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おれの形のセラミック


ねことうふ先生ならびにスタジオバインドの皆様ありがとうございます、素晴らしい漫画とアニメを作っていただいて。この三ヶ月、夢顎んくは幸せでした。とてもね。


お兄ちゃんはおしまい!、とうとう今夜で最終回。どうしよっかなあ。明日からのことである。まったく、このアニメときたら生きていく理由として確かな手応えがあった。朝にシャワーを浴びたとき体から立ち上る匂いも、友達の家に泊まった時かけてくれた重たい毛布の感触も、果たして実感として受け入れていた。失って初めて、よし!じゃあ生きるのやめるか!とはならないが、通帳にサンチュ巻かないが、(なってなるものか)、しかし代替できるものを見つけなければ、いつまでたっても俺は単なるカリスマだ。本当に終わっちゃったらどうしよう。根性論に立ち戻ればまだ行ける気がする。観なければいつまでも終わらない。終焉を知覚するのは俺なのだ。かつて同じ感覚を味わった。山口舞子先生の「もうすこしがんばりましょう」という漫画にハマった時、終わるのが惜しくて最終巻だけ買わなかった。未だにオチをしらない。むつは。ひよは。ふみは。かやのは。いいんちょは。高校を卒業できたのか。俺が最終巻を読むという暴挙に出ないかぎり、彼女らは天高く高校生活を謳歌し続けるだろう。あっ。やばっ。w/i/k/i/p/e/d/i/a(ジミー・ウェールズ避け)に書いてたわ、エピローグまで。

見なきゃよかったな……



☆ミ ←黄昏流星群の場面転換



アニメにこれほどのめりこんだのは初めてかもしれん。どんぶりの底の文字が読めてしまうほど堪能した。気づいたことがある。やっぱオイラ、やさしい世界が好きだな。嘘でもいいから世界よやさしくあれ。嘘はいけない。しかし、かような優しい世界においてもお兄ちゃんの心は折れてしまったのである。世界の如何にかかわらず精神には悪い方向へ傾くだけの遊びがある。お兄ちゃんはおしまい!という作品は、絶望の淵に追いやられたひとりの青年が幼い女の子の立場になることではじめて、世界の優しさに気づいていく物語である。同様の気づきは別にやさしい世界でなくても適用できる。おにまいに比べりゃ我々の生きるこの世界はやさしくない。すこぶるやさしくなく、道の真ん中にオールドファッションがぶち撒かれ、泥に塗れている。そんな世界でもやさしさはある。たとえば、ぶち撒かれたのがオールドファッションであるというやさしさが。


今なお俺は孤独だが、孤独であろうとするのは本意では無い。気の合う友人と心地よい音楽と美味い酒があれば、こんなライター活動なんかしなくて良かったのだ。全てをかなぐり捨て、お前の胸の中飛び込んで、なんだこれは甘い匂いがするけれど。果たして。孤独ではない俺にいったい誰が価値を見出してくれるというのだ。俺そのものを、俺塊(おれくれ)を、誰が愛してくれるのか。そこを信じきれない。どうもな。


答えは明日出そう。おにまいのアニメの無い世界で俺がどう生きていくのかを、指の隙間から眺めてくれ。


前に進む理由をくれ