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朗読:サイコセラピスト・リタ 律子編①

車庫から出るとリタは空を鬱陶しそうに見上げる。まだ豪雨の最中だ。鬱陶しい湿気にも顔をしかめた。この屋根付き車庫から玄関までの10メートル程でどれだけ濡れるか。買ったばかりのポルシェの中で待つのも良かったが、早く片付けたい仕事もあり、やはり玄関を選んだ。その少女を見つけるまでは。

玄関に1人、高校生くらいだろうか、それにしては小さい。しかし雰囲気が中学生のそれではない。何事かと駆け寄りたかったが、こちらも新品のルブタンが足に合わずふらついていると言う有様で、思わず今の駐車場から声をかけた。
「どなた!?ねぇ、よかったらその傘でこっち迎えに来て下さらない?わたし傘ないの。」
少女は傘が無い事態を慌ててくれたらしい。小走りでリタの元に駆けつけてくれた。
「すいません気が付かずに!」
少女は体の割に随分と大きなこうもり傘の中へリタを招き入れた。
「まいったわ、これじゃ玄関まで行くだけでずぶ濡れじゃないね?うふ、助かったよ、ありがとう女の子ちゃん。で、わたしに何か用?」
「はい!海堂先生に助けて欲しくて!」
「海堂はやめて。リタでいいよ、リタ先生…あら、あなたは...」
リタは少女の制服に気がついた。今日卒業式に参加してきた母校の高校の制服だった。そして傘があるとは言え随分と濡れてしまっている。
「ともあれ入んなさい!風邪ひいちゃうじゃないバカ!」

幸いリタと少女は背格好が似ていた。
「見た感じ、160cmともうちょっとあるかな。食べなきゃダメよ、そのカラダ!おっぱいだってちゃんと脂肪がないと綺麗な形にならないんだから!」
少女にとりあえずのデニムパンツにブラ代わりのカップ付きインナーとTシャツを手渡した。
「早く脱いで!女同士変な遠慮しない!脱いだらそれ着て、濡れたのは洗濯乾燥アイロンしてあげるから!」
てきぱきと指示を出すリタに思わず少女は見入った。何か飢え求めていたようなものがはじめて?心に注がれた感触を感じ、気づいたら目に涙が浮かんでいた。
「どうしたの!訳ありなのはわかってるから、今は着替えてちょうだい!わたしお茶入れてくるねー!」
少女は急に恥ずかしくなり、急いで渡された服に着替えはじめた。

「わたし、豊崎律子って言います。今日、海堂、いえ、リタ先生の卒業式でのお話を聞きました。」
律子は静かに話し始めた。
「お話を直接聞いて、なんだか先生みたいなすごい人だったらわたしを助けてくれるかもって思って、校長先生にお願いして連絡先を聞いたんです。で、直接言った方が早いって思って、頑張って新幹線の切符買ってここまで来ました。」
「そう...それは大変だったね、お茶は口に合う?」
「おいしいです!」
「それはよかった。で、わたしはあなたのために何ができるかな?」
「助けて欲しいんです。宇都宮に帰ったらわたし、無理やり知らない男の愛人にされて、飲み屋で働かされるんです。」
被虐待児か...リタは過去の多くの悲劇や惨状を頭に浮かべた。

被虐待児。
親や先生から心身問わず育児放棄、暴力等を受けて育った児童・生徒の総称。後に発症する精神疾患も数多く、難治なものの代表が解離性障害である。またこれほど広汎に多様な症状を呈する障害も珍しい。肉体的にも聴覚的にも問題がないのに本人にだけはある単語のみが聴こえないという不思議な症状すら珍しくはない。

「わたしが今までこっそり働いていた飲み屋のバイト代も全部父に持っていかれました。多分お酒代になりました。」
そこまで話すと、律子はようやく長いため息をついた。ここまで聞くとリタには大方の想像がついた。
「アルコール依存症の父…アルコール依存症の妻…暴力はもちろん、性暴力も長かった…目に見えた自傷は右手だけね、この痩せ方から見ると拒食か嘔吐してそう…か」
リタは声を出さずにつぶやいた。概ね正解であるのだが、これが簡単に想像できてしまえる程にありふれた話である事、それが改めてリタの心を締め付けた。

