Pretendも出てきた
にしのうじ:
ZAZEN BOYSの「asobi」という曲は年ごと、ライブごとにアレンジが変わるんですが、2009年バージョンとかすごい好きです。
「ポテトサラダ」はおっしゃるとおりで日本酒が飲みたくなる曲だと思います。というか歌詞で吟醸酒飲んでる。ところで、バーに合う曲はクラシックやジャズみたいな風潮がありますが、個人的にバーで一番聴きたいのは「カントリー」なんです、あまりこの話を人前でしたことはない。そして、カントリーもしくはカントリーに由来を持つ歌手を流してくれるバーってあんまりないんですよね。せいぜいシェリル・クロウまでかなあ。レイチェル・ヤマガタがかかってるバーとか行きたいなあ。バー自体、もうだいぶ長いこと行っていない。結局落ち着くべきところに落ち着いてしまう。焼き鳥、土手煮、きんぴら。
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敷衍とextendの話は大変興味深かったです。それが頭に残っていたことがきっかけとなり、ちょっとした邂逅みたいな体験をしました。
前回のお手紙をいただいたあと、『思弁的実在論と現代について 千葉雅也対談集』(青土社)を読んでいたら、敷衍という言葉がたまたま出てきたのです。そこを読んだ瞬間、extendという言葉がページの外から敷衍と書かれた文字をめがけてとびかかってきました。このとき、"-tend"のつくほかの単語をいっせいに連れてきたんです。Attendとか。Contendとか。Intensiveとかね。バチンバチンバチンって、次から次へと別の単語が着弾していく感じでした。
そしたら、敷衍という言葉が使われていた文章が、めっちゃくちゃに豊潤になったんです。意味が数倍に膨らんでしまった。「あっ、必要以上にわかった!」となった。
これにはものすごい驚きました。あの瞬間、ぼくの脳は光っていたと思う。
ぼくはもともと、読書の際には、ひとつの言葉が持っているニュアンスの深みみたいな部分にひっかかることはあんまりない方です。「言葉の表層部」だけをさらって、猛スピードで文字を後方に押し込めていくような読書をしている。
でも、今回の、敷衍から意味がextendしていった読書体験はすごかった。一行読むのに40分くらいかかったんじゃないかな。
この読書は楽しいなあ。けれどもこのペースで本を読むとぼくの脳は焼き切れてしまうと思います。それでもいいかもしれないけれど。
ひとえにあなたのおかげです。どうもありがとうございます。
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ベルクソンの『物質と記憶』を読んでいる。ちっともわからない。おもしろいくらいに何を書いているのかまったくわからない。
わからないなりにも言葉を拾っていく。
意識、あるいは記憶は、外界からの刺激に対して反応「しない」ために必要なものなのだ、というニュアンスのことが書いてあった。
ほんとうにこの解釈で合っているかはわからない、もしかしたら誤読しているかもしれない。でも、ぼくはそのくだりがとても好きになった(ベルクソン自体はきらいだ。性に合わないし、わからないことばかり言う。おまけに、まだあの「有名な円錐のくだり」までたどり着いていない)。
「感覚の入力 → 危機回避動作」。
単細胞生物の細胞膜に何かがふれる。ぴくんと反応する。
チョウチョやバッタに触れる。びくんと逃げる。
誰かがぼくに触れる。びくんとおどろく。
どんな生物も、このような、入力から出力へとつながるプロセスを持つ。人呼んで、条件反射、などという。
ところがここで、意識があり記憶を持つ人間は、「知っている人」に肩を叩かれても、おどろいて振り向いて反射的に回し蹴りで攻撃したりしない……すなわち、危機回避行動を「とらない」ケースがある。
意識の役目とは、記憶の存在意義とは、「過去を参照することで、敵じゃないとわかる」ことにある、というわけだ。ははぁー。ぼくはここがすごいおもしろかった。
意識も記憶も、自分の味方を覚えておいて、反射的に傷つけないためにあるのだとしたら、それはすごい、すばらしいことだ、かもしれませんね。
なおぼくがたまに書く「それはすごい(略)」の部分は、ZAZEN BOYSのボーカルである向井秀徳がナンバーガール時代に、SAMURAIという曲のオープニングMCでしゃべった有名な「噛みセリフ」である。堂々と噛みながら読むことが望ましい。
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忘却のプロセスというか読書術の本、よかったら紹介してください。その本のおかげでベルクソンを読めるようになったら、それはすごい、すばらしいことだ、かもしれませんね。
(2020.2.13 市原→西野)