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小川さんと霜見さんと刑事

#いま私にできること

ミレニアムから書くこと

2000年の2月、ミレニアムの年に長年続けていたアパレル販売を辞めた。もちろん何度か転職はしてるけど社員になって働いたのはそれが最後になったかもしれない。アパレル販売を辞めても私には在宅でできる副業があった。副業が本業をしのぐほどの稼ぎになる時もあった。副業があったおかげで私は人生をなんとか持ちこたえてきたような気がする。これは誰になんと言われようともそう思っている。お金についていえばお金自体はニュートラルな存在で良くも悪くもなく使う人、都合で良くも悪くもなる。私はお金を何に使ってきたかは賭け事や飲み代や男ではなかった。確かに贅沢品であったけど完全な投資だと思っている。若い、1番人生で輝いていた時に「女は金をかけたらかけるだけよくなる」、は持論でできる限りそうしてきた。だから近くにいた人は事情を知らないので金回りがいいと思っていたし、本業も決して悪くなかった。インセンティブもけっこうついていていい時代だった。だから全額借金を短期間で完済できたし、その間もけっこう普通にみたら豊かな生活をしていた。要するになにが言いたいかというとその私が巻き込まれたことについて書いておきたい。おなじような誰かを実は探している、というか比較したいというほうがぴったりくる。

在宅で仕事をしていたとなりの住人
KEITA MARUYAMAと新宿伊勢丹の名物バイヤー

私は2000年からは家にいたけど隣に住んでいた人は最初は会社勤めだったらしいけど辞めた後はずっと在宅でデザイナーの仕事をしている人だった。デザイナーといっても手描きで絵を描く洋服などのプリント柄の絵を描く人でアパレル会社の仕事を多くしていた。私と話すようになって私もアパレルだったからおなじような話ができるので喜んでくれた。私より年上ですごく太っていた女性だったけどアーティストっぽい感じの人で特にKEITAMARUYAMAの話で盛り上がった。私はインポートブランドだったけどKEITAMARUYAMAはその当時銀座4丁目にあったザ・ギンザなどのセレクトショップで旬のブランドとしてよく打ち出されていた。私の扱っているインポートもレベル的におなじような商材としてセレクトショップでおかれていたのでおなじカテゴリーだった。特にセレクトショップ以外では新宿伊勢丹での競合ブランドだった。
その時代は新宿伊勢丹の名物バイヤーの藤巻さん(後に独立して政治家)という人がいてよく私の扱っていたブランドについてシャネルやグッチなどのブランドの並びに中堅のニットブランドのような知名度がいまひとつの会社をもってくると引き上げられる説をよく言われていた。確かにそれはあるけど完全に証明されるまではならなかった気がする。ファストファッションが台頭してきたし、藤巻さんも若くして亡くなられた。KEITAMARUYAMAの取締役としても有名だったし、その話をよく隣の小川さんとした。小川さんはアパレルの仕事の中ではKEITAMARUYAMAの仕事が多くて1番大きな仕事はドリカムの吉田美和さんの舞台衣装の空のプリント柄を描いたことだった。私もその頃、ザギンザでKEITAMARUYAMAのモチーフ編みニットドレスなどを買って持っていたからすごく話していて楽しかった。
小川さんの青空と雲を描いた空のプリント柄は繊見新聞にも掲載されてその記事を喜んで見せてくれた。私も何度となく必ず繊見新聞はとるようにいわれていたから小川さんが隣に住んでいてなぜか不思議な縁を感じた。小川さんもそう思っていたのではないかと思う。

私の部屋の前の住人

私が在宅になるまで小川さんとは全く話すこともなかった、隣にどんな人が住んでいるのかも知らなかったし気にもしなかった。小川さんは新築から太尾町のそのアパートに住んでいた。私は引っ越してきて3人目だという。小川さんが新築で入居した時私の部屋に住んでいたのは金髪の若い女の子だったらしくアロマオイル製品の輸入の仕事をしていたらしく部屋の中はグリコの景品などがたくさんあって小川さんが聞くと彼氏がプレゼントしてくれると言っていた。だけどその外国人の女の子は急に引っ越していなくなって小川さんは挨拶もナシだったからちょっと怒っていてその後すぐに若い男の弁護士が引っ越してきてその後が私だと教えてくれた。私がアパマンで電話してつながった上野の不動産屋からそのアパートの当時の管理会社はリエスタコーポレーションという池袋にある会社だった。上野の不動産屋で間取りをみてその足で大倉山に行ってみてすぐに決めたアパートで仲介の仲介という感じだった。私がソッコーで引っ越ししなくてはいけないワケは一緒に住んでいた彼から逃げる為でこれには今でもフェイスブックでやりとりしている昔からのアパレル時代の友人が間に入ってくれた。彼女には今でも本当に深く感謝している。

