【小説】 愛を、建てる - 上巻

第1話

「クソ、また外れた」
ぐしゃぐしゃと髪の毛を掻きむしって、テーブルの上の缶ビールを飲み干す。アルコールがすっかり抜けたぬるい液体は、喉も心も潤おさない。床にはコンビニ弁当の容器と菓子袋が無数に散らばり、なんでこの家に住む自分がゴミにまで気を遣って避けて歩かなきゃいけないんだと思いつつも、片付けようという気が一切起きない。

最後に風呂に入ったのはいつだったっけ。ぼりぼりと背中を掻きながらトイレに向かう。異臭を放つトイレは、これがデフォルトであると言い聞かせて早数ヶ月経つ。誰に見せるわけでもないんだから。便器に座って携帯を見ると、落選メールがまた届いている。
「何に期待してんだかな」
我ながら情けなくなってくる。バツイチ、職無し、貯蓄無し。あるものは家のローンだけ。27歳で結婚し30歳で離婚。自分名義で購入した新築マンションは、あっという間にニートの汚部屋と化し、エントランスの煌びやかさとの対比があっぱれである。それでも正社員の端くれだったおかげで、退職金と車を売り払ってできたお金を切り崩して生活しているが、それも残り数ヶ月でピンチを迎える。この状況で流行りのゲーム機メヌフィス90を購入しようと血眼で抽選に申し込む自分が、もはや情けなさを通り越して滑稽に見える。自分が自分を滑稽に思う。そんな瞬間が人の生に訪れるものなのか。

離婚が原因だったわけではない。少なくとも自分ではそう思いたかった。会社の仕事は自分には合っていなかったし、もともと30歳で転職しようと思っていたし。しかしいざ離婚と退職を経ると、漠然と考えていた将来設計に希望など見出せるわけはなく、一気に全てが面倒臭くなった。自分を見つめ直す時間を作りたいと周りに話しておきながら、見つめているのはゲームの画面のみである。

元妻は鋭かった。自分の弱さと脆さを見透かされていた。どこかで甘えていたんだろう。結婚したんだから、妻なんだから、何があってもきっと支えてくれるはずだと。退職祝いだと舞い上がって寿司を注文、ふたりで乾杯した次の日の朝、彼女は離婚届を置いて出て行った。パニックにならなかったのは、彼女を愛していなかったからではなくて、自分の底辺ぶりに薄々気付いていたからである。

尻を拭きながら改めて考える。底辺か。見捨てられたショックとやるせなさを、この下水に流し込めたら少しは楽になるだろうか。携帯を握りしめ、トイレから出た瞬間、ダンボールに躓いて勢いよく倒れる。
「クソ!!…クソッ!!!」
誰もいない廊下に、こけてイラつく自分の声がこだまする。惨めだ。転んだそのままの姿勢で、ぶつけた足の指をさすりながら、埃とゴミでまみれた床を眺める。這っている。床を這っている。自分は今、あらゆるものから逃れたくて底辺を這う埃とゴミの一部である。
「ははははは…」
呆れて笑いが込み上げてきた。自分のせいだと分かっていても、現実を変えられない幼い自分を笑うしかなかった。トイレの前で横たわって、僕は笑い、泣いた。2019年冬だった。

第2話

眩しくて目が覚める。これは朝日なのか夕日なのか。目を擦って黒いカーテンを少しだけ開けてみる。どうやら朝日のようだ。部屋の壁には自分の描いた絵が所狭しと飾られていて、カーテンからこぼれる朝日がスポットライトのようにそれらを照らす。
「おはようさん」
私が声を掛けなければ、きっとこの子たちは一生このままなんだろうな。大事に飾っていると感じているのは自分だけで、家族には狂った落書きを貼り付けているとしか思われていない。これでも一応、私の分身なんだけど。
「ちょっとあんた、いい加減起きて夕食の準備手伝いなさい!」
突然部屋の扉が開いて、母和子の怒鳴り声が寝起きの脳内に響き渡る。夕日だったのか。金由美(キム・ユミ)、23歳。高校を卒業してから何年もこんな生活が続いている。大学受験に失敗し、来年こそは、今年こそはとトライしたものの、いざという時に限って力を発揮できない。
「もう受験辞めたい。疲れた」
父の顔がこわばる。警察官の父は、厳格で寡黙ないわゆる頑固ジジイである。母は呆れた顔で首を横に振る。
「知らん。もう勝手にせえ」
バンと机を叩いて父が立ち上がる。怒られても無理はない。予備校にまで通わせてもらっていたわけだから。できないのは自分なんだから。
「お父さん、お風呂沸いてますよ」
父を風呂に誘導しながら、母も台所へ逃げていく。何か言ってくれた方がマシだった。両親は私を諦めてしまった。

二人とも凄いよなあ。両親を改めて思う。韓国人の父キム・ソジュンは、来日後ありとあらゆる仕事をしながら日本語を学び、日本国籍を取得後、警察官になった。母は看護師で、怪我で病院に来た父と出会い、結婚。今も近くの病院で仕事を続けている。ピアノやバレエなど、一人っ子だから習い事もたくさんさせてもらったが、どれも今ひとつで続かなかった。今でこそ韓国に対する意識が変わってきているが、由美の幼い頃は悲惨だった。どこに行っても付き纏う「キム」という苗字から、逃れたい思いでいっぱいだった。由美はバイリンガルだが、外で韓国語を話すことは一度もなかった。封印したかった。何も続かない、何も上手くできない、アイデンティティーに自信が持てない。

それからというもの、由美は絵を描くことに没頭していく。最初は白い紙が自分の思い通りになるのが面白かった。思い通りにならない自分の人生に反して、キャンバスは自由で溢れていた。誕生日にiPadを貰ってからは、インクや絵の具がなくても絵が描ける素晴らしさに感動した。

一方で、絵ばかり描いてどうするのかという焦りもあった。社会との縁を断ち、親にも見放された由美は、どこにも属すことのできない恐ろしさを初めて感じていたのであった。


第3話

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成功の近道*著名人のノウハウをあなたに
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タイトルに惹かれて手を伸ばす。あと数ヶ月で家のローンが払えなくなるというのに、現実逃避もいいところだ。目次にはテレビで観たことのあるような芸能人から、有名企業の創設者や大富豪の名前がずらりと並び、こんな立派な人たちからノウハウを盗み取ろうとしている自分が恥ずかしくなってくる。やめておこう、他に何か資格の本とか…。
“Opps, sorry(おっと、すみません)”
背の高い、上品な香水を纏った男性がこちらを見て謝っている。彼の鞄が僕にぶつかったようだ。著名人の名前にビビって本を戻そうとするのに必死で気が付かなかった。
「ああ、大丈夫ですすみませんこちらこそ」
そう言って顔を見上げると、どう考えても日本人である。なんで英語…。
「胡散臭いタイトルですよね。もうちょっと良いのあったと思うんだけど。残念」
「ああ、ええ、まあ…」
久しぶりにゲーム上ではない生身の人間との会話で、簡単な受け答えさえしどろもどろである。
「成功に近道なんて無いですよ。タイミングと、人。その本にはタイミングのことしか書いてないんだけどね」
そう言うと彼はくるくるパーマのウェットな黒髪を掻き上げる。
「ええ…ええ?!」
本棚の周りの人たちが驚いた顔で振り向く。
「シーッ、そんなに驚かないでしょ普通。外で話しましょう。タイミングと、人。ね」
「はあ」
まるで連行される犯罪者のように、言われるがまま高身長の男性について行く。長期間のニート生活は、人の判断力をこうも狂わせるものなのか。
“Bean, come on baby(お豆ちゃん、おいで)”
本屋から出るや否や彼は英語で唱え、茂みの中から巨大な黒犬が物凄い勢いで駆け出してくる。ここ最近で一番の生命の危機を感じた僕は、慌てて本屋の入り口に戻る。ビビリの極みである。
“Good girl, That’s a good girl(良い子、良い子だね)”
ムツゴロウさんのように熊をわしゃわしゃしながら、男性は周りを見渡す。本屋の入口で立ちすくむ僕を見て、彼は真っ白な歯を全開にして笑う。
「すみません!ほんとに!まだ赤ちゃんなもんで!」
赤ちゃんって…と思いながら恐る恐る近づく。鍋より大きな顔に、スカイブルーの離れた目、大きく垂れた口。僕はこの犬を知っている。
「あの…ピットブルですよね…」
「え、ご存知なんですか!日本だと飼ってる人あんまりいなくって」
偶然Youtubeでアメリカのドッグシェルターの動画を観たことがあり、ピットブルの攻撃性をよく理解していた僕は、この時初めてYoutubeの時たま意味不明で壮大なアルゴリズムに感謝した。
「ええ、でも実際に見るのは初めてです…」
「かわいくないですか?ビーンって言います。昨日3歳になったばっかりなんですよ!」
興奮しながら男性は話す。熊はヨダレを垂らしながら男性の背中を押している。よく豆と名付けたもんだ。お世辞にも可愛いとは言えない。
「あ、ええ、おめでとうございます…」
僕は何を祝っているのか。はたと我に返り、改めて男性をよく見てみる。サングラスをしていて顔はよく分からないが、明らかに庶民ではないオーラが出ている。
「ああ!申し遅れました、西ノ宮です。西ノ宮来斗。初めまして」
熊のヨダレをハンカチで拭いたあと、握手を迫られる。聞いたことのない名前だ。ポカンとしたままとりあえず握手に応じ、自分も名前を述べる。
「針巣です。針巣健と言います。初めまして」
「あ、車来たね。僕のオフィスすぐそばだから、ちょっと寄っていきませんか?」
黒いリムジンがスッと道路脇に止まる。明らかに金持ちだ。待てよ、とニート化され鈍った脳が初めてアラートを出す。この展開は、怪しい人に車で連れ去られてどこかに放り込まれ、殺される、いやこの熊に腹わたを持っていかれ…身代金の…いや待ってローンもあるのに…
「西ノ宮様ー!あーいらっしゃいました、どうぞこちらへ」
綺麗な白髪を後ろでキリッと縛った男性が、丁寧にドアを開ける。
「どうもねー!あっこちらのHarrisさんも乗せてあげて」
こちらの回答なんぞ全くもって興味がない。熊が慣れた足取りで駆け乗り、僕のコートを噛んで引き込む。信じられない力だ。抵抗したら手まで引きちぎられそうだ。仕方がないので熊と一緒にリムジンへ乗り込む。後部座席に引きづり込まれた僕は、スカイブルーの鋭い目から明らかな殺意を感じながら、本屋を後にする。異常だ。僕はどこに向かっているのか。「2020年1月没」という文字が、過ぎゆく街並みに浮かび上がってくるようだった。


