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「竜とそばかすの姫」について

細田守監督作品はサマーウォーズからずっと観てるのだけど「おおかみこども」と「未来のミライ」あたりで監督の社会との関係性がよくわからなくなって「もう観ないでもいいかなぁ」と思い始めていた。が、やっぱりサマーウォーズを久しぶりに見てみるとその出来はとても良くて「もう一度こういうクオリティの映画が見れるなら観たいなぁ」という気持ちから映画館に向かった。

以下は盛大にネタバレするので未見の方は読まないでくださいね!!









サマーウォーズからインターネットについて知見がアップデートされていない

オープニング直後にサマーウォーズを思い起こされるネットシステムの説明が入る。が、この説明的な件は必要なのだろうか?間違いなくサマーウォーズを想起してしまうし、それだったらいきなり中村佳穂さんの歌から始めても良かったのではないだろうか?と思う。中村佳穂さんの歌はこれから以下に書くこと全てを薙ぎ倒す力があって、多分それだけでこの作品を良い作品だ、と言ってしまえることもあるだろうと思うだけに、出だしから結構がっかりした。

とは言え、UがサマーウォーズのOZのアップデートされた世界(なのかもしれない。原作は読んでないし監督のインタビューなども追ってないのでわからない)なら話はまだわかる。だが、アバターの感じもサマーウォーズからアップデートされていないし、ネット空間の描かれ方も変わっていない。でもそんな見た目の話ではなく一番気になるのは「現実はやり直せない。Uならやり直せる」という説明だ。実際のお話の中では「Uもやり直せない」ものとして描かれている(ようにみえる。主人公の友人の眼鏡の女の子が「全部失うのよ!!」と取り乱すシーンなど)。そもそも「Uならやり直せる」っていうのは設定としてどうなのだろう。

だって、現実のインターネットですら「ネットはやり直せる」ということはないわけで、人間の振る舞いというのはその人のキャリアとしてついて回るのは最近のオリンピックがらみのドタバタを見ていても感じるところ。一体これ、いったいどういうつもりで設定してるんだろう、、、というあたりから物語は始まる。

モブのセリフがステロタイプで機能していない

いわゆるモブのガヤ、みたいなセリフがとにかく酷い。内容はステロタイプでありそれを言葉で聞かせる意味があるんだろうか。この辺りで「自主映画を見てるのかな」という気持ちになってきた。あととても気になったのがモブの声優さんの演技。あれは本職の方なんでしょうか?とても素人ぽかった。声優さんに関しては、登場人物もほとんどが声優さんでないというところもあってその辺りも「中村佳穂さんが声優さんでもない中主役やってるならその周りは固めてあげてよ、、、」という気持ちになったけど(とはいえ破綻してるというほどでもないのでトピックにはあげていない)、舞台装置たるモブに関してはああいうステロタイプなセリフを言わせるなら上手い人を使って慎重にやるべきだと思う。あと音量のバランスもあんなにはっきり聞こえる必要があっただろうか。

まぁ悪意が伝わる、という意味では大変いい効果ではありましたが、僕はとても不快でした。

「美女と野獣」と揶揄されるがされても仕方ないほど意匠がディズニーぽい(しかも主役だけ)

これはもう言われても仕方ないと思うよ。散々ディズニーに「ライオンキングはジャングル大帝のパクリ」とか指摘が過去にあったわけだけど、今回はディズニーに「竜そばは美女と野獣のパクリ」と言われても仕方がないと思う。もちろん物語の構造を借りてくる、というのはあると思うし、それは全然良い。「ああこれって要するに『美女と野獣』ですよね」という風になる物語というのはいくらでも過去にあるし、そういう本歌取りやオマージュみたいなことはいくらでもあった。ただ今回は意匠的にディズニー映画ぽく見えてしまう、というのはこれで良かったんだろうか。実際ヒロインの名前は鈴だし、アバターの名前はBellなので美女と野獣なんだけど。これは意図してやってるのは間違いないわけで、だとすれば「パクリ」ぽくならないためにはどうするか?は本当に慎重にやらないといけない部分なのだと思う。

あと、竜とベルの二人とそれ以外のキャラクターの差がありすぎる。ベルを美しく描く必要があるんだろうけど、それだとしたら周りのキャラクターも同じくらい美しく描いておかないと、、、特にアニメーションは絵によるギャップがそのまま出てしまう。というか、Uのシステム的に鈴の内向的で自信のなさのギャップであり、竜もDVという環境からくるギャップなのだと思うんだが、申し訳ないけどそんな話いくらでもあるので、あの二人だけが特別醜く/美しく描かれる動機(この後書くけどこの「動機」という部分が一番の問題だと思う)として弱い。

