誰からも一貫性を与えられないわたしたち

(今日考えたことの雑記です)
(芸術と構造に興味がある。抽象絵画とか制度とか)
(リアルの個人的な対人においても似た構造の問題が多々起こるように見えますが、インタラクティブな時点で下記の話とは前提がぜんぜんちがうね)

・わたしたちの一貫性を担保するものはなんでしょうか、と希望と諦めを同時に持って問いかける気持ちをちょっとおざなりにしていたような気がする。驚くほど数が多くて多様な流れ(環境とか遺伝とかって呼んでるやつ)が衝突して生まれた点として存在しているのがわたしたちで、この流れがわたしたちを構成しているのだと考えることはできるけれど、流れがわたしたちであると考えることはちょっとズレている、気がする。なぜズレている気がするのだろう。きっと、単純に、それだけではないから。視覚に収まっていることすら認識できないなにかがぜったいにあって、それは決して手でつかむことはできないのだという、柔軟で生活感のある意識。わたしたちの一貫性を担保するものはありません。しかしわたしたちはわたしたちがなんなのか分かっている。それを見ることが可能かどうかも分からないけれど、なにか火花が散る瞬間を眺めることはいつかできるかもしれないね。

・具象に固定された意味を与えようとする限り水臭くなってしまうのではなくて、たぶん直感的なよそよそしさ(距離感)を求める気持ちと他者からの切断を拒む気持ちのジレンマが、具象に固定された意味を与えようとしないと保てないなにかをひっしに保とうとする、ような気もする。。けど法学がよそよそしくないのは、たぶん意味が固定される過程に愛っぽいなにかがあるからで、その愛はたぶん中身そのものへの愛ではなく、一見まったく関係ないようななにかへの愛。。モンドリアンもたぶんなんかを愛していたからよそよそしくはないけど、なんかこう、波長がわたしと合わないのよね。生真面目すぎる雰囲気がある作品には、どう接するのが正しいのかわからない。

・やっぱり、見えていることのほんの一部(たぶん全体の1パーセントもいかない部分)に可視化できる意味と道筋を見つけ出すどころかほとんど無理やり書き出して言語化しているという不誠実さへの自覚があるとときめく。言葉で規定できないものをそもそも言葉で規定できるのだ、というふうにして外部から与えられた秩序をアウトプットそのものにすることもできなくはないけど、わたしは向いてない。。自由に泳がせたなにかは楽なルートを通りたがるからリスク高いけど、ルートありき結果ありきにならないよう気をつけていればすごく広くて自由な世界だなあと思う。でもこう思うのは、わたしがたぶん不器用すぎるだけなのだ…

・リアルで生きたまま人を本気で許そうとか愛そうとか思うと「人間がダメ」に行き着くけど、べつに悪い感じの感情じゃないねこれ。むしろ希望にあふれている

・医療とか福祉とか教育とか育児に触れる人々のはなしを聞いて思ったこと 職に馴染めないのは適正能力とかの部分ももちろんあるけど、それ以外の場合もある ケア「する」側と「される」側という、他者にコミットする行為の主体と受け手がハッキリ固定された上に行為をする人々に行為の結果が責任として重くのしかかる仕事に関しては、「する」側の負荷がものすごいことになる、どんだけやりがいがあって楽しかったとしても。もしも負荷がないように感じて、じっさいに行為が目的に沿った効果を持っているのであれば、きっとそれは対人や行為の構造が負荷をうまく逃がすようなものになっているから、なのではないか。。 逆に、負荷を「逃がす」という矢印の受け皿を用意されていない従事者は相当きついのではないかとおもった どういう受け皿が的確に負荷を「逃がし」てくれるのか、ということを考えると、対人のパターンが非常に核心的だということは分かるのだけれど、それ以上の具体的なところが分からないわね。。いろいろ調べないとね

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