第4話

由美には友達がいなかった。なかなか学校に馴染めなかった。受験に失敗してからは、正直友達の必要性すら感じなくなってしまった。学校でも卒業しても居心地の悪さが拭えない。一人でいたいわけじゃないのに。
「友達でも作ったらどうね」
母が夕食を作りながら尋ねる。何度聞いた台詞か分からない。
「作ろうと思って作れるものじゃないから」
いつも通りに答える。誰よりもよく分かっている。このまま一人でいたらいけないということを。

夕食後、真っ暗な部屋に戻って考える。友達を「作る」って何なんだろう。誰も私を必要としていないし、私だって別に…
「ん!なに」
暗い部屋で携帯が突然光ったので驚いた。SNSにDMが来ていた。
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こんにちは!いつも作品拝見しています。躍動的な絵に感動をもらっています。私にもこんな才能があったら良かったなってうらやましいです。これからも頑張ってください、応援しています!*野原さやか*
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由美はSNSに自分の描いた絵をアップしていたが、DMが来たことは無かった。コメント欄は鬱陶しいのでオフにしていた。野原さんはきっとコメントを残せないのでDMをくれたんだろう。わざわざ私なんかのために申し訳ない。
「どんな人なんだろう」
野原さんのプロフィールを見てみる。写真の代わりに何やら英語と数字の羅列したキャプチャがアップされている。キャプションには「最近成功したんですけど、これが一番スッキリするかなって」と書かれている。コメント欄には拍手の絵文字と共に「さすが野原さん」「やっぱ天才は違う」などと称賛の声が並んでいる。何のことだろう。

気になった由美は、恐る恐るDMに返信をしてみる。
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メッセージありがとうございます。プロフ拝見したのですが、アップされている英語は何ですか?気になって質問してしまいました。*金由美*
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すぐに返信が届いてまた驚く。
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返信うれしいです。あれはコーディングの一部です!プログラミングをしているので、見つけた法則をシェアしている感じです。伝わってますかね(笑) *野原さやか*
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プログラミングか。自分には全く縁のない世界だ。こんな凄いスキルを持つ人が、なんでこんな落ちぶれた自分の絵を見て感動しているんだろう。
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プログラミング、すごいですね。それこそ私にはない才能をお持ちでうらやましいです。私は絵くらいしかできること…というかやることがなくて。絵を気に入っていただけてうれしいです。ありがとうございます。 *金由美*
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ここまで送って、由美は今までにない幸福を感じていた。家族以外の人間と、コミュニケーションが取れている。自分もまだ人間だったんだ。
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才能だなんて。由美さんの才能の方が素晴らしいですよ。一昨日アップされていた「炎」のイラスト、感動してキャプチャしました。そうだ、もし宜しければZoomでお話ししませんか?イラストについて色々聞いてみたくって。 *野原さやか*
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これが野原さんとの出会いである。野原さんは天才プログラマーで、今はフリーランスで仕事をしている。学校では勉強が全然できなくて、ずっといじめられていたらしい。ひょんなことからプログラミングの世界にハマり、今に至る。私よりも何倍も明るく見えるから、そんな過去があるとは知らなかった。
「プログラミングは数学と一緒でね、答えが決まってる。方程式があるの。でも芸術には答えがないでしょ。その中で作品を生み出すってすごいことなんだよ」
「そうかな…生み出すってほどのものでもないんですけど」
照れた私は自分の絵を見て苦笑する。落書きと思われていたものが、自分でもそう思いつつあったものが、過大評価されているのがくすぐったかった。認めてもらえたという安堵感が、自分を癒し始めていた。


第5話

「さっきは鞄ごめんなさい!足痛くなかったですか」
西ノ宮さんが振り返って僕に尋ねる。サングラスを取った目は二重がくっきりしていて瞳が澄んでいる。
「あ、いえ、全然それは…ち、ちょっと!」
手を振りながら西ノ宮さんに問題ないことを伝えたかったのだが、その手を熊に遮られてしまった。遊んでくれると思ったのだろうか、額に大きな前足があたり前が見えない。
“Hey bean, be nice to him. Be nice(ちょっとビーン、優しく。優しくしなさい)”
西ノ宮さんの声を聞いて、ようやく熊が大人しくなる。
「ごめんなさい。まだ赤ちゃんなもんで」
どこが赤ちゃんなんだと思いつつ、西ノ宮さんに見つからないように携帯で「にしのみやらいと」を検索する。
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投資家。建築家。小説家。主な監督作品にロシアのバイロリアン宮殿、イギリスのランガルト博物館Ⅱ。著書に『去りゆくあなたに』『愛を建てる』ほか多数。左目を病気で失明。趣味はサイクリング。
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プロフィール写真は若い頃に撮ったのか金髪だが、何度見ても西ノ宮さんである。
「どうかしました?もうオフィス着きますよ」
ジロジロ顔を見られて不思議に思ったのか、西ノ宮さんが大きな目を更に大きくして尋ねる。
「あ、はい…」

「どうぞこちらへ」
リムジンを降りると、先ほどの白髪男性がエレベーターまでエスコートしてくれた。
「ありがと斉藤さん。ビーンは任せて。Harrisさんも」
熊のリードを受け取ると、斉藤さんに軽く会釈をし、颯爽とエレベーターへ乗り込む。乗らないわけにいかないので、僕も一緒に乗り込む。斉藤さんが不思議そうな目で見送る。

エレベーターに階数ボタンがない。不安に駆られた僕は質問をする。質問をすべきだ。質問をしなければならない。質問をした方が良い。鈍った脳は質問を考えるだけで一億年かかる。
「針巣って珍しい苗字ですよね。日本にあんまりいなさそう」
くるっと振り返って西ノ宮さんが尋ねる。熊のしっぽがパシパシと僕のジーパンを叩いている。
「ええ、まあ、いないですね周りには。当て字のようなもので…育ての親の姓がHarrisなので…」
“I knew it, it’s Harris(やっぱりね、Harrisですよね)”
西ノ宮さんが人差し指をピンと立てながらにっこり笑う。「育ての親」ではなく、Harrisに反応しているところがまた異常である。

エレベーターを降りると、あたり一面赤いカーペットが広がり、壁には金の装飾と見たことのない絵画が豪華に飾られていた。熊は一目散に走り出し、奥の噴水から水を飲んでいる。
「喉乾いてたみたいですね。あははは」
家の中に噴水があることに驚愕し固まる僕に、少年のような笑顔で西ノ宮さんが笑いかける。
「かけてかけて。コーヒーで良いですか?」
そう言ってすぐに机の上のブザーを押す。
「コーヒー2つお願いしまーす」
答える隙がない。一分も経たないうちに、黒いスーツの痩せた男性がコーヒーを持って入ってくる。異常だ。この人はいつからコーヒーを準備していたんだろう。
「それで針巣さんは何をしている人なの?僕のことはもう検索済みでしょうから、知ってますよね」
バレている。コーヒーを持つ手が震える。
「すみません…存じ上げなかったもので…僕は…その何かをしているわけではなく…何かしなければと…思っているところです最近」
30にもなって、我ながら酷い回答である。小学生でももう少しまともに答えられそうだ。
「なるほどねえ。ケーキ食べますか?お腹すいちゃって」
「へ?」
百人一首かと思うほどの早さでブザーを押すと、今度はショートケーキが運ばれてくる。
「それで針巣さんはHarrisさんに育てられたんだね」
ケーキを頬張りながら、大きく澄んだ瞳が僕をまっすぐ見ている。「それで」が何につながっているのか分からないが、答えた方が良い。
「ええ、その…孤児院で育てられまして。アメリカ人の牧師夫婦が育ての親です。ファーザー・ハリス」
「へえ、日本にそんな孤児院があるんだね。知らなかったなあ」
「あの…すみません、今更なんですが、なぜ僕を…?」
「あ待って!その台詞知ってる?それThe Princess Diariesの台詞なんだけど!」
“Because you saw me when I was invisible(私が誰の目にもとまらない時に、見つけてくれたから)”
咄嗟に台詞が出る。元妻が一番好きな映画だった。
「パーフェクト!素晴らしい!男性でこの映画知ってる人あんまりいないよね。僕は妹の影響でね」
西ノ宮さんのケーキは既に1/3しかない。相当お腹が減っていたようだ。
「君は本屋に行って、[成功の近道]という本を手に取った。この世の終わりみたいな顔でね。ちょっと悩んでいるくらいだったら、わざわざ本屋で自己啓発のコーナーには行かないし、溜息つきながら本戻さないでしょ」
最後の一口を美味しそうに食べながら、西ノ宮さんが続ける。
「僕のコメントが掲載された本が出たって聞いたから、近いし見てこようと思ったの。どんな人が読むのかなって気になっちゃって。それで僕、目が悪いから足元がよく見えなくて。そうそう左目見えないんですよ僕。鞄が当たってしまったから、話を聞いてみたくなった。フルーツあった方がいいですよね?」
…言っていることが、分かるようで全く分からない。僕は…僕は多分、新人類に出会ってしまった。


第6話

「ずっと思ってたんだけど、針巣さんの目、すごく綺麗ですよね。綺麗な茶色」
突然何の話かと思ったら。容姿を褒められたことがほとんどなかった僕は、どう反応したら良いのか分からない。
「僕はね、こう思うんです。闇を抱えている人の方がエネルギーがある。生きるのも死ぬのもエネルギーが必要で、彼らはその狭間で必死に足掻いている。それって実は物凄いエネルギーなんですよ」
「はあ」
西ノ宮さんはメロンを齧りながら続ける。僕はまだケーキすら完食できていない。
「幸せになるための足掻き。幸せというと大袈裟だけど、より良い未来のための準備体操ってところかな。ラジオ体操もさ、ほら、一生懸命やると疲れるのよ。体操だからって侮っちゃいけない」
僕は何を聞かされているんだろうか。噴水のそばで死んだように寝ている熊が目に入る。イビキが部屋に流れるクラシックに重なって、妙なリズムを刻んでいる。
「ナッツ食べますか?元気になりますよ、気分が良くなる」
食べますか?と尋ねておいて、既にナッツを僕の手のひらに乗せている。ノーと言わせない圧倒的話術。いや技術か。そういえば、オフィスに来てから食べてばかりだ。

