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サクラオタクに詫び状を

にしのし


札幌にも、桜が咲き始めました。例年よりかなり早い感じです。

あなたのおっしゃるとおり、うまく大型連休と桜が重なりそうなので、うれしい。心が躍る。

そしてじつは、こういうことはあまりないんですよ。今年はラッキーだ。


ぼくの記憶のかぎりで言うと、札幌の桜は、絶妙に連休を外して咲きます。

「連休後」に満開になるイメージ。友人たちもけっこう似たようなことを言っていますから、ぼくだけの印象でもないと思います。

なーんて、記憶や印象ばかりでしゃべっていると、エビデンスはないのか! と怒られるかも。では出しましょう。確かな証拠を。

1981~2010年の30年間の平均値をとると、札幌で桜が満開になるのは、

5月7日

だそうです。

ほらね! 絶妙に連休後! 体感とあってた、ほっとした。


ぼくはこれまで、ゴールデンウィークの札幌旅行で桜を見たがっている人には、やんわりと、「少し早いんじゃないかな、ま、期待しないで」と伝えてきました。見られればラッキー、くらいの感覚。


ところで、札幌の桜ってソメイヨシノが少ないんですよ。エゾヤマザクラが多い。満開のときでも葉が出ているタイプの、どこか、武骨さのある花。真っピンクにならないんです。

本州で見るような、圧倒的な、目を奪われるような一面の桜並木や、山一杯のピンク色みたいなのは、なかなか見る機会がない。

札幌に長年住んでいるぼくは、元来ソメイヨシノに親しみがないせいか、そこまで気にならないんですけれど、長く内地で暮らしていた人が大人になってから引っ越してくると、「ソメイヨシノ禁断症状」みたいなのに苦しむようです。

「あー、あっちの桜を見たいなあ。久しぶりに……。」

なんてね。


観光客向けのパンフレットや旅行雑誌を読むと、北海道内で人気のお花見スポットはどこもかしこも「ソメイヨシノが何本咲いているか」をウリにしています。エゾヤマザクラの本数とわざわざ書き分けていたりも。

いいじゃねぇかどっちでも……なんて、小さくつぶやいてみるわけです。

桜は桜だよ。





"地球の平均気温は1906年から2005年の100年間で0.74℃上昇" ってのは、夏から冬まで、北から南まで、ぜんぶまとめて平均した結果なんだろう。

米を炊くときに温度が4℃上がれば酵素の機能にも炭水化物の構造にもけっこう影響すると思うんだけど、なまじ、気温とおなじ単位で表現されているものだから、思わず「たった4℃ですよね」って答えたくなってしまう。

「ぽぽぽぽーん」のフレーズだけが10年経っても頭に残る。


これらは、ざっくりと「同じ畑」にある話題だなあ、と感じながら、あなたからの手紙を読み、お返事を書いた。

エゾヤマザクラとソメイヨシノを両方ひっくるめて「桜」と言うこと。

これも、大きな意味では、たぶん同じこと。


キーワードは「解像度を落とす」ということだと思う。


分類のワクを細かくしすぎず、おおざっぱに広げる。

系統樹を上流に向かってさかのぼる。

もっと細かく見るチャンスが、能力が、気持ちがあるのに、本能的に、むしろざっくりと雑に見る。


人間は誰しも、局所を細かく見る以上に、ざっと全体を認識することに長けている。なぜなら、広すぎて細かすぎて多すぎて難しすぎる世界を、マイクロ秒単位ごとに知覚して認識するにあたって、細部にこだわっていてはいつまでたっても知覚が終わらないからだ。

蜂にしても熊にしても、敵が飛びかかってくるときは1秒以下である。危険の徴候をスバヤク把握することが大事であって、すっ飛んでくる蜂の複眼を丁寧に観察し、熊の肉球の手触りを確認していてはやられてしまう。

ちゃんと省略しなければいけない。知覚をサボらなければいけない。まとめて、ひっくるめなければいけない。

細かい差を本能的に平均して塗りつぶし、時には無視し、あるいは一部の認識をあきらめて、ぼかしのかかった状態で全体を把握するってのは、「生きるために必要なサボり」なんだと思う。


そしてぼくらは、本を読むとき、映画を観るとき、細部のニュアンスを取りこぼさないようにオタクになって、本能に抵抗する。オタクとはおそらく「人間の亜種」であり、「生存に不必要なレベルで細部にこだわる」ことで平均的な人間から分岐する。「そこはぼやけさせておいたままのほうが世界を知覚するためには便利だよ」、言われなくても、わかってるんだけど、オタクは細部に潜り込む。


けれどもときおりオタクも目を遠くにやって考える。ぼうっと世界をぬるく見る。エゾヤマザクラもソメイヨシノも桜じゃねぇか、と、自分の育ってきた場所を、ぼやかせてやわらかくして居場所にしようと試みる。

たぶん桜のオタクからは怒られる。



ぼくらは世界と対峙するときによく省略をしている(オタクである瞬間はともかく)。でも、省略をやめてしまう瞬間もある。

それは「痛い」という感覚と向き合うときだ。ふだん、省略ばかりしていた知覚がそこに集積して、悲しみの先端が顔を出す。

生きていくためにサボれない瞬間が訪れる。


その痛みを、「飛んでいかせる」というのは、どういうことなのかな……と、ふと思う。

「いたいのいたいのとんでいけ」。

これは、脳に、「またサボろうぜ!」と声をかけるための呪文なのだろうか。


(2021.4.30 市原→西野)