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アルジャナン・ブラックウッド「The House of the Past」試訳

カバー写真:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Manor_House,_West_Hoathly.jpg (Poliphilo, CC0, via Wikimedia Commons)

 2月13日に発売される『幻想と怪奇15』には、ぼくが訳したアルジャーノン・ブラックウッド「ジョーンズの狂気」が収録されております。輪廻転生や前世の記憶を題材にした作品ですが、実はブラックウッドが初期に執筆した掌篇が一部に(かなり改変されたかたちで)組みこまれています。
 というわけで、今回は、その「ジョーンズの狂気」の前身となった、「The House of the Past」を訳してみました。おもしろかったら『幻想と怪奇15』も読んでいただければと思います。

過去が宿る家

アルジャナン・ブラックウッド
渦巻栗 訳

 ある夜、私に訪れた〈夢〉は、錆びついた古い鍵を持っていた。彼女に連れられて野原をわたり、馥郁たる香りの漂う田舎道を歩いていくと、そこでは、春の夜闇に包まれて、垣根がすでにささやきかわしていた。しばらくして着いたのは陰鬱な屋敷で、にらみつけるような窓がいくつもあり、高い屋根は真夜中過ぎの影にほとんど沈んでいる。そこで気がついたが、日よけは重厚な黒い色で、屋敷はまったき静寂に包まれているようだ。
「これは」彼女が耳元でささやいた。「〈過去が宿る家〉です。いっしょに来てくだされば、部屋や通路を見せてさしあげます。ですが、急がなくてはなりません。鍵は長く持っていられませんし、夜はそろそろ明けてしまいますから。でも、もしかすると、あなたも思い出すかもしれません」
 鍵が恐ろしい音を立てるのも構わず、彼女は錠前に挿したそれをまわした。巨大な扉が開いて、がらんとしたホールが現れた。なかに入ると、ささやいたりさめざめと泣いたりしている声や、衣擦れの音が聞こえた。あたかも大勢が眠りながら身動きしていて、目を覚ましかけているかのようだ。すると、にわかに激しい悲しみが全身に広がり、魂をも浸した。目が燃えるようにひりつきはじめ、心の内で、大昔から眠っていたなにかがほどけていくような、ふしぎな感じを覚えた。私の心身は抗うこともできず、たちまち、この上なく深い憂鬱に自らをゆだねた。心の痛みは、〈なにものか〉が動きまわり、目を覚ますかたわらで、瞬く間に強まり、その激しさはとても言い表せなかった……。
 進んでいくと、かすかな声やすすり泣く声は私たちから逃げ出して、〈家〉の奥へ引き下がった。だんだんと意識されてきたのだが、あたりには、高く掲げられた手や、揺れ動く衣、垂れ下がる豊かな髪や、悲しげで切なそうな目がひしめいていた。その目に宿る涙は、私自身も涙があふれそうになっていたのだが、耐えがたいほど切望していた光景を前にして驚嘆するあまり、こぼれ落ちずにとどまっていた。
「こうした悲しみにのみこまれてはなりません」〈夢〉がそばでささやいた。「〈彼ら〉はめったに目覚めません。何年も何年も眠りつづけています。部屋はどこもいっぱいで、わたしたちのような眠りを妨げる者が来なければ、自分から起きることもありません。ですが、ひとりが身動きすれば、ほかのものも眠りを邪魔されて目を覚まし、その動きが部屋から部屋へ伝わって、ついには〈家〉中に広がります……。そうなると、ときには悲しみが強まりすぎて耐えがたくなり、精神が弱ってしまうのです。それゆえ、〈記憶〉は、とりわけ甘美な深い眠りを彼らに与えています。彼女はこの古い鍵の持ち主ですが、ほとんど使わないせいで、錆びつかせてしまったのです。ほら、耳をすましてみてください」とつけくわえて、片手をあげた。「聞こえませんか。〈家〉のそこかしこから、流れ落ちる水の遠いつぶやきのような、空気の震えが伝わってきますでしょう。いまなら……もしかすると……思い出せるかもしれませんよ」
 彼女にいわれるまでもなく、私の耳にも、これまでなかったかすかな音が届きはじめていた。足元の地下室の底や、広壮な〈家〉の上階から聞こえてきたのは、眠れる〈影〉たちのささやき声や、衣擦れの音や、内にこもったざわめきだった。音が湧きあがってくるさまは、〈家〉の礎に張られた、目に見えぬ巨大な弦がそっとつま弾かれたかのようで、その震えは壁や天井を優しく伝った。そこで私は悟った。いま耳にしたのは、〈過去の幽霊〉たちがゆっくりと目覚める音だったのだ。