ふと子供の頃読んだ『注文の多い料理店』が頭をよぎる。落ちぶれた人間をさらって、彼に何のメリットがあるというのか。おまけに次から次へと食べさせ、目が綺麗だ何だの、まるで良い獲物を捕らえた猟師みたいに。これは本当にまずいんじゃないだろうか。タイミング悪く部屋にアラム・ハチャトゥリアンの『仮面舞踏会』が流れ出し、脳内には輪切りにした僕の腹わたから飛び出すナッツを見て、ケラケラ笑う西ノ宮さんが映し出されていた。
「ディナーも是非食べていってくださいね!今日は新鮮な食材が入ったって聞いたので、何料理か楽しみなんですよねー」
カリッとナッツを齧って、西ノ宮さんがニコッと笑う。背中に夕日を浴びた西ノ宮さんは、完全に獣のようだ。新鮮な食材って。これで熊が起きたら終わりだ。まずい。これは絶対まずい。

「その…そのですね…そろそろその…お邪魔しようかと…します…」
焦ってしどろもどろの最上級を迎えている。
「ちわっすー」
「は?」
突然部屋にガタイの良い金髪の男性が入ってきた。殺し屋か?僕はついにこの世で殺し屋を見ているのか?負の妄想にブレーキが掛からない。
「あー!しぃちゃんー!ごめんねすっかり忘れてたーあははは」
「忘れてたってひどくないっすか!人呼んでおいて」
しぃちゃんというあだ名が、これほどまでに似合わない人がいるだろうか。隆々とした筋肉のせいで、今にもレギンスがはち切れそうだ。
「あ、紹介します。こちら針巣さん。さっき本屋で出会ったの。こっちは僕の建築パートナーの平野茂。しぃちゃんって呼んでください」
「まーた知らない人連れてきたんだ?西ノ宮さんもほんと人好きっすよねー」
キッと口角をあげて平野さんが綺麗に笑う。顔まで筋肉がイキイキしている。
「あ、平野です。大工やってます。よろしくです」
「スハッ…はっ針巣と言います…」
手汗で湿ったナッツをケーキ皿に置き、ジーパンでぬぐって握手をする。ゴツゴツとした大きな手には、見たことのない太さの血管がいくつも走っている。全力で握られたら僕の手はきっと粉々になってしまうだろう。
「めっちゃ綺麗な手してますね。絶対器用なタイプっすね」
「だよね?僕もそう思ってた!」
西ノ宮さんが嬉しそうに答える。もうやめてくれ。みんな僕を獲物としか思っていない。
「今日ね、しぃちゃんとトレーニングしようって約束してて。すっかり忘れて話し込んじゃいましたね」
「話し込んだって、絶対西ノ宮さんが一方的に話しただけっすよね」
「あははは、そうかも、反省反省」
西ノ宮さんの笑い声で熊が目を覚ます。携帯、携帯どこだろう。ポケットに手を突っ込んでみるが携帯が無い。終わった。「2020年1月没」確定の瞬間であった。


第7話

「針巣さんも、興味あればぜひー」
興味などあるわけないが、携帯がないのでどうすることもできない。噴水の右側のドアが自動で開くと、そこにはリバービューのジムが広がっていた。
「トレーニングするときは自然を感じたくてね。雨の日は濁流よ、あははは」
「それ初めて来る人に言いますー?」
何の小芝居だろうか。トレーニングって何の?会話についていけない僕は、どこか出口がないかと辺りをキョロキョロ見渡す。
「針巣さん、こっちどうぞ」
「は」
どうぞの「ぞ」で平野さんが僕の手を引っ張る。力が強過ぎてつま先がカーペットに食い込み、思い切り転びそうになった僕を見て、西ノ宮さんがプッと吹き出す。ジムの奥にはカウンターがあり、スポーツドリンクとプロテインがお酒のようにずらっと並べられている。僕をカウンターのチェアに座らせ、平野さんがゴツい手を口元に添えて話す。
「ここ特等席っすよ」
「ウェルカーム!」
2人はフィットネスバイクを漕ぎ始める。ガラス張りで出口らしきものが見当たらない。ドア前は熊が陣取り、フゴフゴ言いながら眠っている。トレーニングが終わったタイミングで、トイレに行くふりをして抜け出すのはどうだろう。そうだそうしよう。心を決めると不思議なもので、やることもないので突然の睡魔が僕を襲う。さっきコーヒー飲んだのに?回るペダルを見ると余計に眠気が増す。さては睡眠薬を…!いやさすがにここで眠るわけには。眠るわけ…

目が覚めると、僕は檻の中に熊と一緒に放り込まれていた。薄暗闇の中で、床に落ちた熊のヨダレが月光を浴びてキラキラ輝く。大きく垂れた口からは無数の牙が顔をのぞかせ、生臭い吐息が僕の前髪を揺らす。ピットブルは闘犬だ。闘うために改良された犬だ。勝ち目はない。携帯、携帯…誰か携帯…

「大丈夫すか?はい携帯。落ちてたっすよ」
平野さんがさっき座っていたソファを指差しながら、不思議そうに僕の顔を覗いている。外は既に真っ暗だ。
「針巣さん、おはよう!疲れてたみたいねー」
西ノ宮さんが喉を鳴らしながらスポーツドリンクを飲む。考えてみたらここ数日ゲームのやり過ぎで寝ていなかった。
「飲みます?」
と言って、平野さんが毒々しい色のスポーツドリンクを僕に手渡す。
「ちょっとあの僕…そろそろ帰ろうかと…」
「え、ほんとに?今ね、ちょうど夕食の準備できたよって連絡来たの。あっ何か用事ありましたか!」
「あ、いえ、そんなことはないんですが…」
こういう時、嘘が上手ければといつも思う。元妻の「あなたって分かりやすいわよね」という言葉が浮かぶ。不器用にも程がある。命がかかっているというのに。
「よかったー!じゃあどうぞこちらへ」
颯爽と西ノ宮さんが歩いていく。寝ぼけた脳は、西ノ宮さんを頭でも目でも追いきれない。
「強引っすよね、西ノ宮さんて」
平野さんが呆れたように笑う。
「でも愛がある。自分勝手なようでいて、ちゃんと考えてる。面白い人ですよ。行きましょ」
「面白い人…」
強引に家に他人を連れ込むのもおかしいが、ほいほいついていき居眠りまでする僕もどうかしている。暇だと思われているのだろうか。暇だけど。

「和食でしたー!」
西ノ宮さんが嬉しそうに拍手する。
「どうもありがとう、これがメバル?」
「左様でございます。ハマグリと白子もどうぞ召し上がってください」
さっきコーヒーを信じられない早さで持ってきた、痩せ型の男性が説明する。
「ほんじゃ、いただきまーす」
平野さんも箸をとる。僕は毒でも盛られているんじゃないかと少し待ってみる。時既に遅しだが、少し眠ったせいか脳が少しずつ正常に作動するようになってきている。
「はぁーこーれは美味いわー木村さんこれはー?この煮物はー?」
「そちらは金目鯛になります」
木村さんは早口で的確に答える。他にもお手伝いさんはいるが、西ノ宮さんは特に木村さんを信用しているようだった。どうやら毒は盛られていないようなので、僕も食べてみる。
「い、いただきます…」
ハマグリと白子のお味噌汁が、ビールばかり流し込んできた食道に染み渡る。この世のものとは思えない美味しさだ。こんなダシが世の中には存在していたのか。
「針巣さんお口に合いますかー?合うと思うのよー合うんだよねー」
「いやもう自分で答えてるじゃないですか、西ノ宮さん!」
「あははは、だって美味しいから」
「…美味しいです…これ美味しいですね…久々にこんな美味しいもの食べました…」
「よかったー!針巣さん笑ったの初めて見たな!」
「針巣さんって珍しい名前ですよね」
慣れた質問だが、僕は生い立ちをもう一度説明する。平野さんが暴力団の出身だということも知った。だいぶ荒れていた時期にコンビニで西ノ宮さんに出会い、拾われ、今に至るとか。何とも変わったシンデレラストーリーだが、それを語る平野さんはとても幸せそうだ。そして西ノ宮さんは本当に人を拾うのが趣味らしい。
「人間ってね、落ち込んでいるときに本性の一部が出ると思うの。そういうタイミングで出会えたというのは、良いことなんだよね。最短でその人が分かるじゃない?しぃちゃんはフラストレーションの固まりだったよね」
「そうっすね。行き場がなかったんすよね、肉体的にも、精神的にも。たしかにそういう時に西ノ宮さんに見てもらえたのは良かったです。一番見てほしくない部分だけど、初対面だからこそどうでもいいやと思えたっつーか」
「僕も本当にヤバそうな人は避けるのよ。でも生きようと足掻くエネルギーが見えた時は、なんか声掛けたくなっちゃう」
「僕には…」
西ノ宮さんと平野さんが僕を見つめる。急に質問しようとしていたことが恥ずかしく思えてきた。
「僕にもその…エネルギーが見えたんでしょうか…」
西ノ宮さんがニコッと笑って答える。
「もちろん。そうじゃなきゃお呼びしてないですよ」
「でも僕何もできないし…そもそも何もしていないし…」
「本屋で自己啓発のコーナーに行ったってことは、変わりたい願望があって、それに対してのアクションは一つできたってことですよね。大きな一歩だと思うけどな」
「それに西ノ宮さんに拾われてますしね。強運の持ち主ですよ。俺もっすけど」
平野さんがお味噌汁を飲み干して、手でグッドサインを作る。ほぼ誘拐だというのに、運良く本屋で拾われたのだと洗脳されている。それどころか、落ちこぼれの第一歩を赤の他人に祝福されている。どうしたものか。これで良いのか。