行方不明の大家と外国人の親子

2001年の12月に私は借金を全額完済したのでその時の年末をよく覚えている。年末に母と電話でアパートの端の大家のおじいさんの部屋の外の電気が昼間もずっとつけっぱなしになっている話をしたらたぶん自分の子供の所にでも行ってるんじゃないか?なんて話した。

年が明けて2002年の1月3日の朝9時に私の角部屋のドアをノックする人がきた。(私はインターホンの電池を抜いていたので)正月の朝でドアを開けると30代~40代前半のハンサムなトレーニングウェアを着た男の人が訪ねてきた。ジョギングしているような感じだけどなんていうか、とてもいい男。美形で、でも軽い感じではなく鋭い感じで好意的だった。「このアパートの大家さんは女の人?」と聞いてきたから色々話すのも面倒なので(聞かれた事もヘンだし)私は管理会社と契約してるから大家さんは知らない、端に大家らしいおじいさんが住んでるから聞いてみたら?と答えた。その時笑いながらテレたような感じで「わかった、そうする」といっておじいさんの部屋にいかずそのままアパートから出ていった。

私はその大倉山のアパートの管理会社ではなく大家のことは書類上の名前しか知らなかった。

小川さんは新築の頃から住んでいるので大家をみて知っていた。

「不動産鑑定士が2人くる」

その加藤与一という大家は実はずっと行方不明になっていて2002年の2月に港北区役所から2人の不動産鑑定士がくるまで私は知らなかったけどいよいよ本当に行方不明でアパートが役所で競売にかけられる事になった。その時に不動産鑑定士がきている時にアパートの住人でもない見たことがない金髪の女性と黒髪のすごくきれいな女の子?かと思ったら男の子だという14才の野愛(ノア)君という2人の親子が私たち住人の前に現れた。

私も小川さんも在宅で仕事していたからその親子を見たことがあるかというと全然なくてしかも誰が呼んだワケでもないのになぜ不動産鑑定士が私たち住人に競売の話をしに来るタイミングに現れたのかよく考えたらすごく不自然でこれはもし、その時の2人の不動産鑑定士に聞けばその親子を見ている。そして今考えたらおかしいと思うはず。

その金髪の女性はジョアンダさんと言ってご主人は日本人で綱島に住んでいると言っていたけどご主人とは別居していて行方不明の大家と綱島でラジコンの会の遊び仲間(友達)だという。大家の叔父にあたるアパートの端の母屋に住んでいた80すぎの鶴吉おじいさんは私も小川さんもよく挨拶などして顔見知りだったけどその鶴吉おじいさんが大家のようにアパートの管理をしていたようにみえた。小川さんがいうにはおじいさんには一銭も家賃が入ってこなくてすべて与一だけのものだという。小川さんに行方不明の大家ってどんな人?って聞くといつもアパートの壁にもたれて1日中ラジオを聞いていたという。結婚はしてなくて独身で仕事もしていない感じだったらしい。
でも行方不明になって長いのにその外国人の女性は「鶴吉は昔兵隊さんだった、時々鶴吉に手紙を読みにきてあげている」と皆の前で言った。私も小川さんもジョアンダさんとノア君をそれまでアパートで見かけた事が一度もないのに。それに鶴吉おじいさんは年末に役所から時々くる部屋を掃除しにくる人たちがボケがひどいから入院させたと不動産鑑定士がいう。ボケてる老人と手紙を読む知り合いで行方不明の友人だというだけで不動産鑑定士のいる前で話に加わるのもすごくヘンだと思う。私はその親子とはその後また不動産鑑定士がもう一度きた時ぐらいしか会わなかったけど小川さんは人懐っこいからジョアンダさんと仲良くなってノア君は学校に行ってなくてフリースクールに時々通ってる事とか夜中に親子で近辺を出かけてるとか、たしか何州か忘れたけどジョアンダさんはアメリカ人みたいで国には帰らないのか聞くと帰らないと言うとかご主人は別の女性と住んでいるけど生活費は毎月口座に振り込まれるとか綱島の大きな家に親子2人で住んでいて猫をたくさん飼っていて2人が使っている部屋はひとつだけで後は散らかっているとか、小川さんはそんな話をジョアンダさんとしたことを教えてくれた。太尾町のアパートのあった横に森燃料というガソリンスタンドが当時はあって私はそこにストーブの石油をよく買いにいった。他の住人も。小川さんは原付のガソリンをそこでいれていた。
ガソリンスタンドの横に太尾堤というバス停があってバス停の前が太尾新道という道路になっている。そのバス停の前にセブンイレブンがあって(今もある)よく小川さんは仕事の絵が描けたらカラーコピーをコンビニにしに行った。そこで!夜中にジョアンダさんとノア君に会って驚いた事も聞いた。ジョアンダさんは「こんなところで友達に会うなんて!」というらしく小川さんのほうが驚いた事を私に教えてくれた。

