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にしのし

どうもおはようございます。呼び方は「にしのし」で固定になってきました。早く映像研のブルーレイ届かないかな。

このおてがみが公開されるのは5月です。

5月というのは月の中ではいちばん好きです。どこかのアホが「5月病」などという概念を作ってしまったのも、たぶん4月とか12月あたりの嫉妬に配慮したものだろう、と思っています。

……みたいな小ネタを書くと、「5月病という実際に存在する病態に名付けを行うことで、病態を実体化させ俯瞰して対処することができる、なのに5月病がまるで存在しないかのような、配慮を欠いた発言をしてはならない」などと言われて怒られがちな世の中ですので、コメジルシ付きで言い訳を書いておかなければいけません。

※「5月病」を「5月病などという概念」と述べたのはその場限りのノリと個人の思いつきがもたらした偶然の文字配列であり、医学的な見解を意味するものではなく、また実際に「いわゆる5月病」で苦しんでいる方々を揶揄するものでもありません。



名付けについては本当に奥が深くて。

「診断という行為もまた施しである」みたいな話と、すぐに接続することができます。接続する「ことができる」。そこを接続しない、あるいはシナプス間隙のように「肉薄するも接合しない状態」で火花だけを飛ばす状態にする、などが私は好きですね。接続しきらない。接続しそうでしない。二人の指先が互いの熱を感じられるくらいには近づいているけれどふれあうことはない。どちらかが先に少しでも口を開けばきっともう言葉は止まらなくなったのだろうけれど、若い二人はそれでもまだ無言でコーヒーカップの横にあるティースプーンをもてあそんだりしている。

診断という行為は施しであるが、5月病という名付けは果たして、……それはまた別の機会に。



あーーラクだなーーーー自分の書きたい順番に書きたい言葉だけ書いてられるのはーーーーーーー

※個人の感想です




***

これおもしろそうだね。

あと、岸先生の文章はいつもいいね。

このあたりは、本当にありがたいことに、ぼく(たち)の心とつかず離れずの、接続しそうでしきらないような部分で、うまいこと赤外線だけを送ってくれるような感覚がある……。


ただまあ、最近のぼくはとにかく本がなかなか読めない。

理由は、書いているからだと思う。ひたすら書いている。時間が空けばとにかく文章を書いている。主に教科書の執筆。これがまた、絞り出しては練り込むタイプの、ケーキの上のクリームをデコレーションするみたいな書き方をするので、とにかく「他人の文章」をなかなか入れる隙間がない。

めずらしく、医学書「だけ」読んでいる日々が、かれこれ2週間ほど続いている。ふだんはもう少し一般の書籍を読むのだけれど……。

それこそ最後に読んだ「非医学文章」は、たらればさんの寄稿かもしれない。

なぜだろうな、やはりぼくのような、鈍感力がフラーレンみたいに凝縮(?)しているタイプの人間であっても、平時と違う時間割で過ごしているとどこか日常が狂ってしまうということなのだろうか。ぼくは今、エネルギーの多くを、医療に振ってしまっている……。




医学書の話をするのもちょっと疲れた。ここはバイヤールに倣って、「最近は読んでいない本の話」をしよう。


少し前に、カレル・チャペックの『長い長いお医者さんの話』を、「かも書店」で買った。いい本だった。最後ふしぎなことに泣けた。そして、ずいぶんと昔に読んだ「園芸家」の本のことを、ぼんやりと思い出した。同じチャペックの作だということはしっかり覚えていた。

なんという書名だったかなあ。とりあえず検索してみた。そしたら、これがひっかかった。

ところが、ぼくが読んだのはこの装丁ではない。おかしいなと思っていろいろ探していたら、ようやくこれを見つけた。

ああ、表紙はこっちのバージョンだった。これだこれだ。

……「一年」と訳した本と、「十二ヶ月」と訳した本がべつべつに出ていることを、ぼくは知らなかった。もしやと思って、もう少し広い検索をしかけてみたら、このようなものも出てきた。

こちらは「の」がない。


カレル・チャペックに対して三人の翻訳者、みっつの出版社が、三種類のタイトルで本を出していた。

こういうのって、権利とかどうなってるんだろうな、ということを、まずは考えた。でもまあそういうお金の話はとりあえずよくわからないので置いておこう。それよりも、今ぼくのシナプス間隙でざわざわしている内容を、がんばって言語化する。


