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浮気文通

西野マドカさん:

本年もよろしくお願いいたします。

あらたまことほぎ。あらあらたまたま コトコトほぎほぎ。

後半はカレーっぽくていいですね。


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自著(『どこからが病気なの?』(ちくまプリマー新書))についての言及、誠にありがとうございます。

本書を作った経緯を思い出してみます。

昨年の7月上旬に担当編集者さんが連絡をとってくださっています。最初はFacebookページへのメッセージでした。そこからメールで「病気とはどういうことか」というテーマをいただきました。

もうすこし詳しい小見出しをいただけますか、とお願いしたところ、2週間弱で「仮目次」が送られてきました。7月15日のことです。そこから執筆開始。

8月23日には原稿ができあがり、9月末に入稿。そこからゲラみて、イラストレーションのご相談、カバーの選定、ちくまのPR誌への推薦文を書いて頂く方へのご連絡、ほかもろもろ終わって12月末にできあがりました。

今回は早すぎます。

その理由ははっきりしています。

ぼくはずっとこの本を書き続けてきていた、ということです。ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっとあちこちに書いてきたことを、あるいは書かずに頭の中で組み換え続けていたことを、組み直すだけで本ができました。

そりゃ早いですよね。

ほとんど直しもありませんでした。

一番たいへんだったのは、医療系の学生向けにすでに書き上げていた「病理学」の教科書と、「概念をだぶらせながらも、表現は重ねず、理解に必要な知識量を少しずらす」ことでした。

同じような文章を何度も読まされたら、買った方はお金の無駄だと思うでしょう。そしたら本が嫌いになるかもしれません。そういうのはいやです。

中学・高校生はちくまプリマーを読んでくれ、高校を出た人には病理学の教科書を用意するからね、と、あとで教科書が出たときに、胸を張って言えるように、「重複表現のチェックをする」のに一番時間をかけました。


今回「ちくまプリマー新書」というレーベルから出せたことがとても大きいなと思います。中学校や高校の図書室、公民館、地域の図書館などに配備されて、本の虫たちに少しずつ読んでもらいたい、そういう本です。


クラフト・エヴィング商会の装丁すてきですね。表紙の模様、ぼくは勝手に、「群像劇をデザインしたもの」だと思っています。まあ直接そう聞いたわけではないんですが。ぼくはそうやって想像しています。


……自分語りが過ぎましたね。あなたには聞いておいてほしいなと思ったものでね。


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あなたの書かれていた「余白」について、2つほど同時に思い出したことがある。

ひとつは、毎度おなじみ『本の雑誌』に連載されている「マルジナリアでつかまえて」という連載のこと。著者は山本貴光さんです。

本の余白に何かを書き込んでしまう人、あるいはその書き込み(マルジナリア)のことを、毎回さまざまなモチーフで、さまざまな角度から繰り返し掘り続ける、仏師の彫刻みたいな連載。

つまりは「余白を有効活用しているひとたち」の話だ。本の余白部分や、行間に、詠み人知らずな書き込みが無数になされている古本を見たときの、「うわっ触っちゃった!」感たるや、思い出すだけでぞわっとするものがあるけれども、なぜ本を読んでそこまで書き込んでしまうのか、誰が何のために何を思って書いているのか、しかもそこまで愛した本がなぜ古本屋にあるのか、みたいなことを深掘りしていくと、いつしか、「思考の余白」みたいなものの正体が見えてきて……まあぜんぶは見えてこないけれど……おもしろい。

でもこれは、きっとあなたが言いたかった「余白」の中心ニュアンスとは少しずれるだろう。

言葉にした瞬間、意味は輪郭をもっていびつに固着する。


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「余白」で思い出した、もうひとつ、こちらが本命だ。最近、というか、昨日読んだ本の話。

これはねえ、マエダさんが教えてくれた本だね。

『本を読めなくなった人のための読書論』に書いてあったことは、あなたの引用した京極夏彦講義録とも、あなた自身があなたの言葉で書いたこととも、原子核と電子雲の関係みたいにゆるくリンクしていておもしろかった。

余白の多い本。

そう、それって……


いや、この本の感想はやはりマエダさんに送らないとだめかな。教えてもらった人と話さないと。いっけね、文通が混線しちゃった。リアルでこれをやらかしたらいつか刺されるね。

でもまあ本を読むってそういうことな気がする。

思考どうしを交わらせようと思ったら、ふつうぼくらは、意識の中から表出してくる記号を用いて、意識の一部分だけを不器用に交換していくしかないと思いがちだ。

けれども実際には、言葉のような不自由な記号だけじゃなく、「余白を重ねる」こともあるんじゃなかろうか。

一人で黙ってある本を読んだあと、脳に向かって押し寄せたゲシュタルトのすべてを言葉にすることなんて絶対にできない。

でも、その本をそのまま誰かに「これ、読んでみてよ」とやることで、もしかしたら余白ごと、何かもうすこし大きなコトバを用いて交歓することができるのかもしれない。

そして余白ってのは持ち寄る楽しみがあるんだよ。

言葉をいっせいにしゃべると聖徳太子や鳳雛以外は聞き取れないだろうけれど、余白を持ち寄って重ねても大丈夫、それはまだ透明なままだから。みんなであれこれ光にかざして眺めることができるから。


という言い訳。


そういえばあなたは昔ぼくにショーペンハウエルの『読書について』を送ってきたよなあ、みたいなことも追加で思い出している。今度、マエダさんにもすすめてみるか……。


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1月7日に食べた物を思い出しました。この日は夕方忙しくて、移動をしていたので、サンドイッチを食べました。レタスが入ってたから一草粥だ。いわゆる単芝。粥ですらねぇけど。本年もどうぞすこやかに。


(2020.1.16 市原→西野)