「律子ちゃん、あなた、死ぬつもりで来たわね。」
ここぞとばかりに、リタは律子に問いかけた。
「見るまでもないけど、あなたそんなにお金ないでしょう。お父さんにお金とられてたんでしょう?往復で1万円なんて出せないよね。5000円くらいだよね片道。お金どうにかして手に入れてきたの?」
律子はただ黙ってティーカップをいじりながら下を向いている。とくに回答を期待しているわけでもなく、リタは続けた。
「大丈夫よ、あなたに悪いようにはしないから。まずは安心して。ただこれだけは約束して。あなたがもしここで死のうとされちゃうとね、わたしは義務でそれを止めて救急搬送しなければならないの。警察もくるわ。だからそれだけはやめて欲しい。わかる?」
リタの問いかけに安心感があったのか、律子は静かにうなずいた。
「そう、いい子ね。あなた、南高(なんこう)の卒業生なんだね。だったらわたしの後輩ちゃんだから冷たくはできないわね(笑。」
「すいません、ご自宅だとは知らなくて。先生が働いている病院を聞いたつもりだったんです。」
「いいのいいの。出勤なんて大嫌いだから自宅件診療所ってことにしてるの。でも、看板も出してないし、知る人ぞ知る、みたいな商売してるからね(笑。カッコもほら見て、医者ではあるけど白衣はあんまり着ない、着るのはアルマーニかディオールのジャケット。いかにもお金好きな女でしょう?大好きだけどね。」
「なんか…すごいです…」
「ここまで来ちゃったものはしょうがないんだから、気にしないでリラックスして。あなたが女の子でよかった、高卒の男の子だったら危なくて二人で過ごせないからね(笑。ねえ、なんか取るけど、何が食べたい?だめよ、食べないとね!」