翻訳書ではよく、「○○訳バージョンが好きだ」というトークを目にする。チャンドラーのアレを村上春樹が訳すとどうだ、みたいな文章って、たぶん2400回くらい読んだことがある。「原文が一緒でも翻訳者ごとに違う物語になる」というトークはみんなの気を惹く。

で、翻訳者が違うとタイトルが微妙にずれることがある、というのも、知識としては知っている。

ただ、今回感じていることは、おそらくもうちょっと別種の話で。

「タイトルを微妙に変えて出すこと」は、インターネットで勝手に関連事項が接続されていく時代において、ちょっと特殊な意味を持つのではないか、ということをふわふわ考えていた。


Googleでは「玄米みたいな名前」と入力しても米津玄師がサジェストされる、というのは極めて有名な話だが、似たようなことはいっぱいある。たとえば「ながもとゆうと」と検索して最初に表示されるのが長友佑都であるとか、「映像研には気を付けろ」と検索して最初に表示されるのが「映像研には手を出すな」であるとか、「崖ぐらしのアリエッティ」だと「借りぐらしのアリエッティ」が出てくるとか、こういう、「曖昧な記憶」を検索アプリが修正してくれる機能を、ぼくは日常的に使っている。

何を言っているのかというと、現代においてぼくは、

「まあ記憶があいまいでもGoogleがなんとかしてくれるだろ」

という甘えを抱えて生きているのだ。これはおそらく間違いない。


今回、かつて読んだ本が『園芸家の十二ヶ月』であったにも関わらず、「ええと、確か、園芸家の一年、みたいなやつ……」というあいまいな検索をして、結果的に『園芸家の一年』を実際に見つけ出してしまい、そこでぼくはひそかに混乱した。

「あれ……記憶と違う……けれど……ネットが出してきた本だし……こっちが本当だったのかな、記憶が歪んだのかな」



似た名前のものを世に出されることで、違いを楽しむ好事家達は、見比べて遊ぶかもしれない。

しかし、大多数のものに対して瞬間的にそこを通り過ぎるだけの、ぼくのような一期一会型のあっさりパーソンは、優しく正確すぎるGoogleによって脳を甘やかされながら、記憶の中で言語化せずに抱いているものを、そのままよしとして放っておいている。


別にGoogleが悪いわけでも出版社が悪いわけでもない。

「そういう技術世界」に直面しているぼくの脳の問題だ。

ぼくの脳は、環世界によって、「退縮」しつつあるのではないだろうか?



ヒトは四足歩行から二足歩行になる過程で、多くの臓器を変化させた。脊椎のカタチ、虫垂、骨盤、そして脳。

同様に、一脳思考から多脳思考に変わったヒトは、おそらく一部の臓器……というか脳そのもの……を変化させている。

進化はそんな急速には起こらないよ、と訳知り顔で指摘する生物学者もいるだろう。でもぼくは脳だけは別だと思う。脳のハード的な部分は確かにほかの臓器と同じスピードでしか変化しないと思うけれど、ソフトの部分、あるいはネットワークをどのように使うかの部分は、「進化」するのに何千年も必要としない気がする。

なお生物学的に適者生存的な変化は「進化」と呼ばれる。萎縮、退縮しているからと言って退化とは呼ばない。

ただ心情的にぼくの脳に起こっているのは退化であると言いたい。小さく垂れ下がるだけの虫垂が、いかに免疫機能を持っているからといって、「進化」と呼ぶのはぼくの感覚にはマッチしてこない。同様に、ぼくの脳のどこかは、おそらく虫垂的に萎縮してきている。

特に、過去をきちんと覚えておこうと命じる、記憶の中枢みたいなところが、小さく小さくなりつつあるような気がする。

それはとてもまずいのではないか。

死に別れた家族たちの思い出などを急いでひっくり返して、虫干しなどをしてみる。

この先もしぼくが、祖母の思い出を検索するようになったら、それは何か、とても、その、おしまいだ、と思うのであるが、脳をかいかぶりすぎだろうか……。


(市原→西野)