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【琉球コラソン】東江太輝選手 〜”楽しい”の先にある勝利〜

今回、執筆に応じていただいた選手は、琉球コラソンで主力バックプレーヤー兼キャプテンとして活躍される、東江太輝選手です。

投稿第1作目として、日本リーグ屈指のブラインドシュートを武器にチームを牽引する東江選手の学生時代を振り返っていただきました。

経歴

沢岻小学校→神森中学校→那覇西高等学校→日本体育大学→湧永製薬→
THW KIEL Ⅱ→SV Anhalt Bernburg→湧永製薬→琉球コラソン

はじめに

私のことを既にご存知の方もいらっしゃると思いますが、
改めまして、琉球コラソンの東江太輝(アガリエタイキ)です。
この度ご縁があり、初めてnoteを書かせていただくことになりました。
このような事でもない限り、自分の事を書いたり、振り返ったりすることもないと思いましたので、良い機会だと思い書いてみました。
拙い文章ですが、ご一読いただけたら幸いです。

幼少期〜小学校時代

私の経歴を語る上で、大前提に両親がハンドボーラーということがあります。
父は元大崎電気の選手、母は沖縄の国体選手で、その後も一般クラブの選手や指導者として、今日までずっとハンドボールに携わっています。

そんな家柄に生まれた影響で、生まれた頃から身近にハンドボールがあり、両親の練習や大会会場、遠征先にまで毎回ついて行き、幼少期は体育館で遊び、疲れたら体育館で寝るという事も日常茶飯事だったようです。
そんな幼少期を過ごした事もあり、ハンドボールをするのが自然な流れではありました。

しかし、私の小学校では4年生からしかハンドボール部に入ることができず、小学校2年生からの1年間は少年野球をやっていました。小2の野球なので、遊び感覚だったとは思いますが…笑
小3になると、いつの間にか野球を辞め、本来入れるはずのないハンドボール部に入部していました。おそらくですが、ハンドボール界で力を持っている親がお願いしたのでしょう(確認はしておりません笑)
昔から肩が強かった事もあり、少年野球の監督からは、低学年ながら引き止められました。
この頃辞めてなかったら今頃プロ野球選手だったと思います。笑

そのような事もありながら、小学校3年生からハンドボール部に入部し、本格的なハンドボール生活がスタートしました。
私の小学校である沢岻小ハンドボール部は、
とにかくハンドボールを楽しむという感じで、
プレーの制限やミスをして怒られるという事は全くありませんでした。
基本的なルールは教えてもらい、後はハンドボールを純粋に楽しみ、
伸び伸びとプレーする環境を当時の監督が作ってくれていました。
そんな監督のおかげでハンドボールが大好きになり、「大好きだから頑張れるという感覚」をこの段階で養ってもらいました。
当時は、”監督に会いたいから練習を休みたくない”とさえ、思っていた気がします。子供からそう思われる指導者は最高ですよね。

その監督によく言われた事とは、

  • 挨拶はしっかりする

  • 整理整頓

  • 感謝の気持ちを持つ

といった事で、
ハンドボールに関しては、

”ナイッシュー”
”ナイスキー”
”凄い”
”どんまい”
といったポジティブな声かけだったと思います。
ハンドボールに関しては優しいけど、挨拶や礼儀など締めるところは締める、という当たり前のことを当たり前にする指導ですが、それが一番難しいところです。これは私が子供たちにハンドボールを教える時も同じように心がけています。

そんな楽しくて自由なハンドボールで、先輩達の代では、全国大会や九州大会に出場する事もありました。特に私がハンドボール部に入った時の6年生の先輩達はとても上手なメンバーが揃っており、子供ながらに憧れ、シュートはもちろん、走り方まで真似していたのを覚えています。笑
ただ上達を目指す上で、憧れて真似をする、そういう事がとても重要だと思います。
4年生になると、5~6年生が少なかった事もあり、レギュラーとして試合に出してもらいました。
当時6年生だった、今でも親交のある先輩からは当時は私が好き勝手プレーするので大変だったと言われます。笑
確かにボールを持ったら真っ先にシュートを打っていた気がします。
それでも自由にやらせてくれたチームメイトと監督には感謝です。
また、4年生からずっと試合に出ていた事もあり、自分の代では1試合10点は当たり前に取るくらいの選手になっていました。

周りも私自身も、絶対にまた全国へ行けると意気込んでいましたが、現実はそう甘くありません。
県外派遣のかかる大事な大会で、私が終始マンツーマンをつかれてしまい、勝つことができず、とても悔しい思いをしました。
そんな時、監督からは

「悔しいと思うけど、太輝が上手な証拠だから胸を張って良い」

みたいな事を言ってもらいました。

これは後から聞いた話ですが、
小学生の頃から勝つ為にマンツーマンで1人を試合中ずっと封じるのは良くないのではないか
ハンドボールが、試合が、楽しくないと子供達に思わせてしまうのではないか、と意見もしてくれていたそうです。

20年以上前から、そのような考えの人の下でハンドボールができて本当に幸せだったと思います。子供自ら、ハンドボールを楽しいと思わせてくれたその監督の下からは、数多くのJHLプレイヤーが出ているので、今でも最高な監督だと思っています。 
主なJHLプレイヤーは以下の通りです。(他にもいたらごめんなさい)

  • 名嘉伸明(湧永製薬-琉球コラソン)

  • 名嘉慎吾(琉球コラソン)

  • 東江太輝(琉球コラソン)現役

  • 東江雄斗(ジークスター東京)現役

  • 川上勝太(湧永製薬)現役

  • 宮城大樹(トヨタ紡織)現役

私は彼ら全員とJHLの舞台で一緒にプレーした事がありますが、皆揃って、小学校の頃の監督が好きだし、楽しかったと言っています。

と、長々と書きましたが、小学校の頃はこんな感じです。

実績という実績はほとんどありませんが、誰よりもハンドボールが好きで楽しんでいたことは間違いありません。


指導者の皆様へ

小学生年代では、技術や戦術を教えるというよりは、体の使い方やハンドボールの楽しさを伝えてほしいと思います。あとは何か一つでもできるようになったら褒めてください。
できないことが当たり前なので、できるまでやらせるとか、決められたプレーや厳しい練習をして勝っても、その子達が燃え尽き症候群やハンドボールが楽しくなくなっては意味がないと思います。
その子やハンドボールの未来まで考え、この年代では
楽しさの延長線上に勝利があって欲しいと思います。


中学校時代

中学はハンドボールの名門、神森中学校に入学しました。

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