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ざっくり感想 劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel] III. spring song

今日見ました。
非常に良かったですね。
何が良かったか?
完結したこと、4ヶ月以上待ちましたが遂に上映されたこと、ライダーvsセイバーオルタの超クオリティの映像を見れたこと、SNをリアルタイムで知らない若い世代も見に来ていたこと、などなど……
すべてが良かったと思います。

なので、正直私の感想を書き記す必要はどこにもないのですが、個人的に印象に残っている点を書きます。

私は綺礼が一番好き

Heaven's Feelは士郎が己の理想=切嗣から離れていく物語ですが、同時に綺礼が抱いていた疑問に対する決着をつける物語でもあります。
むしろ、私としては綺礼から見た視点こそが最も深く感情を揺さぶられる物語です。

善に喜びを覚えない欠落者=生まれついての悪であり、それに自ら疑問を覚え、一方で綺礼の行動は結果的には聖人そのものであるという矛盾。
アンリ=マユの誕生は己の悪性に対する疑問を解消するチャンスでもあり、聖職者としてはあらゆる生命の誕生を祝福するのは当然のことでもあります。
人間の自己とは生まれ持った性質と、人生の経験から成るわけで、綺礼にとってはそのいずれもがアンリ=マユの誕生を肯定するわけです。
その全人格をかけた切実さがあるからこそ、最後に士郎と殴り合うに値する敵と言えるわけです。

綺礼の持つ破綻、すなわち、「社会で善しとされること」と「己にとって喜びを感じられること」が対立すること。
多くの人にとって当然のことが自分にとっては耐え難い悪であったり。
逆に自分にとっての当然のことが他人から悪と咎められたり。
誰でも多かれ少なかれ、そういうことはあると思います。
私もそう感じる瞬間はあります。
他の人より少し多い気もしますが、比べようがないのでわかりません。
それが士郎やその周囲の人物よりも、綺礼に共感を覚える理由でもあるでしょう。

綺礼が人生をかけて問い続けた善悪の所在とはどこにあるのか?
多数派が善で、少数派が悪でしょうか?
しかし、時代によって大衆の定める善悪は変わります。
最近では、現代の価値観で古い作品を糾弾する事件がそれを如実に示しています。
そもそも、宗教的な価値観に基づけば、善悪とは不変であるべきです。
究極的には善悪とは無意味であるのかもしれません。

綺礼自身が自覚していなかったのかもしれませんが、本当の問いとは、妻のクラウディアに対する愛が本物だったのかどうか、なのかもしれません。
死の間際にあったクラウディア自身から肯定されても信じられないものを、どう証明すれば良かったのか?
命を賭けてアサシンと臓硯と戦う時に走馬灯のように蘇った記憶こそ、彼にとって最も大事な記憶なのだとすれば、ですが。

Zeroなども通じて綺礼の一生がより明らかになることで、彼の最期を見て、より多くのことを感じるようになりました。

余談ですが、綺礼が象件に向けて放つ、洗礼詠唱の「この魂に憐れみを(キリエ・エレイソン)」
当時10代の私にとっては中二病を過度にくすぐられたシーンでもあり、映像で見れてよかったです。

映像化された若い頃の間桐臓硯

臓硯の若い頃(ゾォルケン)も出てきましたね。
どうやらFGOで既に出ているらしいですが、私はFGOは未履修なので今回初めて見ました。

聖杯戦争の起源も映像で見ることができましたが、最初の御三家の中でゾォルケンだけやたら人間じみている、魔術師らしくない、情に深い様子が描かれていましたね。
間桐は御三家の中では一番「人間くさい」のですが、それ故に魔術師としては没落した……ということなのでしょうか?

しかし、あれだけ人間味のある臓硯が鬼畜ジジイになるとは。
時間は人を変えるということでしょうか。
仮にですが、人類の寿命が300年とかに伸びたとしても、精神がそれに耐えられず先に腐敗する……のかもしれませんね。

当時はトゥルーENDの意味をわかってなかった

Fateは非常に長いストーリーかつ、HFは今までのルートと毛色が違うこと、開示される設定が非常に多いことなどから、当時は結末の意味がわかっていなかったように思います。
あらすじを (15年ぶりとはいえ) 理解した上で見ている点と、劇場版の中で良いタイミングで第三魔法に関する説明があったのも理解の助けになったと思います。
正確な解釈はわかりませんが、ノーマルEND (士郎が帰って来ない) とトゥルーEND (士郎が帰ってくる=劇場版と同じ) の違いはイリヤの第三魔法の発動にかかっているということと理解しました。

厳密性を欠くかもしれませんが、私の理解は以下の通りです。
・士郎の肉体は度重なるエミヤの左腕の行使で死滅しており、綺礼との戦闘を終えた時点で生還は不可能
・イリヤが士郎の魂を第三魔法により現世に留めた(通常、魂は肉体が朽ちると消滅する)
・蒼崎橙子の人形に士郎の魂を移すことで肉体を得た状態で士郎が復活した

士郎が第三魔法によって魂だけになった状態は一種の不死であり、少なからぬ魔術師にとっては理想そのものなんでしょうが、士郎にとってはそれは全く無意味であったと。

余談ですが、Fateシリーズでは、「希少な能力・地位・状態をそれを全く望まない人間が得る」ことが多いですよね。
その逆の「自分に適性のない願望に執着して身を滅ぼす」こともまた然りで。これは間桐のお家芸ですね。
人生はそういうものと言われればそうかもしれません。
何故そうかと言われれば、「ないものねだり」がその一つですし、後は適性と願望は無関係に芽生えるのかもしれません。
そうであれば、無作為に選んだ鍵と鍵穴が一致するようなもので、適性と願望が一致する確率は限りなく低いはずです。

見終わった後に

劇場を出る際に、私の少し前の若い子達が、「結局士郎って死んだの?」「最後にいたのって幻覚なの?」みたいな話をしていました。
見た目からも、おそらくはSNをリアルタイムで体験していない世代なのでしょう。
彼らが改めてSNに(もう十分に古い作品でしょう)触れる機会があったこと、世代を通じて共有できる作品があるということを嬉しく思いました。

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