バートルビー、あるいは革命と批評をめぐる走り書き

以前、メルヴィルの「書記官バートルビー」を読んだというHさんが「わたしのことが書いてある、バートルビーはわたしだと思った。でも本当に使えないおっさんと一緒にされたくない」と言ったので、思わず「いや、その本当に使えないそのおっさんこそがバートルビーですよ!」と力説したことがある。「書記官バートルビー」とは「せずにすめばよいのですが……」と言いながら仕事を断りつづけ、よくわからない理由で弱って死んでいくという、それだけの話なのだが、世のあまねく人々の「仕事したくない」という気持ちがぎゅっと凝縮されたような小説で、長く愛されている短篇小説である。バートルビーの決め台詞(I would prefer not to)はTシャツにもなっていて、世界的な思想家であるスラヴォイ・ジジェクもよく着ている。

ただ、このTシャツを着ている人は、意外と働き者だったりするのだ。ジジェクなんて、いっぱい本を書いて大学でも教えていて、Youtubeもやってる。わたしの知っている範囲だと、吉川浩満さんもこのTシャツを持っているが、出版社で編集者として働きながらいっぱい本も書いて、Youtubeもやってる。みんなめちゃくちゃ働いていてアクティブで、全然バートルビーじゃない。あとジジェクの字幕翻訳をしているあの人も無職だけどアクティブで、最近は映画批評で話題だ。Youtubeもやってる。この中では「働きたくない」という強い意志を感じるけれど、あの人はバートルビーというか、ジョージさんだ。別人。

みんなバートルビーを愛しているが、バートルビーではない。バートルビーになるのは、不可能なのだ。じゃあバートルビーというのは現実には存在しないのかというと、そんなことはない。バートルビーは、そこらじゅうにいる。誰もが見たことある、会社にひとりはいるだろう仕事をしない人間、それはみんなバートルビーだ。なぜ仕事をしないのか、傍目にはできないのかしたくないのかさえよくわからず、本気で周囲を苛立たせているあの人たちはみんなバートルビーだ。数にしてみれば、多いとさえいっていい。でも「バートルビーになる」ことはできない。

「バートルビーになる」にはバートルビーを知らなければならない。でもバートルビーを知るとバートルビーにはなれない。なぜならバートルビーを読んでしまったからだ。バートルビーを読んでしまったなら、もうバートルビーになることはむずかしい。

バートルビーを読む前、わたしはバートルビーだったかもしれない。でもバートルビーを読んで「これはわたしだ」と思った瞬間に、そのわたしはバートルビーではなくなる。心細く頼りないわたしが、孤独に死んだバートルビーと一緒に死んで、癒された孤独とともにわたしは生きるようになる。バートルビーの読者になるとは、そういうことだと思う。誰もがそこに、バートルビーに自分自身を発見する。そして、もう二度とバートルビーにはなれない。バートルビーはもう、見出されたのだ。だから読者にできることは、せいぜいそこかしこに点在するバートルビーを見出すこと、そしてバートルビーを肯定することだけなのだ。

でもこれがまたむずかしい。冒頭のHさんに「使えないおっさんこそがバートルビーですよ!」と息巻いたことを、いまここでちょっと反省している。Hさんの近傍にはリアルバートルビーこと「本当に使えないおっさん」が存在するのだろう。バートルビーを肯定するというのは、自分がその分の割を食うということでもある。給料は変わらず、仕事は増え、自分の時間は減っていく。バートルビーという主人公を肯定するために、自分は生きていけるだろうか。ただそれだけのために、見出されもせずに、ただ人生が終わっていくとして。

バートルビーを肯定することの途方もなさと同時に、バートルビーが完全肯定された世界のことを想像してみる。一度すべての人が労働から解放された、遊んだり本を読んだりするだけの世界を想像してみたが、少し違う気がした。世界はもう少しいびつであってもいいように思う。仕事にのめりこむ人も一生遊び呆ける人も堅実に生きていく人も本当に何もしない人が同時に存在していて……と考えてこれもなんだか違う気がした。理想の世界が実現されてほしいのではなかった。そして、この世の中にいるすべての人にわかってほしいわけでもないのだ。世界がガラッと変わってしまうことを、望んでいるのでもない気がした。ただバートルビーと読む前と後では、その一点においてすべてが変わってしまったように、その一点においてすべてが変わってしまうようなものを見たいのだ。

わたしが主人公の物語を、しかしわたしは読むことができない。文章を書いている、わたしができるのはバートルビーの居所を指さすことくらいだ。それでも何度も指さす。いつか何かのかたちで、わたしの生きる世界で何かが決定的に変わってしまっても、わたしは気づかないだろうと思う。おそらくゆっくりと変化していくその何かを、そのさなかで生きているわたしは自分の場所を離れてそれを指さすことはできないと思う。人生は短い。しかしわたしが決して読むことのできない物語を、きっと誰かが読むだろう。そして指さす。わたしがどんな解釈もしなくていいこの物語をわたしはただ、たった一度、登場人物として、読者のことも作者のことも知らずに生きていく。

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