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時よ動け俺は忘れたい

にしのし

こちらではまだ蚊を見ません。そのうち出てくるとは思います。

これを書いている日、とうとつに最高気温が30度になりました。でも、また下がると思います。次に気温が安定して25度くらいになるのは、なんとなく、7月に入ってからだろうなと思います。そうしたらよろよろと蚊が出てきます。暑くなったら繁殖をしなければならない、そのためには栄養が必要だ、という義務感だけで出てくるのです。


気温のことを書いていて思い出しました。ここ数年、5月から6月のある短い1週間に、北見や網走で突然30度を超える日が出現します。噂では、フェーン現象によるものだそうです。もしかするとフェーン現象ではなくて、フェーン現象に伴うもろもろの結果起こる、北国現象じゃないのかな、と勝手に思っていますが、そういうところを細かく指摘すると嫌われるので、タクシーの運転手さんなどと話すときには「フェーン現象ですね。」とあいづちを打ちます。

ぼくのタイムラインには北見や網走、遠軽などに住んでいるフォロワーも多くいるので、この時期になると、エアコンがないのに30度はやばい、というツイートを散見します。ただ、全国的には完全に無視されている話題です。


つい先日、北見よりも少しだけ東にある、東藻琴(ひがしもこと)という町の、とある公園の映像をテレビでみました。丘一面の芝桜で有名であり、「じゃらん」や「Hokkaido Walker」などで毎年大判の写真が掲載される観光スポットです。なお、「北見より少しだけ東」と書きましたが、ググってみると北見から42キロはあるようで、Walkerとして訪れるのは少々きついと思います。

件の公園ですが、今年は外出自粛に伴い、映像の中に人が一人もいませんでした。ぎょっとして、たった数秒の映像が網膜に焼き付いてしまいました。無人の赤紫色。

今も目を閉じると補色がぼんやりと浮かびます。そして、少し残酷なことを考えました。

このまま人がこなければ、「ひがしもこと芝桜公園」の蚊は、全国に先駆けて絶滅してしまうのだろうか。

……いや、たしか、人以外の動物の血も吸えるんじゃなかったかな。まあ、蚊が全滅してもぼくらはしばらくの間は気づかないだろうな。人間の行動自粛に伴って死ぬ動物、しかも人間に気づかれずに世の中からいなくなる動物って、どれくらいいるんだろうな、「廃墟の飼い猫」たちは大丈夫なのかな……。

緑色の残像の中でぽろぽろと考えていました。


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今はなき「ホームページ」の話を西野が知っていたことに動揺し、そういえばそんな話もしたんだっけな、と、一応の再解釈を試みる。しかしどうやっても記憶が屹立してこない。「西野がぼくのホームページを知っていること」については周辺情報が欠落したまま、孤島タイプの情報となって、脳の海の中で次の旅人を待つ。

ホームページにはいくつかのコーナーがあった。

3日に1度くらいのペースで更新していたメインのエッセイ、というか、書きたいことを自分がかっこいいと思えるすかした文体で書いていくだけの、ホームページ全盛時代によくみられた不随意な随筆に、ぼくはコーナータイトルを付けた。「Highway XXX revisited」という名前だ。ボブ・ディランのアルバムに、洋楽好きではなくてもだいたい知っている「Highway 61 revisited」という名盤があって、そこからの安易なもじりである。いつも誰に当てるともない手紙のようなものを、若さをニトロにしてずんずん書き続けた。

ほかに、Today's bookmarkというタイトルの書評も書いていた。というかこれはおそらく書評ではなくて、こんな本も読んでいる俺は医学生としてただ勉強しているだけじゃなくてきちんと趣味を持っているのだぞと、周囲にアピールするためのものであったと思う。記憶がおぼろげだが(なにせもう20年前のことだ)、第1回として選んだ本は『深夜特急』であったはずだ。

ずっと旅にあこがれ、旅の本に影響を受けることをくり返している。くり返しと積み重ね。反復。

ふと先日脱稿した17万字程度の小さな「病理学教科書」のことを思う。「くり返し」「積み重ね」という言葉を、何度も何度も意図的にくり返した。これについてはまたいずれ語る。