ジョアンダさんの印象

2人の不動産鑑定士がきた時に私も金髪の日本語を普通に話すジョアンダさんに話しかけた。「外国人は金髪で長身でステキね、モデルみたい」とほめたらすごく喜んでくれた。
その時ジョアンダさんがきていた服なんだけど、その後も何回か会った時もずっとおなじで上は白い普通のセーターを着ているけどパンツが後から気になった。笑いながらそのはいているオレンジのペラペラの生地で少し薄汚れているパンツを自分でつまんで「太ってるよ!」と笑いながらいうので私はマジマジそのオレンジのパンツをみた。ずっとはいてるそのペラペラの薄汚れたパンツはなんていうか、あの、よく海外ドラマや映画にでてくるアメリカの刑務所の囚人服。
2回目に不動産鑑定士がきてまだ競売が長引きそうだとアパートの住人に話しにきた時もなぜかジョアンダさんとノア君は現れて皆と一緒に話を聞いていた。役所の不動産鑑定士はその2人をなんとも思わなかったのかすごく不思議。
その時もそのオレンジのパンツでノア君と親子だというけど少しも似てない。ジョアンダさんはわりとガッシリした大柄の女性でノア君はどう見ても女の子にしか見えない華奢な美人で背中まである長い黒髪で顔立ちも白人とのハーフっぽくなくてすごくきれいな子だった。今、もう30ぐらいだと思うけどどんな大人になってるのか気になる。

アパートは高くてなかなか役所で売れなかったらしく2008年にやっと売れた。買った会社はちょっと胡散臭い感じの不動産屋ですぐに退去するようにいってきた。その頃には私と小川さんと私の部屋の真上に住んでいた男の人だけになっていた。後の住人は挨拶していく人もいたけど夜逃げみたいにみんないなくなった。私は退去で引っ越しをするために2週間で就職してアパートを見つけて引っ越しした。不動産屋はしぶしぶ約束の(それ以上だと立ち退き料20万払わないという)2週間で引っ越ししたから20万払ってくれた。小川さんも上に住んでいた男の人も何度か近くに引っ越したので郵便物など取りにくるとしばらくは2人ともまだ住んでいた。上に住んでいた男の人は何度か話たことがあるけど独身のサラリーマンみたいでその人も小川さんがいうには新築からいるみたいだった。それからアパートは取り壊しになって建て売り住宅になってすぐに人が住んでいた。小川さんはたぶん大倉山の近辺にしばらくは何年かはいたと思う、何度かスーパーでも見かけたしでもさらに何年かすると全く見かけなくなって岡山に帰られたのかと思った。