 ああ、なんとすさまじい悲しみが押し寄せてきたことか。私は涙があふれそうになりながら、はるかな過去の、かすかな死せる声に耳を傾けた……。というのも、たしかに〈家〉全体が目覚めようとしていたからだ。やがて鼻孔に入りこんできたのは、繊細ながらも鋭い〈歳月〉の芳香だった。ずっと取っておいたせいでインクがかすれ、リボンが色あせた手紙のにおい。押し花にまぎれて丁重にしまわれていた、金色や茶色の香り高い髪の毛のにおい。その押し花がいまだにとどめる、ほのかな幽香の繊細な真髄。失われた記憶のかぐわしい香気――陶酔を誘う過去の香。目から涙があふれ、心が張りつめてふくらみ、私はいやおうなく自分を手放して、こうした音やにおいの古き力に身をゆだねた。〈過去の幽霊〉たちは――新しい記憶が渦巻いていたせいで忘れられていたが――まわりでひしめいており、私の手を取って、私がずっと忘れていたことをささやいたり、ため息をついたり、髪や衣から、過ぎ去った日々のえもいわれぬにおいをふりまいたりしながら、広大な〈家〉をすみずみまで案内し、部屋から部屋へ、ある階から別の階へ連れていってくれた。
 〈幽霊〉たちは――全員がはっきりした姿をとっているわけではなかった。それどころか、生命が消え入りそうなものもいた。彼らは私の心をかすかにかき乱すだけだったから、あとに残っているのは、とらえどころのない、定かならぬぼやけた印象だけだった。ほかのものたちは、生気のない色あせた目で、咎めるようにこちらを見つめており、あたかも自分たちを思い出してほしいと訴えているかのようだった。そして、記憶がよみがえらなかったと見て取ると、たゆたうように引き下がり、自分たちの部屋の暗がりへもどって、再び安らかな眠りにつき、〈終末の日〉に備えた。そのときには、私も彼らのことを認めないわけにはいかないだろう。
「彼らの多くは、長きにわたって眠っています」〈夢〉がそばで言った。「ですから、起きようとすると、たいへん骨が折れるのです。ところが、一度目覚めると、あなたのことを認めて、思い出します。たとえ、あなたが思い出せなくてもです。なぜなら、〈過去が宿る家〉のきまりでは、あなたが彼らをはっきり思い出し、いつ彼らを知ったのか、進化の過程で彼らと関わりあいになったのはなぜなのか、正確な記憶を呼び起こさなければ、彼らは目覚めていられないことになっているからです。目が合ったときに彼らを思い出さないかぎり、見覚えがあるというまなざしを返さないかぎり、彼らはまた眠らなくてはなりません。沈黙したまま悲嘆に暮れ、手も握られず、声も聞いてもらえず、ただ眠り、夢を見て、死ぬこともなく、ひたすら辛抱強く、来たるべき……」
 その瞬間、彼女の話し声がいきなり弱まり、遠ざかった。私は、抗いがたいほどのよろこびと幸せを意識しはじめた。なにかが唇にふれ、力強く甘やかな炎が心臓に飛びこみ、血液が奔流となって血管を駆けめぐった。脈が激しくなり、肌がほてり、目がひりつき、この場所のすさまじい悲しみは、魔法のようにたちまち消散した。うれしさのあまり声をあげてふりむくと、その叫びは泣いたりため息をついたりするまわりの声にすぐのみこまれてしまったが、そこで私は見たのだ……幸せで有頂天になり、思わず両腕を伸ばしたさきには……そのさきには、ある〈顔〉の幻影があった……髪も唇も目も見えた。金色の布を白い首に巻いており、東洋の古き香りが――おお、星々よ、なんと長い歳月か――息に混じっている。彼女は再び唇を重ねた。その髪が私の目にかぶさった。彼女の腕が首に巻きつくと、そのいにしえの魂の愛情が、いまだ星のごとく輝く、澄んだ目から放たれ、私の魂に流れこんだ。ああ、あの猛り狂う激情と、言い表せぬ驚異を思い出すことさえできれば……! かの幾星霜を経た、霧を打ち払うかすかなにおいは、かつてはとてもなじみ深かったはずなのに……あれは、アトランティスの丘陵が青い海の上にあった時代よりも、砂漠がスフィンクスの台座をかたちづくりはじめた時代よりも前だった。いや、待て。記憶がよみがえってくる。だんだんと思い出してきた。魂のうちで幕が次々にあがっていき、彼方まで見通せそうだ。だが、あの長く忌まわしい歳月は凄惨で、数千年にもわたり……。心が震えて、怯えを感じる。また別の幕があがり、新たな眺望がいっそう遠くまで開ける。果てしなく広がるさきは、濃い霧に隠されている。おお、それもまた動いており、空へ昇って散っていく。ようやく目にできるのだ……すでに思い出しかけている……浅黒い肌……東洋の典雅な美。その摩訶不思議な目はブッダの知識とキリストの英知をたたえているが、当時は両者ともそれらを手にするとは夢にも思っていなかった。夢のなかの夢のように、記憶が再び忍び寄ってきて、私の全存在を乗っ取る……優美な人影……東洋の魔的な空の星々……椰子の木々を吹きぬける、ささやく風……川の波のつぶやきと、葦が金色の砂の浅瀬でしなったり、ため息をついたりして奏でる調べ。あれから数千年という永劫にも等しい歳月が流れた。幻視がわずかに薄れ、消えはじめる。いや、また現れたようだ。おお、あの輝く歯を見せるほほえみ……きめ細かなまぶた。ああ、回想の手助けをしてくれる者などいようか。あまりにも遠く、あまりにもおぼろげで、私も全貌を思い出せないのだ。唇はいまだに熱を帯びており、両腕も差し伸べられたままだが、幻視はまたしても薄れはじめる。彼女の顔にはすでに、言葉にできぬ深い悲しみが表れている。やはり思い出してもらえなかったと悟っているのだ……かつては彼女がそばにいるだけで、全宇宙が目に入らなくなったものだが……彼女はのろのろと引き下がる。悲痛な面持ちで、なにも言わぬまま、おぼろげな途方もない眠りへもどる。私の記憶がよみがえって、自分がいるべきところに行けるはずの日をひたすら夢見るのだろう……。