第8話

「僕は面白いことをやりたいと思ってるのね。今よりももっと面白いことを」
「出た、その台詞。危ないやつですね」
「危ないって言わないでよー、ワクワクするって言ってほしいな僕は」
「針巣さん、これは危険なサインなんですけど、一旦聞いてみましょう」
「はあ」
西ノ宮さんが少し平野さんを睨んで続ける。
「無人島を購入しました!」
「はい、終わったー」
平野さんが両手で頭を抱える。僕は状況を読み込めない。無人島って、島ってそもそも購入できるものなのか。西ノ宮さんは晴れやかな笑顔で僕らを見つめる。
「無人島ってね、人が住んでないから当たり前なんだけど、大部分が有効活用できていない。開拓のし甲斐があると思うし、住むだけではないスペースの在り方、みたいなものを僕は創造していきたいのね」
「針巣さん、ついていけてますか、大丈夫っすか」
平野さんが呆れながら僕に尋ねる。全くついていけていないが、この無謀なアイディアに微塵の不安も抱かない西ノ宮さんが、不思議にも興味深く思えた。
「…大丈夫です、一旦」
「それでね針巣さん。平野さんと協力して開拓チームを作ってほしいと思ってます。できるかな?」
「いや西ノ宮さんちょっと…」
「やります、僕」
平野さんがびっくりして僕を振り返る。西ノ宮さんは最初から知っていたかのようにゆっくり頷く。失うものなんて何も無い。僕はやけくそでも何か夢中になれるものに飛びつきたかった。それが無人島の開拓になるとは夢にも思っていなかったが。
「じゃあ決まりね。しぃちゃん、堅いこと言わないで一緒にやろうよー」
「もうほんと突然とんでもないこと言い出すんだから…一旦分かりました、どうせやるでしょ」
「分かってるじゃーん」
この年にして新たな自分を発見してしまった。手を挙げている。こんな異常な計画によく考えもせず感覚で賛同している。
「針巣さん、もしよかったらうちのコンドミニアム使ってもらっていいよ。家賃とかはいったんセーブで。無人島で稼いだら還元してもらえればいいからさ」
「僕もここのコンドミニアムに住んでるんで、案内しますよ」
何かとんでもない事件に巻き込まれているのではないだろうか。一瞬不安が頭をよぎるが、今はそれよりも、人生で考えてもみなかった無人島開拓に携われる奇跡に胸が躍っていた。謎の無人島開拓、やってやろうじゃないか。


第9話

僕は家と家具の全てを売却し、西ノ宮さんのコンドミニアムに引っ越した。西ノ宮さんのオフィスとコンドミニアムは、長いスケルトンの廊下で繋がっていて、指紋認証で行き来できるようになっている。いずれも円柱状の建物で、中央は空洞になっており、巨大なウンベラータが植えられている。コンドミニアムの廊下には落ち着いたダークグリーンのカーペットが敷き詰められ、ウォルナットの扉が並ぶ。ダウンライトでゴールドプレートのルームナンバーと黒のアイアンの取っ手が上品に照らされ、華やかな照明はないがそのおかげで洗練されて見える。部屋にはシャワールームやキッチンもあるが、共用の大浴場やジム、グランドピアノもある。あとで知ったが、平野さんだけでなく、斉藤さんや木村さんもここに住んでいる。西ノ宮さんは、拾った人間を全員このコンドミニアムに詰め込んでいるようだった。

僕の部屋は10畳くらいの1Kで、白とシルバーを基調としたシンプルなインテリアでまとまっている。部屋の奥は全面ガラス張りになっていて、リバービューを存分に楽しめる。窓の外がまるで切り取ってきた絵画のようだ。部屋がシンプルでも窓の外に自然が広がるだけで、こんなに見える世界が違うのか。西ノ宮さんの言うように、雨の日は濁流になるんだろうけど。僕は濁流を想像してふっと笑う。久しぶりに笑った気がする。
「おざまっすー」
部屋の外で平野さんが待っていた。今日は一段と筋肉が元気そうだ、既に運動してきたんだろう。
「あ、おざまっすー!アジト行きましょう」
「アジト…とは」
「行けば分かります、行きましょう」
そう言うと平野さんはウンベラータを横切ってスケルトンの廊下を渡る。長い間マンションの白い壁ばかりを眺めてきた僕は、川や木など自然を目の前に生まれたての雛のように胸がときめいていた。指紋認証を済ませて右側はダイニング、左側にはエスカレーターがある。ここを昇ると平野さんの言うアジトが広がる。
「わあ…」
思わず感嘆の声が溢れた。こんな空間を僕は見たことがない。アジトと呼ぶには贅沢すぎる空間だ。天井も壁もガラス張りで朝日がコンクリートの床に反射して眩しい。エスカレーターを昇るとすぐに大きなドリンクバーが見える。
「木村さん、おざまっすーいつものお願いしますー」
平野さんは手に持っていた馬鹿でかいタンブラーを木村さんに渡す。木村さんとお手伝いさんたちがテキパキとコーヒーを準備する。
「あ、針巣さんコーヒーはホットで大丈夫すか?」
「あ、え、はい、大丈夫です」
「木村さん、同じのもう一つお願いしますー」
信じられない早さでコーヒーが手渡される。あの時と同じだ。木村さんは全く笑わないが、不思議と不快感を与える人ではない。むしろ朝日を浴びて神々しくさえ見える。ボーッと木村さんを眺めていると、平野さんが肩をポンと叩く。
「行きましょ、針巣さん」
ドリンクバーを過ぎると、背の高い観葉植物と花が聳え立つように植っている。天井の大きなシーリングファンで草花が揺れているが、その後ろで妙な気配を感じ、僕らは足を止める。
「なんだ斎藤さんじゃん!びっくりしたー」
「おはようございます平野様!草花の手入れをしておりました」
「おはようございます…」
びっくりしたせいでコーヒーがちょっと溢れてしまった。斎藤さんは送迎に加え、植物の管理もしているようだ。
「針巣様、おはようございます。西ノ宮様は既にあちらにお見えです」
斎藤さんが軍手で丁寧にベンチの向こう側に案内する。それにしても広大な敷地だ。一周回るのに何歩歩けば良いのだろうか。天井から吊るされた大きなハンモックを過ぎると、西ノ宮さんが湾曲した窓に沿って電動キックボードで移動しながらコーヒーを飲んでいる。その後ろを熊がフゴフゴ言いながら追いかけ回している。異様だ。なんだこの光景は。
「おざまっすー!針巣さん連れてきたっすよ」
「あ、モーニング針巣さん!川すっごく良い感じですよ今日」
「…あ、おはようございます…」
アジトの規模と異様な光景に衝撃を受けた僕は、コーヒーを握りしめた手から変な汗が出始めていた。窓の曲線に合わせて緩やかなカーブを描く大木の作業机が置かれ、マスタード色のソファとアイアンの椅子がバランス良く机を囲む。ダークグリーンの照明が黒く太いチェーンで無造作に天井に固定され、大きな机を柔らかく照らす。
「ようこそ、僕らのアジトへ!」
異様な光景でありながら、なぜか全体のバランスが良く、異世界のようでいてカジュアルだ。スピーカーから流れるフランク・シナトラがこれ以上に合う場所があるだろうか。あの熊でさえオシャレに見えてくる。僕は、一瞬でこの空間に魅了されてしまった。


第10話

「針巣さん、こっちどうぞー」
平野さんが作業机へ僕を招く。目をパチクリさせる僕を見て、西ノ宮さんが笑う。
「良い空間でしょう?僕たちはアジトって呼んでるんですが、事務所兼休憩所みたいな場所です」
「はあ」
たしかに仕事と休憩のスペースが明確に分かれておらず、一つの空間にまとまっているのが面白い。中央の吹き抜けに沿うようにテーブルや椅子、ソファが配置されていて、集中して作業したい時のスペースも確保されている。
「今回の無人島プロジェクトで一番大切なのは人。僕としぃちゃんは建築関係の専門。まあ僕は他にも色々やってはいるんだけど。他にどんな人材がいたら楽しいかな」
「楽しい…とは」
思っていたことが素直に口に出てしまった。言ってからしまったと思う、いつもの悪い癖だ。
「良いところに気付きましたねー」
「さすが、見込まれただけありますね」
突然二人にベタ褒めされているが全く分からない。元妻相手だったら完全に謝っている場面だ。
「役立つとはまた別で、一見やばそうだけど組み合わせたら面白い。そういうスパイスみたいな人材を集めたいなと」
「さーやとか呼んでみます?前に長野のプロジェクトでシステムとか作ってもらった」
「さーやちゃん!超久しぶりだね、元気かな?」
「電話してみまーす」
やばい。全く会話についていけない。元気かな?の一言で電話を掛けてしまう平野さんも、かなり西ノ宮さん化されている。

「ちゃーすー」
スピーカーフォンにした携帯が、アジトのスピーカーに繋がってクリアに聞こえる。
「あーうそー平野さん!お久しぶりですー!」
明るい女性の声がアジトに響き渡る。元気は十分良さそうだ。
「さーやちゃん久しぶり元気ー?西ノ宮でーす」
「ウケるー!どうもー野原ですー元気でーす!あははは」
平野さんが爆笑する。僕は気まずくて何もできない。
「さーやちゃん、新しいプロジェクト始めるんだけど、ちょっと覗きに来ないー?」
「あ、まじですかー!今日午後なら時間ありますよー」
「あ、ほんと?じゃお待ちしてまーす」
「はーいよろしくでーす」
こんなホストの営業電話みたいなやり取りで軽くOKする野原さんとは、一体どんな人なのだろうか。元気は良さそうだ、とても良さそうだが大丈夫なのだろうか。

「はい、じゃあさーや招集。あ、針巣さん、さーやは僕の友人でプログラマーです。ハッカーで引っかかったこともある面白い奴なんですけど、腕は確かですよ」
やばい気しかしない。そんな人を連れてきて、無人島で何をさせる気なんだろうか。無人島とプログラマー。全く僕には関連性が見えないが、西ノ宮さんと平野さんはいたって落ち着いている。困惑しているのは僕だけだ。
「さーやちゃんからアイディア出るかもね、ゆくゆくは宣伝も必要になるだろうし」
「そうっすね、無人島をどういう方向性で開拓するかも話し合いたいですね。あ、針巣さん、さーや来たらアイディア出ししましょ。頭数が多い方が色んなアイディア出ると思うし」
「一個質問良いでしょうか…あの、なぜ無人島を購入されたんでしょうか」
「良い質問ですね針巣さん!さすがだなー」
西ノ宮さんは、僕がどんな発言をしようが褒めまくる。馬鹿にされているようで目は真剣だ。
「日本は島国ですよね。というか、世界は海に浮かぶ大きな島国なんです。でも人々は島の上で生活していることに気付いていない。もちろん住めるようになるまで設備投資は必要なんだけど。色んな可能性があると思っていて、陸との関係性や海の資源の使い方、その辺りも総合的に楽しめそうだなと思って、購入しました」
西ノ宮さんの言う「楽しめる」というフレーズが、荒んだ僕の心では上手く咀嚼できない。だが勢いだけで購入したわけではないということは分かった。