ストーカーと私服の刑事

それが2010年までぐらいの話で2011年の9月に私はバーニーズNY横浜店に入った時からあきらかに人から監視されてつけられているようになった。最初はあれ?みたいな感じだったけどまるで監視している、ホラ、つけられているよ、みたいにわざとすごく顔立ちのハッキリした人がどんな時間に外に出てもばったり出くわす。それでもたまたまで気にしないようにしていた。そんなことあるはずないって。2011年の年末に年が明けてからまた就活とそして警察につけられているとかそういう相談をしてみようかと思った。

2007年ぐらいにまだ太尾町のアパートにいた時水道のセールスマンがすごく強引に部屋に入ってきたので怖くて警察に電話した事があってその時一応警察官がくる事になって私はお巡りさんがくると思ったら私服の刑事さんがきたのでびっくりした。刑事さんは水道のセールスはどうでもよくて私に駅からとか誰かにつけられてる感じはないか聞かれてすごく驚いた。それはストーカーですか?と聞いたらそうだという。刑事さんが真剣に聞くのはストーカーの事ですごく気にしていた。何度か夜見回りに来ますといって夜中にホントにきたらしくドアの下に名刺が置いてあった。私はそれを母にいうと確かに気持ち悪いけど刑事がそれまで1度も警察に相談もしてないのにストーカーだとか夜は何度か後ろを振り返るようにとか見回りをしたりとかあれは今思うと私が今のこういう目にあうことを知っていたのかもしれない。その時の刑事さんの事を聞いても誰も教えてくれないし、何度も港北警察署に相談に行っても絶対に取り合ってくれない。そして2012年の6月頃からまず渋谷の三菱UFJでいきなり目の前でカードを切られるというような銀行員にヘンな嫌がらせをされた。ただ住所変更をしていないというだけで!私にはその時ゆうちょに貸付けできる貯金があったのでなんとかなったけどUFJの口座は全く使えない引き出しもできないと言われてすごく困った。引き出しがやっとできる日に朝早く開店と同時に銀行に行くと印鑑を照合するために待っていたらわざとものすごく待たせる。もう少し早くできませんか?と言ってもニヤニヤ笑ってわざとキレさせようとする。その時から「わざとキレさせようとする嫌がらせ」がはじまった。私はあの私服の刑事さんに会って聞きたい事があるけど誰も教えてくれない。だけど年配の刑事は相談の履歴は残ってるはずだと言ったりする。2012年の12月10日ぐらいにはものすごくストーカーや嫌がらせがひどくなった。警察に電話するとまず何度も結婚してるかとか子供が何人もいるかと聞かれた。
一度も結婚していないし子供もいないというと「一夜にして株価が変動する国家機密を持っていないか?」と何度も聞かれる。株と言われてピンとくるとしたら2000年に辞めた会社の顧客だった資産家の霜見さんの奥様(2012年に亡くなられている)と行方不明の大家ではないかと思った。

私は後になって小川さんもおなじようなストーカーや近隣の人から嫌がらせをされていないか聞こうと思った。

大家の事も地元の人なのでガソリンスタンドの森燃料の森さんや加藤さんというのはこの辺の地元の人たちなので親戚だったりよく知っていたりするから森さんの奥様とはスーパーでよく挨拶したので訪ねたけどその事については知らないと言ってものすごく嫌がる。後は小川さんがすごく仲良くしていたアパートの近くにある小さな地元の化粧品屋さんなら小川さんの連絡先も知っている。小川さんが岡山に帰るときもその化粧品屋さんの「すみれ」のお姉さんに色々頼んだり連絡したことなど聞いていた。でも会いにいくととても困った感じで全然知らないという。


私だけだとそうかと思って警察官に一緒にその森さんと化粧品屋さんに会って大家と小川さんの事を聞いてもらえないか聞くと「これ以上嫌がらせされたくないでしょう」という。

2013年の1月3日の夜、横浜駅で帰りに後をつけてくる男に気づく。もう何人も監視やストーカーされていたから気づいたけどそのなかでもその男は後をつけるのがすごくうまくて私が気づくと声にだして大きく「チッ」とものすごく怒りをあらわにした。尾行がすごく上手かった。顔立ちが2002年の1月にアパートに訪ねてきたあのハンサムな男?かもしれないと思った。その怒っている男はハンサムで裕福そうな身なりをしていた。眼鏡をかけていたけど。

今日はもう眠いのでまた明日書く。