Kindle本が出ました(冒頭の試し読み)

 ぼくが訳したアルジャナン・ブラックウッドの「H.S.H.」がKindle本で出ました。嵐の夜、山に籠る青年のところに、不思議な気高い男が訪ねてくる……という短篇です。
 以下で買えます(100円)。

 冒頭部分を載せとくので、おもしろそうだったら購入よろしくお願いいたします。

殿下(冒頭)
アルジャナン・ブラックウッド
渦巻栗 訳

 この山小屋には都で何週間も騒いだ後に逃げてきた。彼、ディレーンという名の旅する英国人青年は、ひとりで座って、風が荒々しく松の木立を打つさまに耳を傾けていた。暖炉の光がむき出しの石の床や垂木の見える天井で踊って部屋をざわめかせていたが、堅固な石壁は荒れ狂う春の嵐にも、礎を揺るがすかに思える風の絶え間ない砲撃にも微動だにしなかった。山は揺れ、森は唸り、影はあちこちを走りまわり、小さな小屋が震えているかのようだ。ディレーンは用心深く聞き耳を立てていた。薪をくべた。木の枝が飛沫を窓に叩きつけ、尋常ではない強さの突風が扉を揺すると、心配そうに肩越しを見やった。落ち着かなず、ほとんど不安といってもよかった。ひねもす険しい山を登り、疲れ切って、この山小屋にいるいま、自分が本当にひとりきりなのだと実感した。というのも頭が、真の孤独がもたらすあのありがたくない症状――自分は、実のところ、本当にひとりきりではないのだという症状を呈しはじめたからだ。ひっきりなしに嵐のなかから足音と声が聞こえた。さまよう者がもうひとり、ぼくのような季節外れの登山客がもうひとり、すぐにも訪ねてくるかもしれないし、ノックを聞くまでは寝るなんてもってのほかだ。誰かが来るとほとんど――予期していた。
 これで十回目にもなるが、小さな窓のところへ行った。垂れこめる夜の濃い暗闇を見透かし、小手をかざして雨水が流れ落ちる窓から暖炉の光を遮り、もうひとりの登山客――おそらくは途方に暮れた登山客――が現れないか見てみた。あたりは荒れ果てて草木が茂っており、鬼ヶ鞍という地名にふさわしい。黒い顔の絶壁が、融け出した雪の筋をつけて、北の方にそびえており、そのあたりでは山が靄の海に隠れている。滝が両側面の奈落へ注ぎこみ、人跡未踏の森の壁が南から迫り、そしてひねもす登っていた危険な峰が雲の流れる空へ人を食ったように伸びている。だが人影は、もちろん、見いだせなかった。遅い時間だし、今夜は自然が猛威を奮っているから人間なんていそうにない。暴風が重い一撃を顔に放ってきて、思わず顔をそむけた。それからつましい夕食の残りをテーブルから片づけ、びしょ濡れの服を暖炉の前にかけ直し、扉がちゃんと内側から固定してあることを確認すると、白い枕とふかふかのオーストリア製毛布がさし招く寝床にもぐりこみ、ようやく眠る用意を整えた。

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