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はじけて混ざると月が出る

マエダさん

世の中がざわついたまま3月も終わろうとしています。


うーん、「世の中がざわついたまま」なんて書いてしまった。陳腐なフレーズですね! すみません。


ここぞというときに定例となるフレーズというか、お決まりの表現みたいなものに対して、警察官のように目を光らせてしまうぼくの「分人」が、たった今顔を出しました。「いかんぞそんな表現では」。おいかりです。ぼくはぼくにペコペコ謝っています。もうしわけない。



お決まりの表現といえば……。

有名なところでは野球の実況、「きっちり送りバント」とか、「追い込んでフルカウント」などは、すっかり定番化してしまって、ひとつながりの単語みたいになってしまったきらいがあります。

ほかにも、テレビで芸能人やアナウンサーが飲み食いをレポートする際の、「すごい肉汁でとってもジューシー」とか、「外はカリカリ中はフワトロ」なども、あまりに高頻度に聞くためか、見ている方としては新しい情報を手に入れづらい言葉のように感じます。

ただ、それが必ずしも悪いことかというと……?

今ぼくは偉そうに「こういうお決まりの表現には飽きたよねー」という雰囲気を醸し出しているわけですが、実際にこれらのフレーズがテレビから聞こえてきても、ほんとはさほど不快に思いません。お決まり、というかお約束の表現は、ストレスがなくて耳に引っかからず、スッと頭の中を通り過ぎていきます。


冒頭から繰り広げてきた論の逆を行くようですけれども、もし、テレビからあまりに「聞いたこともない文学表現」ばかり飛び出してきたら、視聴者は安心してテレビの前で談笑できなくなるのではないか、という気すらします。

「さあここで2番中島、きっちり送りバント」

という野球の実況が、ある日に限って、

「テクニシャン中島、2番楽章で絶妙の展開、聴衆を虜にするような三塁線上のアリア!」

などと表現されていたら、野球よりも実況者のほうが気になってしょうがなくなるでしょう。陳腐で平凡な言葉を昨日と同じように今日も聞くことに、あるいは安穏のカギが潜んでいるのかもしれません。



などと。

マエダさんが「連想」について書かれていたからでしょうか、ぼくも気がつくと好き勝手に「連想」していました。普通、連想というともう少し概念を飛び渡っていくようなものを指すのかも知れませんけれど、ぼくはこういうかんじで「想を連ねること」をよくやっています。

ぼくが今やった連想は、この文章の冒頭で自分が書き留めた表現を「平凡だなあ」と思ったところからスタートしました。

引っかかったから想が湧いた。

衝突したから、着想した。

……これは何で読んだんだったかなあ。ベルクソンだったかなあ、千葉雅也だったかなあ、あるいはほかの誰かの本だったかもしれない。元ネタは忘れてしまったのですが、ある本に、

「思考というのは順調な時にははじまらず、何かに衝突したときにはじまるものである」

「人は何か困難に衝突すると、それをどう解釈してどう乗り切るかと思考を始める」

みたいなことが書いてあったんです。

さきほどのぼくは、「世の中がざわついたまま、なんてずいぶんと陳腐だなあ」というところでいったん思考が衝突し、そこから想が連なりはじめました。たしかに衝突は思考のきっかけです。なるほど、哲学者とか現代思想の持ち主というのは、こういうところをしっかりと言葉にしてくれるものだなあと、感心しているところです。


でも、マエダさんのおっしゃるように、哲学や思想の本というのは、ほんとうに、脳の表面をつるつる滑っていくような難解な言葉で書かれたものが多いですね。先ほどまでの自分の表現を使うなら、「陳腐でわかりやすい言葉がほとんどない」ため、ひとつひとつの単語をすべて精査しないと中身がうまくつながっていかないように思える。

なので一冊読むのも骨が折れます。「骨が折れる」は慣用句だからいいか。慣用句とお決まりの表現とお約束の違いはいったいなんだろう?


類型。テンプレ。共通認識。

マエダさんの「仙人像」はぼくの中にも容易に思い浮かびます。その意味ではお約束。しかしマエダさんの口から仙人願望が出ることについてはちょっとした驚き、あるいは衝突? いや、そよ風の吹くペースがゆらぐかのような楽しい「意外」。



『時間は存在しない』はぼくも気になっています。タイムラインでときおり見かけるからかな。ただ、ぼくは今、じっくり読み進めている本のことで頭がいっぱいで、なかなかほかの本に手が出せません。

復刊してまだ半年経っていない、井上靖『星と祭』。とてもすばらしい本です。しかし読み進めるのがたいへんです。読み口はきわめてなめらかで全くひっかかりません。しかし扱っているテーマが重い。そして、ぼくは何度も目を啓かれています。使っている言葉はいずれも平凡。難しい表現はほとんど出てきません。そして、突きつけられるものはおそらく哲学……。


ぼくは最近文学を読む量が減っています。学術書たのしい! 現代思想たのしい! エッセイたのしい! しかし、日頃から飛び回っている想を、ぐっとひとつの風景の中にのめり込ませて、またそこから爆発的に四方八方に想を広げていくような思考のためには、文学の持つ「衝突力」が一番いいのかもな、ということを思います。


あとは……鴨のすごさ……最近ほんとうにいろいろと思い知っています。しかしこの話はまたいずれ。本当はマエダさんと鴨さんと、札幌でお目にかかれるはずだったのですけれども、まあ、ゆっくりと次の機会を「ど期待」して待つことにします。

こんどマエダさんが手がけるフェアも、たのしみです! ぼくのこの記事が公開されるころには、もうはじまっているはずですね……いったい誰のフェアなのかな……。


(2020.3.31 市原→マエダさん)