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記憶と残像行ったり来たり

にしのし

5月はいいですな。気候的に、一番好きな月です。

札幌の5月はまだまだ朝方肌寒く、12,3度くらいの日もあり、上着がいるかいらないかと考えながらエイヤッと車のエンジンをかけるかんじです。

なお蚊は出ません。ブラキストン線より北では、5月の蚊はゴキブリ、マンモスと共にほろびました。いいでしょう。


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「記憶の中の事象が都合良く(あるいは悪く)作り替えられる」ことは、脳のエラーではなく、機能なのかもなあ……と、やや乱暴な仮説を思う。

以前に、悲しみを乗り越えるにはどうしたらいいか、というテーマで、数通やりとりをしたことがあった。

あのときも、ぼんやりと考えていた。

歌によく言う、「時間がおくすり」的なあれ、がっつり傷を負ったら時が癒やしてくれるのを待つしか無いという、最大公約数的な「キュア」のかたち。

時の癒やしの本質って、記憶が都合良く改変されるまで待つ、ってことだったりしねぇかな、と、ドライな分析をしている。このことは最終的には書かなかったかもしれない。



ふと、免疫のことを思う。

Bリンパ球が抗体を産生するとき、イムノグロブリンをコードする遺伝子を「めちゃくちゃに組み換える」ことで、抗体の多様性を確保して無数の外的因子に対応する。

人体がホメオスタシスを保つために採用したメカニズムの中に、組み換えによって外敵に応答する、というのがある。


今、思わず「外敵」と書いたけれど、人体がダメージを受けるのは外部から来る敵だけではなかろう。

人は内なる思い出からも、文字通りダメージを受ける。内敵とでも言えばいいだろうか?

イタタタ、チリッ。


ぼくは、人体が、「内敵から身を守る」ことをも重要視していると感じる。

そこでは、外敵に対するリンパ球のように、「組み換えによって多様性を確保する」メカニズムが働いていたりしないだろうか?

記憶の中の事象は細部がどんどんあいまいになる。

それどころか、コアの部分ごと入れ替わっているときがある。

これは、記憶が自分にダメージを与え続けないように、人体が進化の末で手に入れた、「内敵に対処するための組み換えメカニズム」によるものだったりして。


出来事と感情って,記憶される場所というか,想起する際に接続されるネットワークが,きっと微妙に異なるんだろうなあということです。……というか,もしかして感情はそもそも「保存されるものではない」のでしょうか。

いずれにしても,事象と感情の経路がそんなふうに「別立て」になっていることには,進化のうえでどんな意味があったのかしら……。ほんのりとした焦燥感を覚えながら,そう不思議に思うのです。


ほんとうは、出来事(事象)のほうこそ保存されなくて、どんどん組み換えられていく。そして、あるとき事象に光が当たった瞬間に、心象のスクリーンに焼き付いた影、残ってしまった影、そっちが感情だったりしねぇかなあ。別立てというか、残像。

それこそ「焦燥感」っていうじゃん。あきらかに焦げている。


例え話で逃げるのは、メカニズムを考え付いていないときです。


(2020.5.21 市原→西野)