「律子ちゃん、あなたしばらくここに泊まりなさい。」
リタの言葉に律子はぽかんと驚いた顔で、ただ目を丸くしてリタをじっと見つめるままだった。
「見たらわかるよ。わたしもほら、プロだしね。こっちに親戚とか頼りがいるわけでもない、お金だって当然ない、どうせ死ぬと決めたんだし、あの怪しい医者にでも賭けてみようって思ったのよね?悪い意味じゃなくてよ(笑。」
「迷惑かけるわけにいかないから…」
「バカね。迷惑をかけにきたのよ、しっかりかけて行きなさい。それにさ、卒業式のスピーチ聞いたでしょ。わたしらたいした大人でもなきゃ先輩でもないんだし、後輩ちゃんが困ってる時くらい助けてあげないとさ、何のための卒業生かわかんないでしょ。あ、あなたも今日からもう卒業生か!仲良くしよ!そうね、あなたの背負ってきたお荷物、あ、いっぱい経験してきた事ね。少しずつ下ろしていかないといけないのよ。ガンっていう病気、わかるかな。辛い思いはね、心の中にできたガンみたいなものなの。それは単純に1個のガンがちょこんとついてるんじゃないんだ。もしそうだったら手術でチョキチョキ切っちゃえば誰でも元気になっちゃう。でも違うの。例えばこのトマトを見て、このトマトがガンだと思って。このトマトの中に大事な血管が通ってて、無理やりトマトを引き剥がすと血管が切れて大出血、みたいな事がね、心の中でも起きるの。」
「心に血管があるんですか?」
「あるわ、そこには血が流れてるんじゃなくて、命が流れてるんだけどね。それをちょっとでも傷つけず、このトマトのガンを取り除くには、長い時間と慎重な扱いが必要なの。」
「そっか、じゃあ忘れたり気にしなければいいってもんじゃないんですね。」
「忘れたり気にしなかったりしたら、ガンは好き放題大きくなってやがてあなたを殺すでしょうね。心って怖いのよ。見えないからね。あなたがそれでも自分で死ぬつもりならうちを出て行ってくれれば止めはしないけど、心のガンを抱えた現実を前にしてどうする?死にたいのって、きっとその心のガンが出してる毒のせいよ。」
「毒…ですか…」
「そう、猛毒。フグとか青酸カリとか聞くでしょ、毒。あんな毒よりずっと怖い毒。この毒はね、なんと自分で自分を殺させる毒なの。だからね、治療がいる、って思わない?」
「はい…」
「まかせときな。まさかうちの玄関まで来てくれた律子ちゃんを追い出してはいオシマイなんて乱暴な事をするほどは乱暴に出来てないの。わたしこんな怪しい黒いカッコしてるけどね、ほら見て、聴診器。これを首にかけて、そんでもってこのあんまり着ないこの白衣を羽織れば…どうだっ!医者のカッコになったでしょ!」
「なりました!」
「この白衣ね、結構カワイイからさ、ほら見て、Aラインがちゃんと男性の白衣と違って結構かわいく入ってんのよ。で縁の花がらもカワイイでしょ、これいいのよねー。勤務医だった時はそこの大学指定の白衣着てたからさ、もうぜんっぜんかわいくなくて。いっぱいあるからちょっと律子ちゃん、んー、長いな。りっちゃんでいい?りっちゃんもおいで、着せてあげる。」
白衣を着せてもらった律子は恥ずかしそうに姿見を覗き込み、赤面した。
隣を見ると同じ白衣を着てはしゃいでいるリタの姿。今まで歩き続けた地獄と打って変わっての出来事、ふとそんな事を考えると息が苦しくなってきた。
「すいません…コホ…ちょっと息が…コホコホ…」
リタの顔色が変わった。それほど大事ではないが、精神患者によくある発作、過呼吸だった。
「はい、まず座って。手っ取り早いから袋でいくわ、はい、袋あてて、この中で息を吸って吐いてしてね。はい、吐いてー、吸ってー。大丈夫よ、大丈夫。こうなってももう怒られる事も責められる事もないから、安心してねー。」
リタのこの言葉を待っていたかのようだった。突然に律子の目つき、そして声色までが変わったかと思うと大声で泣き始めた。
「ママ怒らないで!怒らないで!!!!!わたしいい子にするから!!!!」
「解離性同一性障害を認める…虐待の主は父親だけでなく母親もか…」
力強く律子を抑えながらも、リタの頭の中は冷静に律子の言葉や仕草を診察していた。
「オルター(解離性障害で言う人格、ペルソナ)が高い解離を見せているわね…安心できた事をトリガーに切り替わったのね…律子ちゃん!聞こえる!?わたしよ、リタよ?聞こえてる?んー、めんどうね、これでどうだっ!」
リタは泣き喚く律子を丸ごといきなり抱きしめた。
「ごめんね、わたしそんなに力だすの得意じゃないから、いい子になるまでね」
冷静なリタにまるで恋人のような形で抱きしめられ、あまり暴れる意味もなくなった律子は少しずつ大人しくなっていった。
「そうよー、いい子、いい子ね。ここは安全、とっても安全。だから泣いたりしなくても大丈夫なんだけど、そうすると…あなたの存在が困るのよね?オルターじゃ通じない?ペルソナって言ったらわかるかな?」
やがてすっかり大人しくなった律子は、今までの律子とは違う声で答えた。
「お前も敵の一人だ。殺してやる。」
「あらあら、そんな怖い人と抱き合ってるなんて、不思議なことね。お名前はあるの?」
見慣れた光景、やり慣れた経験の1つ、そのようにリタは考えた。オルターが複数切り替わる患者を相手にする事なんて全く珍しくもなかった。難しい病気故に悲劇的な結末も多く見た一方で、しっかり自分の人生を歩んでいけそうな所で別れた患者も少なくはない。何よりまだ律子はまだ若い、回復のみ込みはあるだろうとリタは診断した。
「名前はリタ。」
律子は確かにそう答えた。リタの時が止まった。

2024年8月17日 みゆき・シェヘラザード・本城

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