ホームランを記載する方法とは?
ここに、「ピッチャーがボールを投げてバッターがそれを打ち、ボールがスタンドに入った」という「ひとつの事実」があるとする。
守備側は、これを悲劇とみなす。
ピッチャーは、なぜ自分がホームランを打たれたのか、過去を振り返って、悩む。ときには昨日の晩に食べたものにまで後悔が及ぶこともある。
キャッチャーも一緒に責任を感じる。配球の乱れを反省し、ピッチャーの球威が落ちていたことを早めにベンチに進言するべきだったかもしれないと思ったりもする。あるいはピッチャーに責任を転嫁することもあるか。
守備側のチームを応援している客たちは「実はファールだったのではないか」「バッターがベースを踏み忘れないだろうか」などと、逆転のストーリーを思い浮かべつつも、徐々に失望と折り合いをつけていく。
一方で、バッターは栄光を反芻する。ピッチャーの投じたボールが自分の思ったとおりのコースに導かれていくさまをスローモーションのように思い出す。インパクトの瞬間は、ゴロやフライのときに比べるとむしろ腕や手首に抵抗がほとんどかからなかった、なんていう、どこかで読んだ漫画のセリフを思い出すかもしれない。
打者のチームメートはさまざまな物語の中にいる。自分に勝ち投手の権利が得られそうだとはしゃぐピッチャーもいるし、自分のミスで失点したのが帳消しになったと喜ぶ者もいる。ポジション争いをしているライバルはひそかに悔しがるかもしれない。
攻撃側のチームを応援している客たちは「あいつは打つと思ったんだよ」「ホームランが見られてラッキーだったなあ」などと、他者の成功に自分の感情を重ね合わせながら、歓喜をシェアする。
ここにあるのは同じ「ホームラン」という「ひとつの事実」だ。でも、それに関わる人間ひとりひとりがその事実をどう捉えるかは、おのおのの立ち位置によって大きく異なる。
「呆然と見送るボール」と、「高く弧を描くボール」。
「痛恨の一瞬」と、「会心の一瞬」。
ひとつの事実に、まるで違う表現が用いられる。
素材は同じでも、ストーリーが異なる。
こうやって考えていくと、「ひとつの事実」としてホームランを記載すること自体が、意外と難しいことに気づく。
そこにホームランがあるとき、ぼくは瞬間的に、「誰かが喜んで誰かがくやしがったろうな」と、他人の感情を紐付けてしまう。これはほとんど自動的に起こる。「ただバットにボールが当たって飛んでいった物理現象」と考えるには、ぼくの脳内で過去に「ホームランにまとわりついた印象」が強すぎるのだ。
もちろん世の中には、「野球に興味が一切ない人」もいる。しかしその人にとっても、ホームランはやはり意味づけがされていると思う。
ここはちょっとめんどうなニュアンスになるけれど、「野球に興味がないまま生きている」というその人のストーリーにおいて、ホームランというのは、「どこかに大騒ぎする人はいると知っているけれど、私にとっては特に感情を動かされない出来事」という色づけがされている。
「解釈を一切伴わない事実」というのはどれだけある?
哲学をやればいろいろ考察が出てくるのだろう。
ただ、少なくとも、ぼくらが日記に書けるレベルの「事実」はどれも、解釈と不可分なのではないか。
「病院で寝たきりの患者」
この一文を読んで、ぼくは「家に帰りたいだろうに、かわいそうに」と解釈を加えてしまうことがある。
「家に帰りたいのに帰れない、病院で寝たきりの患者」
という事実がそこにあると思い込んでしまうことが、ある。
人間の立場ごとに、事実にはさまざまな解釈がまとわりつく。
でもそのことをぼくは忘れがちだ。
ときにぼくは、
「西洋医学が効かないと思い込んで、ニセ医療にだまされて、結果的に多額の金銭を無駄に失い、最終的にはまた西洋医学に戻ってきたけれどもう手遅れだった、かわいそうな患者がいましてね。ええ、これは事実です」
などと言いがち。
ここ、言葉の使い方として、強く自戒しなければいけない気がする。
解釈を伴わない事実なんてものはほとんど存在しない。「かわいそうな患者」がいい例だ。
「かわいそうな患者」とは、ぼくの立場によって自動的に加工された事実の缶詰めであることを知る。
「医療におけるコミュニケーションエラーを防ぎたい」と、ぼくらは大上段から語る毎日。
誤解を生まず、誰にとってもやさしい医療情報を届けたいと願っている。
ただ、あらゆる医療情報は、届けた先で異なる解釈にまとわりつかれる可能性をもつ。
複数の解釈に耐えなければ、「誰にとってもやさしい医療情報」にはならない。
少なくとも、「バットにボールがあたってスタンドに入ればホームランです」ということだけを説明して、「事実を説明したのだから、適切な医療情報を発信した」とは言えない気がする。
ここにひとつ問いかける。
攻撃側にも、守備側にも、双方の物語に役立つような、ホームランの記載方法というのはあるだろうか? あるとしたらそのやり方は、医療情報を記載する上で、応用可能だろうか?