登場人物の機微について動機が描かれない(説明的にも叙述的にも)

ここが1番の問題だと思っているんだが、とにかく登場人物行動や心の機微に対しての動機が描かれないし、説明されない(セリフ的にも叙述的にも。叙述的に描かれているんだとしたら伝わらなかった)から主人公のセリフにずっと違和感を持っていた。例えば主人公が竜に始めて出会うシーンで、主人公は「あなたは誰」っていうのだが、そんなことあるだろうか?自分がやってるライブを妨害され迷惑をかけられているのだから「やめて!」だの「出ていって」だのが普通の反応で、もちろん主人公には物語を駆動する必要があるので、物語のなり行き上はあそこで「あなたは誰」という問いを発する意味はあるにしても、その問いを発する理由が全く描かれていないので唐突すぎる。この動機がわからない/心の機微が描かれてないというのはとにかく徹底していて、例えば鈴が過去のトラウマから歌を歌うことができなかったのが、Uのベルとしてトラウマを克服し、歌えるようになったというシーン(と書くとそんな描かれ方をしてると思いそうだがそんなシーンはない)があるんだが、これもいきなり歌えるようになってしまい、吐くほど歌えなかったトラウマについては触れられもしない。まるでトラウマなんて無かったように鈴は明るくなっていく。

後で書く話とかぶるけど物語終盤、鈴が竜とその弟を助けに東京に向かう場面で、誰も静止させないことからすんなり行けてしまう。どれほど行きたいのかが全くわからない。

お父さんとの関係性が悪いことはずっと示唆されているが、それが東京に向かう深夜バスの中のラインひとつで解決してしまう。

正直、この辺をしっかり描かないとこの作品って作る意味が半分くらいなくなってしまうのではないだろうか?

唯一、とてもいいシーンだったのはカヌー男子とサックス女子の告白シーンのシーケンスはとても良かった。演出も良かったし。「女に告白されたことなんかねーし」ってのは本当にそうなんだろうな、と微笑ましかったし、サックス女子の声の裏返り方も良かった。画面の中外をうまく使っての演出も良かったし、、、ていうかこういうことができるんだし、演出家としての細田守監督というのは大変優秀なので、もっと気軽に演出で見せていく(もっと言えば演出だけに専念する。過去の細田作品で結局良かったのは脚本を書いていない「サマーウォーズ」だけということになる。個人的には「バケモノの子」は好きだけどこれはお話としては弱いところを演出でぐいぐい見せていけた例だろう)ことをしてもらいたいと正直思った。

というか、脚本手放しても全然細田作品になると思いますよ。

ポリティカル・コレクトネス的な配慮してるのだろうけど、その方法が歪んでいる

物語を動かす登場人物がほぼ女性で、男性は全員が受け身だった。唯一カヌー男子だけが「告白する/される」の件でサックス女子と対等な関係性を見せるんだが、鈴の幼馴染に関しても作中で言及されているように「お母さん」の代理だし、お父さんは鈴に距離を置かれていることに対しての機微が感じられず受け身だった。竜とその弟は父親に虐待されている、という受け身の存在だしで、男子全てが女子化してるか受け身になっている、という意味で登場人物が大変歪な関係だと思った。