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先日から『深夜特急』を少しずつKindleで読み返していて、今朝、文庫版の第5巻を読み終わったところである。何度も何度も読んだはずの本だが、読むたびに「気づく風景」が異なる。あるいは当時もここで立ち止まったのだろうか、と記憶をたどっても当然思い出せない。黒歴史と共に、芳醇な読書の記憶も当たり前だが風化する。残像だけが補色のように残る。

今回の読書では、ここのところが気になった。

「旅にも、青春期、壮年期、老年期、みたいなものがある。」

旅から得る経験、感動、さらには旅路において「自分を淫する」かのように自分の内面を見続けること……。これらは、旅を続けていく中で少しずつ変化していく。旅の序盤は、何を見ても、何に出会っても、自分の中の何かが突き動かされるように感じられるが、旅が終盤に差し掛かると、おそらく刺激の総量としては変わらないほどの体験をしても、受け取り手のほうが変化しているために、序盤と同じような「動かされ方」にはならない。このことを、青年沢木耕太郎……をモチーフとした「ぼく」は人生に例えている。ここでは、旅が人生のメタファー、ではなく、人生が旅のメタファーにされている。

「ぼく」は、旅の後半、ギリシャからイタリアのあたりで、自分の旅がすでに香港やバンコク、デリーのそれとはだいぶ変質し、だいぶ「失って」しまったことに懊悩する。彼はこのあと、旅路の壮年期、そして老年期へと突入していく……。

残り1巻の読書を残して、ぼくは、この先が「老年期」だったかどうかをまったく覚えていない。わずかに記憶にあるのは、「飛光よ、」という読点つきの4文字だけ。そんな飛蚊症みたいな展開が、このあとやってくるのだったろうか……。


この文通で何度かぼくらが取り上げている「忘却」について。

黒歴史をなかったことにしてくれたり、キュアやケアの役に立つtincture(チンキ)であったりするが、多少は「旅を青春期に戻す役割」も担っているとよいなと思う。

あるいは、ぼくらはまだ進化の途中にすぎず、現在のところ、何を忘れたいかがコントロールできない程度には忘却機能が不完全なので、そういう機能までは期待できないのかもしれない。

この先進化の過程で「完全な機能」になることで、ぼくらはいつでも新鮮な旅に出直すことができるようになる、だろうか。


「いつも新鮮に感じる旅」というのは、「ときをとめている」ことにも等しい、と、突然思う。


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ホームページのその後。10年ほど前に引っ越しをした際、家のインターネット回線を更新しなかったところ、回線とセットで契約していたホームページサーバレンタルが止まり、そこですべてのデータが消えてしまった。気づいたのはだいぶあとだ。当時使っていたPCを引っ張り出してくれば中にデータはあるはずなのだが、そのPCがどこにも見つからない。おそらく捨ててしまったのだろう。

時は止まり、美しかった。


最近、SNS医療のカタチ関連であらたにブログを作ったりhtmlタグを打ったりしているのが、なんだかとても新鮮に感じる。



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ぼくは、プレパラートを見すぎてぐっと目を閉じたときに瞬間的に、夏の野山のような美しい緑のことを連想する。

昔からこのことが不思議だった。なぜだろう、文明から離れて自然に触れたいという本能だろうか、などと雑な推測をしていた。しかし、今日のこの手紙を書いていて、思うところがひとつ、新たにあらわれた。

HE染色は芝桜に似た赤紫色である。色相環で赤紫の補色を見たらそれは緑色なのだ。赤紫ばかり見てからぐっと目を閉じるとき、ぼくは単に補色からの連想で自然界の緑を思い浮かべているのだろう。そんなこったろうと思った、仕事中に急に自然のことを思い出して心を癒そうとするなんて、そんなの、ぼくのキャラクタ的にはだいぶ不自然だなあと、ずっと気がかりだったのだ。



(2020.6.4 市原→西野)