悲しいと哀しいの違いは心か口か
らんねえちゃん:
コナンの話がスルーされてもコナンくんの話はやめません。だって灰原は天使だから。第1話で、コナンくんの背中側にあった本棚にミステリーがいっぱい並んでいたため、とっさに江戸川コナンという偽名を思い付いたシーンはご存じだと思います。そこでもし、本棚に並んでいたのがミステリーじゃなくて医学書だったら、青木シュロスバーグとか岩田ハリソンとか名郷カンデルとか名乗ってたんだろうな、惜しいな、みたいなことを、考えたことありますよね。あるでしょう? たった一つの選択バイアス見抜く、見た目は中年、頭脳は中年、名たんて医ロビンス! みたいな……。
ないか
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他人の感情を摂取することについては、ぼくも思うところがある。
ぼくの場合、外から摂取した悲しみがそのまま自分の何かを形作っているとは思えないことが多い。
例えて言うならば……
『ぼくの体はアミノ酸でできている。今から食べるお肉にもアミノ酸が含まれている。体を作るためにアミノ酸をとろう。だからお肉をたべよう。お肉おいしい!』
みたいな感じ。
……これだとサイコパスのお返事なので、もう少しちゃんと解説する。
ぼくが服用した悲しみは、いったん内臓で消化され、吸収され、輸送されて、同化処理を受け、蓄積される。
あなたの思い出の中に出てきた、気のよさそうな中年がネギマを頬張る姿が、ぼくの脳の中にそのまま棲み着くことはない。
ぼく自身は、その中年に、出会ったことがないからだ。
協調しきれない。同期しきれない。
だからあなたの悲しみそのものはぼくの中には蓄積していかない。けれど、要素がしみこんでいく。
悲しみは分解され、特異性を失いながら、雑多な感情と共にしまわれる。
それがあるとき、異化されて、別の構造体を作る素材になって輸送され、再構成される。
摂取したタイミング・きっかけ・必要性と、一見なんのつながりもない場面で、悲しみが「血肉」となってふたたび脳の中で存在感を増す。
そうやって、あなたの悲しみは、私にあなたと同じ感情を思い起こさせないまま、ぼくの中で出番を待つ。
誰かが誰かとしばし関わって、よい思い出を積み上げて、それがあるとき失われた出来事の、一部、カケラみたいなものがぼくの中に潜む。
あなたの書いたものが「要素」になって、ぼくにしみこんでいく。
あるいはその一部が感情の免疫系を惹起して、まるで弱毒化ワクチンのように作用し、ぼくにある種の悲しみに対する耐性をもたらすなんてことも、あるかもしれない。
けれどワクチンってそんなに簡単に作れるものではない。
他人の感情は、そのまま摂取することはできないのだと思う。
特に、ぼくらが死を語るとき、あるいは死を読むとき、究極的には、
「死んだ人は語れない。自分の死については、自分が死んでみないとわからない」
という、他人事感がある。だからぼくらは感情について、食物と同じように、いったん消化して吸収するメカニズムを用いる。自分とは無関係な世界の悲しみを、気づかぬうちに自らの内なる仮想世界に溜めていくんだと思う。
重ための風邪が治ったならそれは何よりだ。しかし、ふしぎなことに、病床であなたが流した涙の話は、なぜかそのままのイメージで、ぼくの頭の中に残った。
なぜだろう。
直前に読んだ見知らぬ中年の話が、ぼくの中に耐性どころかレセプターのようなものを過剰発現させ、そこにあなたの涙の話が結合することで、二段階を経て感情を直接惹起した、といったところか。
あくまで他人事にすぎないはずの死や生にまつわる感情を、あなたは今、どうやってぼくの脳に直接突き刺したのだろう。
あるいは悲しみとは、コンテンツを突き刺すようには刺さらず、コンテキストで絡め取ることでようやく伝わる類いのものなのか?
(2019.10.2 市原→西野)