20190703

今日は。

8時と9時と10時と11時にいちどずつ目を覚まし、むだな起床をくり返す。今日は早く起きれそうな気がしていたのに。でもセーフだ、13時30分の映画に間に合ったから、今日はオールOK。

今日観た映画は2本。『友よ!友よ!友よ!』と『外国人よ、出ていけ!』。ともにドキュメンタリー映画、主演は演出家のシュリンゲンジーフ。

やはり『外国人よ、出ていけ!』は秀逸だと思った。本作は、2000年ごろ、オーストリアの与党が極右政党と連立を組んだことを受けて、ドイツの演出家シュリンゲンジーフ が起こしたアクションを映している。極右政党のスローガン「外国人よ、出ていけ!」を丸パクリして、移民をコンテナに収容し、電話投票の多い順から次々と国外追放する、というパフォーマンスを起こしたものだ。コンテナは見世物として広場に置かれている。7日間。シュリンゲンジーフのねらいは、自分たち(の国)が何をしているのか、オーストリア市民および政府に投げかけることだった。
わたしはこれを批評的な眼で見ることはできなかった。だから、いいとか悪いとかの判断はできないし、この作品に対する気の利いたことは言えない。ただ、この作品を観ながらわたしは、自分だったらどうするかを考えていた。日本ならどうだろう?この手法は有効か?自分ならどうするだろう?と考えていた。

シュリンゲンジーフのアクション(パフォーマンス)に対し、右派市民は歓迎したし、左派は猛烈に抗議した。大衆で彼の意図を理解している者はいなかった。あるいは、受け入れられる者はいなかった。広場前は毎日混乱し、市民たちは激烈な議論を、決して穏当ではないかたちで交わす。7日間のパフォーマンスが終わった後、何が残ったのか、わたしにはわからなかった。

「こんなことをして意味があるのか、どうせ何も変わらない、と何もする気がないものだけが批判する。大事なことはそんなことじゃない」

✳︎

さて日本のシュリンゲンジーフと呼ばれる者に外山恒一がいる。2007年の都知事選に立候補して、その政見放送がYoutubeで話題になった。政見放送なのに「選挙じゃ何も変わらないんだよおッ」と叫ぶ、その姿が彼のスタンスを象徴している。彼は2016年、立候補せずに選挙活動をする。ニセ選挙運動と題して、あえて棄権を促したのだ(「投票用紙には外山恒一とお書きください。ただし立候補はしていません」!)。

外山恒一の意図は10年間変わっていない。選挙を相対化すること。選挙だけが政治参加ではないことを示すこと。彼の活動は選挙に甘んじる市民を挑発する。彼が現実に介入する手法はとてもユーモラスで鮮やかだ。わたしは一時、彼の活動を熱心に追っていた。不安で眠れぬ夜、Youtubeで観られる動画をくり返し再生した。電気を消した暗い部屋で光る、真夜中、彼だけが唯一痛快な芸術で批評で政治だと思った。

彼に対する尊敬はいまも変わらない。

しかし彼の動画を貪るように観ることはしなくなった。わたしはいま、熱心な彼の熱心なフォロワーではない。ただ彼ができないことややらないことについて、そのなかでわたしができるかもしれないことについてときどき考える。

外山恒一は彼を目撃する者を、観客から当事者へと変えてしまう、と誰かが言っていた。

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