で、これは次の話にも続く、、、

社会システムに対する信頼がない

そういうった歪んだ人たちは作中「とても良い人たち」として描かれ(主人公の友人が「ニヒリスト」なんだが結局儲けはチャリティーに流しちゃうし、主人公のいじけを見守ってるいいやつだし、イジメはすぐさま解決しちゃう、スーパーマンだった、、、)ているのだが、その良い人たちの「人の良さ」が間違った方向に向かっているのだ。これは最後のシーンについて顕著であるのだが、主人公が東京に竜とその弟を助けにいくところで誰も止めない!!しかも四国から東京に向かうわけで、48時間ルールとも時間的にそんな大差ないだろう。もしも、すぐに助けなきゃ、と真剣に思うなら東京いる知人を頼るなりなんなり、それこそネット社会ということが前提ならネットでなんとかするとか代わりの方法はいくらでも考えついてしまう。とは言え「でもそれだとお話にならないでしょ」という意見があるのはもっともなので、主人公が東京にどうしても行きたくなっちゃうこと自体は止めないし仕方ない。が、その行動までの過程があまりになさすぎる。ここでも動機の提示がされない。「行かなきゃあの子たちが危ない」というのは鈴の母が「行かなきゃあの子が死んじゃう」と川に入ったのと同じだ。ここを重ねてることで肯定しようとしてるならそれは大人として間違っていると伝えなければならない。そのことを例えば、東京行くということを聞かない鈴を合唱サークルの年長の女性が軽く平手打ちする、くらいのことがあって然るべきだし、代理母的な幼馴染と一悶着あったっていい、そもそも他者への信頼があればいくらでもアイデアは思い浮かぶし「自分が助けたい」というのは自分の勝手な気持ちなのだ、ということは鈴はトラウマレベルで自らの母の水難事故を見て知っているはずだとさとしてあげないきゃ嘘だろう?

それでも物語として行くのはわかる。たとしたらやっぱりその手順が必要であって、例えばそこに始めて父親が積極的に関わってもいいと思う。そうすれば、竜たちを庇おうとする鈴を殴ろうとする竜の父親に対して鈴が強い意志を示しただけで相手が折れる、などという超能力現象だって別の解決策が思い浮かぶはずだ。

この細田守監督の社会システムや他者への信頼感のなさ、というのはどういうことなのだろう、、、。

歌が都合よく使われている

オープニングの話はしたが、基本的に歌がこの話を進める上で欠かせない要素になっている。そういう意味でもモチーフとして使われたであろう「美女と野獣」がミュージカルだったこともあり、やっぱり「美女と野獣ですよね」と思うわけではある。が、ミュージカルだとよくモノローグの代わりに歌の歌詞が使われることがあり、それが心の機微を反映した内容になるんだけど、今回はどちらかというと説明台詞や物語を駆動する装置として使われてしまっているので、先に書いたようにそもそもその動機がわからないので歌が機能しない。ただとにかく歌の力は力強く、それをいい音で聞いてるだけでなんとなく「いい映画だなー」と錯覚させるくらいのことはある。

が、現実はそう甘くはなく、鈴がアバターではなく自分の正体を明かして歌うシーンがあって、そこでは「自分自身で歌えるのか?(元々一人で歌うと吐くくらいのトラウマがあった。解決しちゃってるけどね)」とか「竜が信用してくれるのか」という大層なプレッシャーの中で歌うことになる。いや考えただけで吐きそう、、、普通の感覚でも、、、という大一番なのだが、皆に受けいれられて笑顔になってしまって、そんでもんってまたアバターに戻ってしまう、、、というもうどういう気持ちの流れなのか僕にはわからないよ!!!って正直なった。

ただなぁ、本当に音楽はいいんですよ。でも作品の記憶があるからサントラは聞かないと思うけど。音楽の人たちは素晴らしい仕事してると思います。作品との関係がチグハグなだけで。

アニメーション作品としての面白さが「絵的にもあまりない」

新海誠監督の「天気の子」という作品は大変エポックで、今んところあれを超える写実的難易度(この難易度には権利関係の解決なども含まれる)を超える作品はないのではないか?と思う。もちろん「竜とそばかすの姫」でも四国の(四国の橋懐かしかった、、、)素晴らしい風景が描かれているんだけど、全体的にもうそう言った「画面の流麗さ」を評価するのは難しいと思う。新海誠監督ですら「物語を今どう描くか」ということに対してかなり真摯に向き合った結果、東京を海に沈めたわけだ(新海監督の本気が見えた気がして、大喝采でした)。技術的な絵のよさというのは最近だと「映画大好きポンポさん」の光の回り込みの表現だとか、アニメーションとしての良さは別に書き込みや流麗さだけでなく別にいくらでもあるわけだ。あと基本的にアクションシーンがすごいあるとか、物語がサマーウォーズのようにグングン前進していくということがないので、基本的地味な作品ではあるんだが、ずっとベルのMVを見てるような気持ちだった(だってそこだけは歌の力があるから観れちゃうんだもん)。いやでもこのクオリティで作るのは大変だと思うんですけどね、、、CGとかも全然不気味の谷とかないし、、、。とはいえ、何かじゃー絵で良かったと思うところがあるかというとそれはない、としか言えないんだよな(カヌー男子とサックス女子のシーケンスくらいですかね、、、でもあれは絵がいいというよりも演出がいいだしな)。