「ちょっと別の仕事で抜けまーす」
西ノ宮さんが席を立つ。熊が金魚の糞のように西ノ宮さんを追いかける。初めての空間で平野さんと二人きりというのも気まずい。
「針巣さんってじゃあ英語話せるんですね?」
「あ、いやミサが英語だったりで多少できるくらいです。そういえば、西ノ宮さんはなんで英語…?」
「ああ、西ノ宮さん留学もしてたし、奥さんがアメリカ人だったんで。病気で早くに亡くなったんですけどね」
「…そうだったんですね」
平野さんは知っている限りの西ノ宮さん情報を話してくれた。奥さんを病気で亡くしてから自殺直前まで落ち込んだこと、追い討ちをかけるように自身も左目を失明し、深い鬱状態が長く続いたこと。勝手に西ノ宮さんは、成功だけを積み重ねてきた完璧な人だと思い込んでいたが、壮絶な過去があっての今なんだと分かり、なんだか少し親近感が湧いてきた。むしろ自分のだらしなさが恥ずかしくなってきた。
「なんか…僕はただ怠けていただけかもしれないです。不運だと決めつけていたのは自分で」
「そういう時あるんすよ。全て周りのせいにしたくなる時が。そうじゃないとやっていけないっつーか」
平野さんがコーヒーを手に川を眺める。この人もまた、きっと色んな過去を乗り越えて今ここにいるんだろうなと思う。
「あの…暴力団とかヤクザって…辞める時に爪を剥がすみたいな儀式があるって聞いたんですけど、本当ですか」
「あははは、いつの時代の話っすか」
平野さんが全身の筋肉を震わせながら大きく笑う。笑う平野さんの影が完全にキン肉マンで、僕も笑ってしまう。人と一緒に笑うのも久しぶりな気がする。僕はここに来て、本来の人間らしさを少しずつ取り戻してきているのかもしれない。


第11話

「ビーンちゃーん!」
熊が大きな前足を野原さんの膝に何度も押し込む。西ノ宮さんと平野さんは爆笑しながらその様子を見守る。僕は一人だけまた取り残されている。熊にはどのようにしても慣れそうにない。
「いらっしゃーい、突然ごめんねー?」
全く申し訳ない表情ではないが、西ノ宮さんが挨拶する。一通り熊との挨拶を終えて野原さんが答える。
「いいえーお元気でしたかー?なんか痩せた?太った?」
「超適当だな!相変わらず」
平野さんが手を叩いて笑う。
「あっこちら針巣さん。よろしくねー」
西ノ宮さんが僕を紹介してくれる。野原さんは見るからに知的な顔つきで、紫色のスーツにシルバーのアクセサリーがよく似合う。髪の毛もピンクだ。しかし何よりも気になるのは、腰に付けている白いたまごっちである。
「あっのー初めまして、針巣です」
たまごっちに気を取られて、たまごっちに挨拶をしてしまっている。
「あ、野原ですー!たまごっち気になりますよね。やっぱ良いアイテムだなー」
「何?今度は何の検証なの?」
西ノ宮さんがニヤニヤしながら尋ねる。
「いくつうんこが溜まったら死ぬのか検証中」
「それやばいね」
西ノ宮さんと平野さんが顔を見合わせて笑う。僕は検証目的でたまごっちを身につける人を初めて見て、正直どん引いていた。改めて見てみると、大富豪とキン肉マン、たまごっち、落ちこぼれと奇妙過ぎるラインナップだ。まともな人間がどこにも見当たらない。僕は彼らと一体何をしようとしているのか。

「それでね、無人島買ったんだけど」
作業机につくと西ノ宮さんが唐突に話し始める。島を買ったという話を、コーヒー買った、と同じ温度感で話せているのがさすがだ。
「ウケるー!平野さん怒りそう」
「怒った怒った」
「やっぱりね」
「ちょっとー聞いてる?無人島をね、開拓したいんだけど。どうせやるなら僕は面白いメンツを集めて楽しくやりたい。それでさーやちゃん呼んでみましたー」
「はいさようならー」
野原さんが笑いながら立ち上がるフリをする。
「ちょっとちょっと!逃げないでー」
西ノ宮さんと平野さんが追いかける。僕も追いかけるフリをした方が良かっただろうか。こういう時も僕はとことん不器用で演技ができない。
「さーやちゃん最近面白い人周りにいたりする?あと一人くらい足したいな」
「いる!いますよ!この絵見て」
そう言って野原さんは携帯の待受画面を見せる。炎が暗闇で燃え上がるイラストだ。繊細というよりは、もっと太く力強いタッチで、抽象画のようにも見える。
「由美ちゃんっていう子でね、ずっとSNSで見てたんだけど、最近友達になったの」
「へえー、これ面白い絵だね。他にどんなの描いてる?」
「あ、SNSのリンクこれです」
西ノ宮さんが机の横のボタンを押すと、上から巨大なスクリーンが降りてくる。さっきと似たようなタッチの絵がいくつも映し出される。タッチは似ているがどれも個性的で味がある。
「うん、良いかもな。しぃちゃんどう?」
「ええ、これくらいパンチがある方がインパクトありますね」
「針巣さんは?針巣さんはどう思う?」
西ノ宮さんが少年のような目で尋ねる。どうって聞かれても…そもそも…
「無人島に必要かどうか、僕には分からないです。あっ…」
咄嗟に口元を押さえる。しまった、初対面の友達に失礼だ。どうして僕はこうも正直なんだろうか。
「いいんですよ、針巣さん。意見を出し合うために集まってもらってるんだから」
「たしかに。無人島でどう生かすかは議論の余地がありますね」
「私は、変わった形で躍動感や生命力が生まれるんじゃないかなって。無人島であれば尚更そういう要素が必要になりそうな気がする」
生命力溢れる大地を想像していた僕は、躍動感や生命力が必要になるという野原さんの意見が意外でもあり、新鮮だった。平野さんがうんうんと頷いて続ける。
「そうよな。無人島のどこをキャンバスにして描くかによっても印象が変わりそうだし、そう言った意味ではこの子と無人島両方のポテンシャルを生かせそう」
そうだった。ポテンシャルで全てが進んでいるこのプロジェクトに、現実性とか実用性を先走って考えて心配していては話が進まない。そもそもポテンシャル皆無の僕が物申せる立場でもない。
「オーケー。じゃあ一回由美ちゃんを呼んでみて、何か描いてもらおうか。話も聞いてみたいし」
「いいっすね。さーや連絡しといてもらえる?」
「了解でーす」

野原さんは何度かアジトに来たことがあるらしく、話が一段落すると軽く挨拶し、颯爽とエスカレーターの方へ歩いていく。ヒールのせいか、野原さんは僕より背が高い。熊が最後までまとわりついて歩きにくそうだ。
「ビーンちゃーん、お母さんまた来るからねーいい子にしててねー」
「いつからお母さんになったの」
平野さんが呆れながら笑う。
「あの、なんかさっき僕失礼なこと言ってすみません…」
「へ?全然気にしなくて良いですよ。現実的な視点はとっても大事。特に西ノ宮さんのプロジェクトではね」
「ちょっとーまたそういうこと言うー」
西ノ宮さんが野原さんを睨む。
「それじゃ、今度は由美ちゃんと一緒に来ますねー」
エスカレーターを降りながら手をクールに振る姿は、スーパーヒーローのようで謎に格好良い。僕はこの無人島プロジェクトで僕がなぜ必要とされているのか、少しずつ分かってきた。

部屋に戻って一人になった僕は、改めてこの奇跡的な誘拐を振り返る。何もできない僕に、可能性を見出して居場所を与えてくれている。普通の人生を悩みなく淡々と歩んでいたら、こんな無謀なプロジェクトに参加しようという気にはならなかったし、本屋の自己啓発コーナーには目もくれなかっただろう。西ノ宮さんの言うように、もしかしたら知らないうちに一歩を踏み出していたのかもしれない。

外はすっかり暗くなって、川は黒い水と化していた。水面こそ光っているものの、夜になると全く見えないということを僕は頭では分かっていたが、初めて本当なのだと知った。月光で照らされて揺れ動く水面は、同じ動きのようでいて同じ動きは一つもなく、闇の中で金箔が舞っているようで、一つの芸術となって街を彩っている。「分かる」と「知る」は紙一重だが、実体験から得られる確信や感動がそれらを分けるのだろう。川を見るのは初めてではないのに、と僕は思う。こんなに美しいものを今までどうして見逃していたんだろう。僕は何を見て来たんだろう。日々の生活の中で、僕は大切なものをたくさん見落としてきてしまった気がする。そう思うと、まだ見ぬ未知の大地、無人島で出会える景色に途端に胸が弾んだ。


第12話

ブラインドから朝日が溢れて顔に当たり、僕は思わず目を覆う。まだ6時半というのに、川に反射した朝日は余計なエネルギーを纏って僕を叩き起こす。仕方なくブラインドを開けると、川のそばで誰かが動いている。散歩のようではなさそうだ。それに二人…
「あれっ、木村さん…と斉藤さん?」
人というのは不思議なもので、何度か会っただけで親しくなった気になり、色んなことが気になり始める。あの二人は朝から川で何をやっているんだろうか。竿がないから釣りでもなさそうだし。これは行くしかない。妙な好奇心に駆られた僕は、ジャケットだけを羽織って顔も洗わずに外に出る。
「おはようございます!」
川岸の二人が驚いて振り返る。
「針巣様!おはようございます、驚きました」
斉藤さんが丁寧にお辞儀をする。木村さんも続けて会釈する。
「ここで朝から何をされているんですか?気になって思わず降りてきてしまったんですが」
「野生のニンニクとシソを収穫しています」
木村さんが早口で答える。
「ニンニク?うそ、どれがですか?」
「こちらです。かなり増えてきているので収穫しようかなと。西ノ宮様はニンニクお好きなので、お出ししたら喜ばれそうです。丸ごと焼くと、ホクホクしてお芋みたいな食感になるんですよ。針巣様も後ほど是非ご堪能くださいませ」
「朝から元気が出そうですね」
木村さんが微笑む。木村さんが笑うところを初めて見た。料理の話になると本当に楽しそうだ。僕には雑木林にしか見えないのに、料理をする人は目の付け所が違う。

