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たいわしたいわ

にしのし:

比較しない、はどうだろう。ぼくは使ったことがあるだろうか。

意外とないんじゃないかな。

そのものだけを純粋に味わったり、自分だけで純粋に勝負したり、みたいなことって。

ぼくはたぶん、比較しないとものごとを評価できない。絶対音感と相対音感みたいなもんです。ぼくには絶対音感がないから、ラの音でハミングして、って言われてもできない。けれども、テレビでプロの歌手がちょっと音はずしたら気づく。そういう人は多いと思う。ぼくらは比べることで違和感に気づける。比較対象があるから差がわかる。差のないものは、背景に没入して知覚できなくなる。見て感じるためには比較が必要だ。

絶対知覚みたいなのがあれば、比べない自分だけで勝負できるのかもしれないけれど、うーん、そういうものではない気もする。

「錯覚の科学」という本に書いてあったことを思い出した。人間って何かを認知するときに、素材の情報をそのまま感覚器から取り入れるだけじゃなくて、脳内で「こうあれかし」って補正する仕組みがあるんだそうだ。目や耳、舌のような感覚器から脳に情報を上げていくボトムアップ形式の知覚だけじゃなくて、入ってくる情報を脳のほうから積極的に補おうとするトップダウン型の知覚。これは、言ってみれば、脳内にあるスタンダード的なものと比較することで知覚しているということだ。脳自体が比較を認知の仕組みとして取り入れている。

となると、人間、比較からは逃れられないんじゃないかな。そもそも脳が比較したがっているのだから。

ここまで書いて気づいたけれど、よく考えたらぼく、「錯覚の科学」より前に、エリック・R・カンデルの「芸術・無意識・脳」でもおんなじこと読んでた。カンデル先生の本のほうがずっと重厚だったし、ずっと知的だったけど、錯覚の科学のほうが平易でわかりやすかった。同じものごとを違う人が違うアプローチで記したものを比べながら読むと、理解が深まっていくみたいだ。これもまた比較のひとつなのかもしれない。


ところでぼくは、普段は比較じゃなくて「対比」って言葉をよく使う。たしかこの言葉の使い分けについては、昔、医学書院の『胃と腸』という雑誌の座談会ですごくきちんと区別していた人がいたんだけど、今、その対談原稿を探してもなかなか見つけることができない。臨床画像と病理組織像を照らし合わせるならば対比じゃなくて比較という言葉のほうがふさわしい、みたいな結論だったけれど、それを読んだぼくはいまだに「対比」という言葉を使い続けている。たぶん、対立の対(たい)という言葉が、一対の対(つい)という言葉でもあることが、ぼくは好きなんだ。


何とも比べないで、照らし合わせないで、一人ですっくと立ち上がっているような存在って、フィクションの中以外に存在しうるものなのだろうか? そもそも、エクスデスだって日本語で会話するんだよ? 無が大好きな孤高の存在も、他者を自分と照らしあわせるために、言語を使っているじゃないか。

(2019.7.22 市原→西野)