お話として要素が多い割にその全てが特に意味もなく解決する/しない

要素がとにかく多い。羅列すると、、、

・鈴のトラウマ
・父との関係
・ベルとしての成功体験
・幼馴染との恋愛関係
・上記に関してのイジメ未遂
・マッドな友人
・合唱サークルのおねいさんたち
・子供に対する虐待
・ネット自治に関する問題

一番「えーーーー」ってなったのは幼馴染に手を握られたことでクラスのLINE?みたいなので一気にイジメに発展しそうになるのを、マッドな友人が神業の如く解決するシーン。ふざけんなよ。イジメ舐めてんのか、、、とちょっと思った。いやまぁ初期鎮火は大事ですし、実質そんな「噂になってるよー」くらいで済む話だし、実質物語のラストシーンでは今後の鈴と幼馴染が恋愛に発展しそうな感じを示唆してるし、で何も大事ではないんですが、、、だったらいらんだろその一連のシーケンス、と。あのメガネハッカーみたいな子、もっと活躍できたんじゃないのかな、、、。

あと、ネット自治に関する話も悪役が欲しかったんですね?という以上には全く見えてないし、ていうか竜がやった悪いこと、というのがなぜか解決もされてないし、許されていいことなのかどうかもわからないし、そもそもあの正義の味方集団が本当に悪い(多分ネット警察的なものを揶揄してんだと思うんだけど、竜がそれに見合う何かをしてるんだとしたらそれはそれで考えないとならないことだと思うのだ)のか全くわからなかった。

で、あんだけ距離を置いてることを示唆していた父との関係なんか、LINEひとつで解決だしなー。

要素が多い割に特に発展もせず解決してしまう、というのがちょっとびっくりした。いや先にも書いたけど「全員が良い人」なのだが、こう心の機微が描かれないとただの不気味な集団に映ってしまう、ということがわかった。

なんか人間関係が薄すぎやしないか???

監督のこの映画を作る動機が伝わってこない

で、ずっとこの映画のネガティブな感想を書き連ねていて大変心が痛いのだが、というのも僕は「サマーウォーズ」が文化庁メディア芸術祭で大賞を取ったときに同じエンターテイメント部門で奨励賞をいただいてるグループに所属していたということがあり、授賞式で細田監督が賞をもらうところも見て(もちろん作品は見てたしブルーレイも買ったさ!)、その後パーティで我慢ならず細田監督に握手し「本当にこの作品が大賞を取ってくれて良かったです。ありがとうございます(一言一句そのまま)」と伝えるほどいい作品を作る監督だな、と思っているからです(今考えるとキモいファンだよな、、、)。

とはいえ前回の「未来のミライ」で「この時代になんでこんな作品を作っているのかが全くわからない」となって以来、一体「サマーウォーズが一番の作品になっちゃうのかなぁ、、、」と寂しく思ってました。で、結局何がわからないかというと、監督が今の時代のどういうターゲットに向かってどういう作品を作りたいと思っている、という動機が今回も全然わからないんですよね。で、それはどこに問題があるかというと「脚本」だと思う。似たような監督に押井守監督という「他人が原作の作品を撮ったらめちゃくちゃエンターテイメントなのに自分が脚本書くとめちゃくちゃアート作品ぽくなる」という監督がいますが(悪いことではないです)押井守監督の場合自分で脚本書いても、誰に向かって作ってるか/もしくは誰にも向かってない内向的な作品なのか?みたいなことをこちらでなんとなくわかる/もしくは勘違いできる、だけの仕掛けと脚本になってるんですよね。

今改めて「サマーウォーズ」を見ると本当に脚本とそれを生かす演出が素晴らしいです。今回の「竜とそばかすの姫」で監督のアップデートされた姿が作品から見えるといいな、と思っていましたが残念ながら僕にはその辺よく伝わりませんでした。

というわけで、長々と勝手なことを書き連ねましたがメディ芸で握手した時の気持ちのまま応援してますので、次回作もきっと見に行きます。次回作に期待しています!!

追記。

そう考えたらなんか落ち着いて見れるような気がしてきた。もう一回くらい見にいってみようかな、、、

そういや「バケモノの子」はそのあたりのインフラやコンプラが関係ない架空の話だから成立してたのか、、、。現代性を保ちつつ作品を作るのってほんと大変ですよね、、、。

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