部屋に戻ろうとエスカレーターに乗ると、逆方向から平野さんが降りて来た。
「あれ、早いっすね」
「いや、平野さんも早いですよ。ジョギングですか?」
「はい、ちょっと一走りしてきます」
降りるや否や走り出す平野さんを見て、僕も見習わないとなと怠惰な自分を反省する。ニンニクに心奪われている場合ではない。スケルトンの廊下を渡り、ふとコンドミニアムの奥側に行ってみたくなった僕は、グランドピアノを通り過ぎる。すると死角になっている奥の壁は、一面がボルダリング場になっていて、天井には無数の短い吊り輪がぶら下がっていた。ボルダリングで天井に到達した後、吊り輪で渡るシステムのようだ。このコンドミニアムが無駄に天井が高いことをずっと不思議に思ってはいたが、まさかこんな理由だったとは。床はありがたいことにクッション性のある素材になっているから、万が一落ちても死ぬことはなさそうだ。…と信じたい。
「やってみるか」
妙な好奇心が朝から止まらない僕は、ボルダリングを前に登らないわけにいかなかった。そういえば大学時代に一度だけ友人とボルダリングにチャレンジしたことがある。下から人にジロジロ見られるのが負担ですぐに辞めてしまったが。今日は自分ひとりなわけだし、恥ずかしく思う必要はない。右手を伸ばして届いた石を掴む。左足も安定しているから、このまま登り進めれば良い。少し登り進めたところで、手にチョーク粉を付けるのを忘れたことに気づく。終わった。どうりで滑るわけだ。しかしこれから引き返すにはちょっと勿体ない。お試しなんだし、このまま登ってみることにしよう。上になるにつれ、掴める石が限定され、小さくなっていく。ただでさえ滑るのに、変な汗まで出てきて危うく掴み損ねて落下しそうになる。
「あっぶね」
左手でかろうじてぶら下がり、僕はふと下を見る。まずい。結構な高さまで来ている。以前ボルダリングした時の記憶がフラッシュバックする。下から見れば大したことのない高さなのに、登っていると想像以上の高さを感じ、怖くなる。下を見るなと言われたことを思い出して、右足でなんとか踏ん張る。あと少しで天井だ。
「ん、え?」
吊り輪に手を伸ばした瞬間、僕はこれから手の力だけで進まなければいけないことを知る。既にボルダリングで手にほとんど力は残っていない。吊り輪にぶら下がるだけで精一杯だ。
「やばい、え…」
好奇心とは時に恐ろしいものだ。アホなことに、どうやって降りるかを考えていなかった。ボルダリングの場合は力尽きたらマットに飛び降りるのだが、吊り輪はどうするのだろうか。この高さから飛び降りたら、クッション性がある床とはいえ確実にかなりの衝撃を受けそうだ。どうしよう、どうしたら。すると運良くコンドミニアムの自動ドアが開く音が聞こえた。この状況で恥など気にしている場合ではない。誰でもいいから助けてくれ。
「すみ、すみませーん!すみませーーん!」
力の限り僕は叫ぶ。バタバタと駆ける足音がする。ピアノの奥から走り出てきたのは、ジョギングを終えた平野さんだ。天井から無惨にぶら下がる僕を見て、平野さんが驚く。
「え、ちょっと大丈夫っすか!」
「すみません、降り方を考えていませんでした。僕どうしたら…」
「その赤い吊り輪を両手で掴んで、吊り輪の下のボタンを押してみてください」
よく見ると白い吊り輪の中に、いくつか赤い吊り輪が紛れている。言われた通りに力を振り絞って赤い吊り輪を掴みボタンを押すと、ゆっくりと吊り輪が下がり無事着地することができた。なるほど、この赤い吊り輪は力尽きた僕のようなしょうもない人間のための配慮だったのか。
「本当は奥まで渡って、あの鉄棒でできた階段を使って降りるんですよ。俺も一回しか成功したことないんすけど。これきついっすよね」
「ええ、はあ」
手が棒のようになった僕は、まともに会話ができない。むやみにチャレンジするべきものではないと、大学時代にも後悔した気がする。人間とは、なんとも学ばない生き物である。
「手、大丈夫っすか。しばらく痛いっすよ。湿布腐るほどあるんで持って来ますね」
そう言うと平野さんは小走りで部屋に戻る。情けない。興味本位で人に迷惑をかけるなんて。湿布を持って来た平野さんが僕に質問をする。
「それで、登ってみてどうでした?」
「きつかったです。…でも悔しいですね」
「やっぱり。俺も悔しくてトライし続けてます。これが多分、西ノ宮さんが言う負から生まれるエネルギーなんじゃないすかね」
「負から生まれるエネルギー…」
腕を摩りながら、僕は西ノ宮さんの言葉を思い出す。闇を抱えている人の方がエネルギーがある、というのはどこかで悔しさを感じているからなんだろうか。弱さだとばかり思っていたが、それが悔しさに変わったらエネルギーになるのだろうか。
「ボルダリングもジョギングも同じっすけど、物凄く原始的じゃないっすか。ただ登るだけ、走るだけ。達成したところで何があるわけでもなく。でも継続することで、目に見えない何かを確実に得ている気がするんですよ。健康とかそういうのとは別で、心の軸が太くなっていく感じが分かるんすよね」
「心の軸、か…」
軸たるものがさっぱり見当たらない僕の心は、どうしたら良いのだろうか。僕は急に落ち込む。
「西ノ宮さんがここに高度なボルダリング施設を作ったのは、きっと悔しさを引き出すためじゃないかなって。絶対に一度では制覇できないレベルで作って、何度も挑戦させる。その中で負のエネルギーとは、っていうのを考えさせる。意外にちゃんと考えてるんすよ、あの人」
ポンと僕の背中を軽く叩くと、平野さんは立ち上がって爽やかに言う。
「じゃ、朝食で会いましょう」
部屋に戻る平野さんの広い背中を見つめながら、僕は負のエネルギーを考える。確かに悔しい。ただ登るだけなのに、ただ掴んで渡るだけなのに、どうしてできないのだろうか。悔しいと思っている自分自身がまた、罠に嵌ったようで悔しい。同時に腕を摩りながら、まあこんなヒョロヒョロの腕じゃあな、と納得もする。色々な思いが交差して、僕は複雑な一日を迎えた。


第13話

週末の朝食は、8時にスタートする。僕は腕を回しながら部屋に戻ってシャワーを浴びる。湿布を貼ってから服を着替えると、曇った洗面台の鏡に、やけに疲れた顔がぼんやり映る。まあ、こんなアクティブな朝なんて初めてだし、疲れて当然だ。おもむろに時計を見ると、そろそろ8時だ。湿布の匂いが食事の邪魔にならないように、重ね着をして部屋を出る。

スケルトンの廊下からは、右手には川とその向こうに広がる高層ビル、左手には豊かな森が茂る様子がクリアに見え、いつ歩いても都会と自然のバランスが絶妙だ。指紋認証でオフィスに入ると、右側にダイニングが見える。
「おはようございます、針巣様」
斉藤さんが入口で出迎えてくれる。まだテーブルについてもいないのに、既に美味しそうな香りが充満している。
「おはようございます…」
「あ、針巣さんおはようございます!聞きましたよ、ボルダリング挑戦されたって」
西ノ宮さんが嬉しそうに尋ねる。買ってやったオモチャで遊ぶ子を見て喜ぶ親の心情だろうか。僕が恥ずかしくてモジモジしていると、平野さんがフォローする。
「今日初めてっすもんね、まだまだこれからっすよ」
「ええ、まあ」
席につくと木村さんとお手伝いさんが焼きたてのパンとミネストローネ、サラダを運んできてくれる。カンパーニュの香ばしい香りが食欲をそそる。そこに豪華な柄のアルミホイルで包まれた、大きなニンニクが運ばれる。
「あ、これさっきの」
「左様でございます。バター醤油かマヨネーズとお味噌のタレでお召し上がりください。熱いうちにどうぞ」
木村さんが楽しそうに説明する。ニンニクは丸々と太っていて、野生美を感じる形だ。
「針巣さん、ニンニク知ってたんですか?」
西ノ宮さんがミネストローネを美味しそうに頬張って、僕に尋ねる。
「あ、今朝たまたま収穫するのを見まして。川岸に植っている野生のニンニクだそうです。シソもありました」
「うそ、いつも川の近く走ってたのに全然気づかなかったっす、俺!ニンニクだったんだ」
「面白いねー木村さんよく見つけたねーありがとう」
「とんでもございません」
西ノ宮さんは大富豪だというのに、金持ち特有の傲慢な感じはなく、常に感謝を言葉にしている気がする。当たり前と思わない態度が大切なんだと思わされる。感心しているうちに手元のバター醤油が溶けきってしまった。急いでニンニクを口に含むと、本当にお芋のようにホクホクとした食感だ。バター醤油が染み込んで、昇天しそうな美味しさだ。
「うま!」
思わず声が溢れる。カウンターで紅茶を準備している木村さんが微笑む。
「やば!これニンニク味の芋みたいっすね!不思議ー!」
「こういう食べ方良いね、新鮮。脇役じゃないニンニクもいけるね」
木村さんがカウンターから紅茶を運んでくる。お手伝いさんがティーカップのセットを持って後に続く。僕は勇気を出して木村さんに話しかける。
「木村さん、ニンニクとっても美味しいです。ありがとうございます」
「光栄です。夜にはシソをお出しいたします」
平野さんがニンニクを口いっぱいに入れながら、両手で木村さんにグッドサインを送る。木村さんは少し照れ笑いをしながら紅茶を注ぐ。紅茶はシナモンと胡椒がきいていて、スパイシーで頭がすっきりする。あまり紅茶を美味しいと思ったことはなかったが、今日はなんだか格別の美味しさだ。食道がじんわり温かく、幸せで潤されていく。

「あ、そういえば今日午後からさーやちゃんが由美ちゃん連れてくるって」
「え、そうなんすか!楽しみ」
「針巣さん、13時くらいにアジトに来てもらえますか?由美ちゃんの絵、見てみましょ」
「は、はい」
絵なんぞ鑑賞したことのない僕が見て何の役に立つとも思えないが、直接絵を描くところは見てみたい。どんな人なのかも気になる。

