こころが生きのびるだけじゃなく

 わたしにとっては一年ぶりの外出自粛である。二年前は外出が物理的に不可能だった。ある病気にかかり、トイレに行っただけで息切れして寝込むような状態だった。その間まともにしゃべったのは、両親と医者くらいだった。当時在学していたところの友達には、病気にかかっていることをほとんど伝えず、連絡も取らなかった。友達は多くないので、あちらから露骨に心配されるということもなかった。ほかの人と比べれば非社交的なので、しゃべらないことはそこまで毒にはならなかったけれど、それでもテレビに向かって独り言を言うようになったのはこの頃だった。たまごっちにも話しかけた。夢の中に、小学生の頃の友達まで現れた。わたしが恋しかったのは人というより、自分ではないなにかとの鮮明な繋がりだった。必死に自分のこころが動かされるようななにかを探した。でね、わたしは絵と音楽を鑑賞するのがすごく好きだということに気付いた。音楽を聴くと色や景色が見えるようになったのもこの頃だ。

 この期間を経て調子を取り戻し、大学に入学したら、ひたすらびっくりした。外で生きていると、人に会い、人を好きになり、人を嫌いになる。コンクリートの硬さ、桜の木の幹の香り、本のページで指を切ったときの細く鋭い痛み。目には見えないはずの繋がりが感情に姿を変えて、こころに確かな跡を残すのだ。音楽とのつながりもまあまあ強烈だったけれど、家の外の世界の刺激は相当、相当強い。みんな、こんなでっかいことを自然にやってのけているのか。こころの跡がどんどん積み重なってはじめて、わたしはわたしの世界に生きるわたしではなく、世界に存在するたくさんの繋がりを抱えた一点になる。でも、今も、音楽を聴くと綺麗な色と景色が見えるままだ。

 わたしにとって今回の外出自粛、大学の春学期授業がまるまる自宅での受講になることは、ほとんど二年前の再体験である。前と違って散歩はできるし、自力で買い物もできるから、わたしはそこで生まれる繋がりをほんとうに大切にするのだろう。小箱に綺麗なビーズを一粒一粒しまうように。きっと、そのビーズは外出自粛が緩和されたあとも綺麗に見えるから。

 いま外出自粛に納得し、そこに参加する人たちが、わたしの住んでいるところにはたくさんいることだろう。その人たちには、家にいても変わらない温度で保たれる繋がりがあるのだろうか。彼らの家には、こころに住み着いてくれる素敵ななにかがあるのだろうか。彼らは、家にこもったまま脳みそや心臓を誰かに奪い取られていないだろうか。冬が終わったと確信できる日を待ちながら、春が来ても目と耳が刺激に負けないよう、やわらかく準備を続けられているのだろうか。あなたは、自分をさみしくさせないものがなにか知っていますか。とくに子供は、自分でこういったことを探すのは難しいだろう。学校に通えない子供は、ちゃんとどこかにこころの居場所を見つけられるのだろうか。家の中に居場所がない子供に、行き場はあるのだろうか。胸が痛むし、なにかできないかと思う。

 わたしはね。部屋はけっこう汚くてもいい。いい香りのお茶とかもまあなくて平気。でも、朝起きたらぜったいにラジオ体操をする。夕方にはストレッチをする。自分の身体というのは自分のものなようで、案外思い通りにならないから、適度にこうしてコミュニケーションを取らないと、ちょっと疎遠になってしまう。音楽を大事にしよう。美しい音楽をたくさん探して、泣いたり笑ったりしよう。外に出るときは、空気をふかーく吸って、匂いをちゃんと確かめよう。そうしたら、たぶん気温も湿度もわたしのものになる(春って春の匂いがするよね。あの正体なんなんだろう)。

 こうして暮らしていたら、こころが生きのびるだけじゃなく、これから生きていくときにちょっとは役に立つようなやわらかいクッションが、ひとつは見つかるかもしれない。人でも物でもいい。自分でも他者でもいい。精神的なものでも、物理的なものでもいい。することと見つけることがたくさんある、ちょっと忙しい冬眠になりそう。

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