過ぎない。

つまり、「たまたまかもしれんやん。」と言われる可能性がある。

「それ、一般化したらいけないよね。」と言われる可能性もある。

そのことをわかった上で、ぼくは十分に気を付けて書く。

”今からお見せする文章は、ぼくといういち個人が、限定的な角度しか照らさない視界の中にたまたま映ったモノを、気まぐれに偏った脳によって加工した結果、ぼくの中でだけ意味を持ち言語化されたにすぎない、真実の一写像である。”





これまで20名程度の「インターネットで熱心に医療情報を発信したり拡散したりする医者」と直接話をしてきて、わかったことがある。

あっちの医者も。

こっちの教授も。

あそこの医長も。

みんな、広く世の中に医療情報を発信している人は、必ず(※ぼくが切り取った真実の一写像です)、本人が居ないところで、知らないうちに、顔写真をマシンガンで蜂の巣にされている



「A先生はアレだね、インターネットとかで一般人相手に医学をわかりやすくご講演されているらしいね。そんなにヒマがあんのかね。本でも売りたいのかな。講演料がっぽがっぽでしょ。どこからいくらもらってるかわかったもんじゃない。『上』がどれだけ知ってるかわからないけれど、ふつうの大学だったら、あんなタレントじみたまねをするのは見逃さないよね。きっと出世できないだろうね。そういう趣味は大学やめてからやればいいのに。」


この毒々しいセリフは、ぼくの目の前で語られた

ぼくは、「A先生」とはツイッターで相互フォローであるし何度かお会いしたこともある。実はツイッターよりも学術面での付き合いのほうが多いかもしれない。きわめて丁寧な情報発信をされている、優秀な方だ。

発言者はぼくと「A先生」とのつながりをまったく知らなかったのだろう。ぼくに向かって平気でA先生の陰口を言った。

ぼくはあまりのことに、とっさに怒りを表明することができず、文字通り言葉を失った。かろうじて絞り出した言葉が、

「ぼくはA先生と働いたことがありますが、そんな人ではなかったです」

であった。すると発言者は一瞬ばつの悪そうな顔をしたあとに、「そうか、まあ、学会とインターネットとでは違う顔なんでしょう。先生も気を付けたほうがいいですよ。裏表のある人には……」と言ったのだ。あきれてしまった。



戦場で関羽と出会った曹操が、初対面でいきなり

「お前劉備って知ってる? あいつ耳でかくてキモイよな」

と言ったらどうなるか。

関羽が正常の判断力を持っていれば、次の瞬間には曹操は青竜圓月刀によって真っ向から唐竹割りになっているはずだ。

しかし、このとき関羽は、ただひたすらにびっくりしてしまった。

「ちょ、俺に向かって、兄貴の悪口言うか、こいつ何考えてんだ……?」



付け加える。

この失礼な発言者は、ぼくが病理医ヤンデルであることも知らない。仕事相手の中で、ぼくのツイッターアカウントを把握しているのはせいぜい1割。残りの9割は私がここで何をしているかわからない。

つまり、彼からしてみると、「関羽? 劉備? おれ三國志のことよくわからんから知らんわ」ということだったのだ。ぼくは彼にとって「たまたまその日近くに居たモブ」でしかなく、モブごときが話題に出たA先生のことをよく知っているなどとは夢にも思っていなかったのだろう。




普通、陰口というのは「陰」でいうものだ。

でも、世の中の一部の人にとっては、インターネットやツイッターなどというもののほうが「陰そのもの」なのだと思う。

したがって、インターネットでの出来事を揶揄することが「陰口」になるなんて、思っていないのだろう。むしろ、

「陰でコソコソ汚いことをやっている人間をお天道様のもとでさばく!」

という、ゆがんだ正義感で語られているフシすらある。


陰口が日向で言えてしまうのだ。



インターネットで医療情報を発信していると、

「学内で変な噂を流される。」

「間近に控えていた昇進がなかったことになる。」

「勤め先に匿名のクレームが届く。」

これらはいずれも複数の人間から聞いた。特に「学内で変な噂」は非常に多い。あっちでもこっちでも同様のことが起きている。

こういう話に一切関係がないのは、ぼくをはじめとした一部の「大学に勤めていない医者」くらいのものだ。



汚い「いじめの構造」。



ぼくはどうにかしたいと思った。いくつかのアイディアを考えて検討した。でも、だめだ。「目立つ人間に対するいじめ」を撲滅することはほんとうに難しい。

今のぼくにできることは、

「インターネットでがんばる人たちの活動を冷静に評価して、ひとつひとつ、ほめるべきところを丁寧にほめる」

くらいのものである。

すばらしい活動をしているにも関わらず、日向で陰口を叩かれる、かわいそうな情報発信者たちを、ぼくは守ることも癒やすこともできないが、せめてほめるくらいのことはしたいのだ。


ついていって認めること。それが彼らの「フォロワー」である私が、唯一やれること。


……これしかない、のか。

書いていて頭を抱えてしまう。ここにもっと知性がないのだろうか。