ダイニングを後にして、僕は部屋に戻りひとり考える。大富豪、大工、ハッカー、画家。共通点は、何かを生み出す職であるということ。無の荒野を開拓するには、もしかするとこういう人たちが適任なのかもしれない。僕だけが何も生み出せないんだなと気付くと、突然虚しくなってきた。何かを生み出すためには、力と潜在能力が必要なはずだ。潜在能力は今のところ見当たらないとして、「力」については努力でなんとかできる部分だろうか。ふとヒョロヒョロの腕を見て思う。うむ、この腕じゃ力も何もないわな。僕はタンブラーに水を注ぎ、コンドミニアムのジムに向かう。せっかく素晴らしく整った環境にいるのだから、活用しない手はない。

ジムには既に平野さんがいて、朝走ったというのにまたランニングマシンで走っている。止まったら死んでしまうマグロのようだ。
「あれ、針巣さん!」
マシンの速度を落として僕に話しかける。
「僕も少し鍛えて、力をつけようかなと…」
「お、良いじゃないすかー、あっちのマットで準備運動しっかりしてくださいね」
平野さんが指差す先には、紺色のマットが敷かれていて、モニターで何やらストレッチの動画が流れている。見様見真似でゆっくりやってみる。モニターのお兄さんにはいとも簡単にできる動きが、僕にはとても難しい。時々転びそうになりながら、一通り準備運動を終える。既に疲労困憊なのだが、これは本当に準備運動なのか。世の人々はこれを準備運動と呼ぶのか。平野さんはエヤッエヤッと変な雄叫びを上げながら懸垂をしている。足元にはカラーラベルと数字が貼られていて、赤が初心者、青が中級、黄が上級のようだ。数字はおそらくお勧めの順番だろう。赤の①には小さいダンベルが置かれている。モニターにはさっき準備運動と偽って僕を苦しめたお兄さんが、また笑顔で軽々とダンベルを持ち上げる動画が流れている。腹が立つ。このお兄さんは、疲れることを知らない。仕方がないのでお兄さんの言う通りに、立った状態で両手にダンベルを持ち、肩まで上げ下げを繰り返す。最初はそうでもなかったが20回を超えたあたりできつい。お兄さんは笑顔でこれを50回やれと無茶なことを平気で言う。やっとの思いでやり遂げると、今度は仰向けになってダンベルを上げ下げせよと言う。朝のボルダリング事件で腕がやられているというのに、腕攻めが激しすぎやしないか。お兄さんはこのあとも容赦無く腕トレを要求し、僕は①で力尽きた。


第14話

「こんにちわー!ビーンちゃんお母さんですよー」
「だからいつからお母さんになったんだって」
平野さんが興奮した熊を野原さんから引き剥がす。野原さんの後ろに小柄な女の子が不安そうに立っている。
「あ、こちら由美ちゃんです。金由美ちゃん。よろしくでーす」
「初めまして…」
金さんが小さな声で挨拶をする。西ノ宮さんがコーヒーを渡し、ニコッと笑う。
「西ノ宮です。ようこそ」

作業台につくと、例の如く西ノ宮さんがあっさりと無人島購入報告をする。
「それで、金さんが絵を描くところを一度見てみたいなという話になりまして」
「由美ちゃん、いつもの感じで描ける?」
野原さんが優しく尋ねる。金さんは黙ったまま、ゆっくりアジトを見回して何を描こうか考えている。パッとペンを持って、キャンバスの背景をモルタルのような質感で黒に塗る。そこに白で何やら「く」の字に曲がった太い線を描く。そんな形のものがアジトにあっただろうか。ハンモックを支える金具とか?白の線は下に行くにつれ細くなり、やがてキャンバスから消えていく。曲がった部分には灰色で少し陰影を付け、下部の細い線にも線を足す。ペンを緑に変えて、上部の一番太い箇所に、細かい格子状の長方形を描き、その上に重なるように一回り小さい長方形を描く。ここで僕はゾクっとする。
「え、これって…もしかして僕の腕ですか」
金さんが微笑みながら僕を見つめる。皆キョトンとしている。
「湿布、貼ってますよね」
「どうして、どうして分かったんですか」
「さっきご挨拶したときに、臭いで分かりました」
手を止めずに金さんは答える。僕のヒョロヒョロの腕が、キャンバスの中で一つの芸術になろうとしている。
「すーげー!針巣さん、腕がアートになってるっすよ」
平野さんが興奮している。僕は自分の腕を褒められているような気がして小っ恥ずかしい。こんなにヒョロヒョロなのに。重ね着で臭いを封じ込めたと思っていたのに。

「できました。針巣さんの腕です」
僕の湿布付きの腕は、暗闇の中で不気味に光を放ちながら曲がっている。白、黒、緑の3色だけだが、無彩色の中に緑がとても映える。シンプルなようでいて、腕のバランスや背景とのコントラストなどがしっかり計算されている。緑の湿布というのも、情けなくもオシャレだ。
「なんか…なんと言ったらいいのか分からないんですが、ありがとうございます」
僕ははにかみながらお礼を言う。西ノ宮さんが完成した絵を見て、金さんに話しかける。
「独創的で想像力もある。いやあ、良いもの見せてもらいました」
「でしょ?言った通りでしょ?」
野原さんが楽しそうに割り込む。隆々たる筋肉の主である平野さんを差し置いて、全く描き甲斐のない僕の腕を被写体にするところは確かに独創的だし、想像力がなければ湿布を描こうという発想は浮かばないだろう。臭いでバレてはいたものの。
「針巣さん、プリントしてきたよー」
平野さんが意気揚々とA3サイズで金さんの絵を印刷し、持ってくる。西ノ宮さんと野原さんが神妙な顔つきで眺める。僕はわざわざ印刷までしなくても、と思いながら、絵の完成度に密かに驚いていた。僕の貧弱な腕も、絵にしたら意外と、そのなんというか、しなやかな筋…
「これ、針巣さんに差し上げます」
「へ?」
金さんが僕を真っ直ぐ見つめている。
「うそー!針巣さんすごいじゃん、良かったじゃんすか!」
「後々高値がつくかもしれないですよ、今も十分価値あるアートですし」
平野さんと西ノ宮さんが感嘆している。野原さんは携帯を取り出し、金さんに「これキャプチャしてもいい?」と聞いている。野原さんは僕の腕をこの先どんな気持ちで眺めるのだろうか。金さんは裏に小さくサインをし、僕に絵を手渡す。
「おめでとう、針巣さん!」
「針巣さんよかったねー」
まるで何かの授賞式かのように僕は両手で絵を受け取り、深々とお辞儀をする。拍手喝采の中、金さんは僕を見つめ微笑む。調子に乗った平野さんが僕に無茶振りをする。
「えーそれでは受賞された針巣さんより、一言いただきます」
静まり返ったアジトで僕にだけ熱い視線と期待が注がれ、こういうの苦手なのになと思いながら僕は口を開く。
「まずは…お忙しいところお集まりいただいた金さん、野原さんに感謝いたします」
平野さんが下を向いて笑いを堪えている。
「バレないように重ね着をしてきたのですが、絵の前では全てが暴かれるようです。僕の内に秘めたる…その…流線美を、キャンバスの中にアートとしてしたためて下さった金さんに、心より感謝申し上げます。ありがとうございました」
目頭に指を当て、涙ぐむフリをしながら西ノ宮さんも笑いを堪えている。それを見た平野さんが吹き出す。またもアジトは拍手で沸き、僕は謎の達成感で満たされていた。

「ひとつお願いがあるのですが」
授賞式が終わると、金さんが西ノ宮さんに尋ねる。
「お仕事でご縁がなくても、こちらでたまに絵を描かせていただくことはできますか?素敵な場所だなと思って、描きたいものがたくさんあります」
「もちろんです。それに、一緒にお仕事しましょう」
西ノ宮さんが手を差し出す。金さんはリアクションこそ控えめだが、嬉しそうに手を握り返す。
「やったね、由美ちゃん!絶対大丈夫って言ったでしょ」
野原さんが半ば飛び跳ねながら金さんを祝福する。小さく頷く金さんは、無人島がどうとかそんなことは全く気にしていなくて、ただただ絵が描けることを純粋に喜んでいるように見えた。


第15話

ゲーム三昧だった僕は、明け方に寝落ちし昼過ぎに起きるという完全なる夜型生活を長い間送っていたが、ここに来てからというもの、眩しすぎる朝日と筋トレに狂った平野さんのおかげで、強制的に朝型に切り替わっていた。少しずつ起床時間も早くなり、日の出が遅い冬の早朝は、朝なのか夜なのか分からないほど暗いということを知った。ちょっと窓を開けて、ホーッと息を吐くと、冷たい暗闇に白い煙が溶け込んで無くなる。暗くて川こそ見えないが、窓から漏れるせせらぎは何にも代え難い演奏だ。僕は、早朝の汚されていない空気が生み出す神秘性に気付き始めていた。清らかで澄んだ朝の空気を、時間を、独り占めできる幸せに感謝していた。

「おざーすー」
平野さんは毎朝6時半に僕の部屋の扉をノックし、僕をジムへと誘う。筋トレの虜となった機械だ。
「おはようございます、寒いですね」
上着の袖を伸ばして手の甲を引っ込めながら、挨拶をする。
「寒いっすねー今朝は氷点下らしいっすよ。でも運動すれば問題ないっすからね」
「ええ、まあ…」
平野さんに連れられて毎日ジムに通うようになった僕は、初心者コース赤の③までこなせるようになっていた。未だモニターのお兄さんは憎くて仕方がないが、何クソと思いながら身体を動かすと、気付いたころには汗だくになっている。心なしか少し腕に筋肉がついてきた。…ような気がする。