 彼女は部屋の奥からこちらに目をこらすが、〈影〉たちはすでに覆いかぶさっており、腕を伸ばして、彼女を再びわがものとし、〈過去が宿る家〉の永遠につづく眠りへ引きこんだ。
 からだ中が震えている上に、妙なるにおいがまだ鼻孔に残っていて、心の火も燃えていたが、私は背を向けて〈夢〉のあとを追い、広い階段をのぼって〈家〉の別の部分へ向かった。
 上階の廊下に入って耳にしたのは、風が屋根を吹きわたってうたっている声だった。その音色に虜にされてしまい、ついには全身がひとつの心臓のように感じられた。疼き、張りつめ、激しく動悸を打っており、張り裂けそうに思える。それというのも、風が〈過去が宿る家〉のまわりでうたっているのを聞いたからだ。
「そう、忘れてはなりません」〈夢〉がそうささやいたのは、口に出さなかった驚嘆の念を読み取ったのだろう。「あなたが聴いている歌は、はかり知れぬほど長い間、はかり知れぬほどたくさんの耳が聴いてきたのです。遠い過去まで連れていってくれますから、呆然としてしまうでしょう。あの素朴な哀歌は、ひどく単調ながらも奥深く、そこにこめられているのは、これまでの前世で楽しんだり、悲しんだり、苦しんだりした思い出であり、回想なのです」そしてつけくわえるように言った。「だからこそ、その声は霊的な深い悲しみを帯びているのでしょう。あれは、永遠に欠けたままの、完全にもなれなければ、満たされもしないものたちの歌なのです」
 穹窿天井の部屋をいくつか通り抜けていくと、だれも身動きしないことに気がついた。音らしい音もせず、大勢の深い呼吸が、くぐもった海のうねりのように漠然と感じられるだけだ。もっとも、こうした部屋は、私もすぐに気がついたが、端から端までいっぱいで、混みあっており、それが何列も何列もつづいていた……。下階から湧きあがってくるつぶやきからすると、嘆き悲しむ〈影〉たちは眠りにもどり、いま一度、沈黙と暗闇と塵に包まれて身を落ち着けたらしい。塵か……。そう、〈過去が宿る家〉に漂う塵は濛々と立ちこめていて、あらゆるところに入りこんでいる。とても細かいので、のどや目に積もっても痛くない。とても香り高いので、五感がなだめられ、心の疼きが鎮まる。とても柔らかいので、舌が干あがっても不快にならない。だが、とても静かに降り積もり、あらゆるものを覆っていくから、宙を漂う塵は細かい霧のようで、眠れる〈影〉たちはそれを屍衣としてまとっているのだ。
「ここにいるのは最古のものたちです」〈夢〉が言った。「だれよりも長く眠っています」指さした先には、沈黙のうちに眠るものたちが何列にもわたってひしめいている。「ここにいるものたちが最後に目覚めてから、はかり知れぬほど長い歳月が経っています。目を覚ましたとしても、あなたにはわからないでしょう。彼らは、ほかと同様にあなた自身の一部ですが、〈進化の道〉の最初期の記憶なのです。もっとも、いつの日か、彼らが目覚めたら、あなたは彼らを認めて、問いに答えなければなりません。なぜなら、彼らが死ぬには、生みの親であるあなたを通じて、いま一度力を使い果たさねばならないからです」
「ああ、なんということだろう」私はそう思った。最後のほうの言葉はほとんど耳に入らず、いまひとつ理解できなかった。「母親たちや父親たち、兄弟たちがこの部屋で眠っているかもしれないのか。誠実な恋人たちも、真の友人たちも、古くからの仇敵たちも! そうだ、考えてみるがいい。いつの日か、彼らが進み出てきて、対面することになったら、その目を再び見すえて、己の一部だと受け入れ、彼らを認め、赦し、赦されるのだ……私の〈過去〉すべての記憶なのだから……」
 私は横を向いて〈夢〉に話しかけようとしたが、彼女の姿はすでにかすんでおり、薄闇に消えていくところだった。改めて見てみると、〈家〉全体も、赤みが差す東の空に溶けこんでいく。鳥の歌声が聞こえて目を転じると、頭上の雲が星々を覆い、来たるべき朝の光を浴びていた。

底本:アルジャナン・ブラックウッド『Ten Minute Stories』(E.P. Dutton and company, 1914)

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