木村さんによる栄養バランスのとれた料理のおかげで、肌艶まで良くなってきている。働いていた頃は朝食抜きで家を飛び出していたが、毎朝しっかり食事をとることで頭がスッキリするようになった。
「なんか針巣さん雰囲気変わったよね。元気になった感じ?」
そう言って西ノ宮さんがデザートの杏仁豆腐を大きく頬張る。クコの実がぽろっとテーブルに落ちたのを、指でつまんで食べている。
「でしょう?やっぱ筋トレの効果っすよこれー」
平野さんは完全にトレーナー気分になって喜んでいる。否めないな、と僕は思う。朝から運動して、食事をとるという、もしかしたら当たり前かもしれない生活が、眠ることやゲームが最優先だった僕を著しく是正してくれている気がする。
「針巣さん、サイクリング行きます?明日雨なんで、今日行っとこうかって西ノ宮さんと話してて」
「そうそう、一緒に行きましょ」
サイクリングどころかもう普通の自転車にも何年も乗っていない僕は、突然の誘いに動揺する。しかしなんとなく行く価値はありそうだ。
「あの…ええ、はい」
「よっしゃ!じゃあ10時に下のロビーで」

部屋に戻った僕は、金さんが描いてくれた絵を眺める。西ノ宮さんがわざわざ額縁に入れてくれたため、しまっておくのも勿体ないなと思い、壁に掛けてみた。自分の部屋に自分の腕の絵を飾るなんて少々不気味だが、白とシルバーで統一されたモダンなインテリアに、緑の湿布が良いアクセントになっている。指が描かれていないせいか、遠目で見ると抽象画のようでオシャレだ。
「あれ、なんか…良いかも」
朝日に照らされて輝く僕の腕は、依然として細く青白いものの、それはそれで一つの魅力として絵の要素になっているのが不思議だ。僕の腕も悪くない。しばらくして自分の腕をしみじみ眺めている自分が急に気持ち悪くなり、僕はサイクリングに出かける準備を始めた。

「針巣さんの自転車これねー」
西ノ宮さんと平野さんは、既にヘルメットまで装着して準備万端だ。普通の自転車より車輪が大きく、サドルが高い。僕の短足ではかろうじて足先が地面に触れるくらいだ。
「ちょっとだけサドル調整しましょっか」
平野さんが手際良くサドルを下げて、僕を再び自転車に跨がせる。
「うん、良い感じっすね」
「すみません、ありがとうございます」
ヘルメットを被って、二人の後をゆっくり追う。車輪が大きいからか、漕ぐために結構な力が必要なのだが、通常よりサドルが高いおかげで力が入りやすい。良くできているな、と思いながら周りを見る。川の周りは土手になっていて、ちょうど良いサイクリングロードになっている。平野さんが先頭を走って、左側に石があります、ちょっと濡れてるので注意です、など丁寧に教えてくれる。普段あまり西ノ宮さんが左目が見えないことを感じたことはなかったが、こういう時はやはりガイドが必要なのだろう。と二人を眺めているうちに、両目しっかり見えているはずの僕は、段差につまづき転倒する。
「大丈夫ですか!しぃちゃん、ちょっと待って」
自転車が倒れる音で、西ノ宮さんがすぐ駆け付ける。幸い怪我がなかった僕は、二人から心配されてちょっと申し訳ない。平野さんが自転車を起こして僕に語りかける。
「サイクリングをする時は、自分の少し先の道をしっかり見ておくことが大切なんすよ。足元見てると急な段差やカーブに対応できないんで」
二人を眺めていたとは恥ずかしくて言えないので、とりあえず頷いておく。再び自転車に跨った僕たちは、冬の風を切って一列に並んで走っていく。「少し先の道を」しっかり見ておく理由が分かってきた。先を見過ぎても足元を見失うし、足元だけに集中し過ぎると、次の展開に対応できない。働いていた頃、僕はきっと先を見過ぎていたんだと思う。それも見ていたというより、なんとなくそうなれば良いなという願望に近いもので。実のところ何がしたいのか、自分はどこを走ってどこに向かっているのか、現実的な少し先の道を考えられていなかった。僕は二人の後を追いながら考える。質の高い誘拐を経て無人島開拓という無謀な計画に至るまで、全く僕には無縁のネクストステップではあるものの、何かを着実にこなしている感覚があるのは何故だろう。多分ここに来たことで、色んなものを取っ払って、僕が僕自身をちゃんと見つめ直すことができているからかもしれない。もっとも、周りには自分を見つめ直すと宣言してきたのだが。こんな形で見つめ直すことになるとは思ってもみなかった。朝日を浴びて起きたり、しっかりご飯を食べたり、運動をしたり、自然に感動したり。僕の中では完全に優先順位が下がっていたけれど、案外こういう当たり前のことを大切にすることで、難しく考えすぎていた「少し先の道」が見えてくるのかもしれない。

冷たく吹きつける風で手指はかじかんで折れそうだが、絶えず動かし続ける足のおかげで身体が熱い。白い吐息と過ぎゆく景色が僕の履歴となって、誰にも気付かれることなく静かに街に残っていくのが、僕はとても心地良かった。


第16話

「ドローンで島の様子を見てみまーす」
アジトに集まった僕たちは、冬で視察が難しい無人島にドローンを飛ばし、空中から島の様子を見てみることになった。ドローンは西ノ宮さんの知り合いが操作してくれている。
「すげえ…なんかすごく…」
「茂ってますね」
「ちょっと、名前で遊ばないでもらっていっすか?」
平野さんが笑いながら僕を睨む。
「真理島は既に陸地と連結していて、簡易的ではあるんだけど道路もあるんだよね。道路とインフラ関連は先に整備しとくんだけど。ご覧の通り島全体に木が生い茂っているから、半分くらいは伐採して、それをログハウスとか桟橋に使おうかなって思ってる。みんなは何かこういうことしたいみたいなのある?」
あの人はちゃんと考えている、という平野さんの言葉を思い出す。たしかに西ノ宮さんは、常時ふわふわしているようで芯がある。そしてその芯は、無謀なものを現実に変える力を持っている。
「あの…芸術があると素敵かなって」
金さんが小さい声で控えめに意見を出す。野原さんがパソコンで書記を務め、モニターに「芸術」の二文字が追加される。
「大賛成!芸術には具体的に何があるかな」
野原さんが皆に芸術の細分化を促す。
「絵画、音楽…」
僕は知る限りの芸術を挙げてみる。西ノ宮さんが深く頷いたあと、にっこり笑って付け足す。
「あと、建築、アーキテクチャーも入れたいよね?しぃちゃん」
「もちろんっす。せっかくだから島の自然を建築にうまく融合させたいっすね」
「あと技術も。なるべくシンプルに、斬新で、スムーズに」
野原さんはさすがハッカー、いやプログラマーだ。
絵画、音楽、建築、技術と来て、僕はこれらをどう形にすべきか悩んでいた。
「強いて言うなら、スタジオでしょうか。総合施設というとなんかダサく聞こえますけど、芸術を楽しむためのスタジオなら、島の雄大な自然という付加価値を伴って、特別感が出そうな気がします。芸術のベースは、自然なのかもしれない」
僕は説明しながら、コンドミニアムでの生活を思い返していた。僕がここで学んだのは、きっと人の生活の原点だ。自然で生かされ、生きていく、当たり前だけど蔑ろにされがちなこのメカニズムに、「自然を活かす」というブロックを付け足した近代的なモデルを見てみたいと僕は思った。
「それ…素敵な考え方ですね。芸術のベースは自然っていうの」
金さんが僕に微笑む。腕を絵に描かれてから、僕は金さんと話すとなんとなく照れてしまう。平野さんがニヤニヤしているのに気付いた僕は、すぐに平静を装って真顔に戻す。
「大きく考えると、新しい文化を作っていくのに近いかな」
西ノ宮さんがコーヒーを一口飲んで、ゆっくり話し始める。
「自然と芸術を融合したときに生まれるシナジーを感じられるような。それが無人島という場所の特性と連結して、唯一無二の新しい文化を作っていけると嬉しいな」
「新しい文化…無謀な計画が更に壮大に膨らみましたね」
平野さんが文化、という言葉の重みを噛み締めている。新しい文化を担う一員になるのかと思うと、単純なプロジェクトと捉えていた今までの自分が既に幼く、未熟に感じる。
「でもなんか、めっちゃ嬉しいな私。新しい文化を、自分たちの手で一から作っていけるなんて」
瞳をきらきらさせながら、野原さんが話す。金さんはそんな野原さんを見つめ、静かに、でも嬉しそうに頷いている。
「じゃ、新しい文化の始まりに、乾杯!」
平野さんの音頭に合わせて、皆ちょっとクスクス笑いながらコーヒーカップを突き合わせる。昨日から降り続く雨のせいで、窓の外の川は茶色の濁流と化している。アジトに流れるラフマニノフを掻き消すようにゴーゴーと音を立てて激しく流れゆく川を眺めながら、自然を愛する覚悟を胸に、5人は春を待つのだった。


あとがき

小説を書くなら、現実とファンタジーの狭間を良き塩梅で書きたいなとずっと思っていたわけなのですが、長い間ぼんやり構想だけが頭の中で浮上しては消えを繰り返し、文章としてアウトプットしようと決心したのは、年が明けてからでした。その頃は全く創作大賞があることなんて知らず、ただ脳内の消しゴムにこの構想をあっさり消される前にと、キーボードを打ち続けていました。イベントに気付いた頃には既に締め切りまで一ヶ月を切っていて、この莫大な情報を納得のいく形で収めるには時間が足りなさ過ぎて、寝る間も惜しんで悩み、何度も挫折しかけたのですが、針巣さんが生かされ生きてゆく姿を綴り見守る中で、書き手でありながら、彼に助けられる場面が多くありました。

すごく失礼な話をするのですが、この種のイベントやコンテストって、本当に読んでいらっしゃるのか、そもそも膨大な数の作品をどうやって読み捌くのか、きっとクジか何かだろうと、ひねくれた私のような人間は思わざるを得ないのですが、今年我が家は非常に運気が良く、まさかという幸運の連続なので、この際ですから私も便乗し、どなたか心優しい方の清き目に止まれば良いなとお祈りしてみます。備忘録という役割の方が個人的にはしっくりきているのですが、この際ですからね。

さて前述の通り、普通の仕事をこなしながら一ヶ月で書き上げたため、いかんせん私の体力が追いつかず今回は上巻のみの公開となりますが、下巻では針巣さんを始めとする登場人物のもっと深い過去と精神の世界を、開拓されてゆく無人島の姿に重ねてお届けする予定です。上巻を経てもなお終わりの見えぬ無人島開拓と新文化の構築に私自身怯えながらも、まだ見ぬ世界に期待と思いを馳せる5人と共に、命芽吹く春を待ちたいと思っています。それでは、下巻で元気にお会いいたしましょう。ありがとうございました。

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