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EMOARUHITO ep.1 哲夫

哲夫は朝から緊張を感じながらも、毎朝のルーティンをこなしていた。

今日は大事なプレゼンの日。契約金額は 2 億円。ともすれば一時的に街並みを変えるほどの大きなプロジェクトだ。これがうまく行けば、社内、ひいては社会でも評価され、より生きやすくなるだろう。誰も口にしないが、失敗は許されない、そんな雰囲気の中で数週間を過ごしてきた。

それにも関わらず、午前 2 時までかかった資料の整理、ロープレは途中で投げ出し、 後は口八丁手八丁で切り抜けよう、周りがなんとかしてくれるだろう、と思っていた。自分の甘さはここにあると感じていながらも、それを直そうとするほどの克己心は持ち合わせていない。こういう人間は自分だけではない、むしろ社会の大多数を占めてさえいる、と思い込むことが、自分にとってのストレスフリーな生き方だと信じている。哲夫はそんな男だった。

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首からネームプレートをぶら下げ、白の T シャツの上に薄手のジャケットを羽織り、出勤制限の中、ビフォア・コロナよりも 1 時間遅い時間に電車に乗り込んだ。満員電車とまではいかないが、期待していたほど座ることはできない。多くの企業が採択しているこの対策には、ほとんど意味を感じることができなかった。中にはマスクをしていない者もいる。三密の回避とは。人々の意識はどうしたら変わるのか。そして、自分にできることは。
違和感と言う名の小さな異物が頭の中でコロコロと転がるたびに、軽い吐き気のようなものを覚える。それでも自分には、プレゼンにいかねばならない役割がある。哲夫は、何が起こるかわからない世界に対して、感じたことのない感情を抱く自分と、これまでの消極的な自分がこんがらがって、よくわからなくなってしまっていた。

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あと二駅で目的地に着くというころ、シャッフル再生していたミュージックアプリから、Last Days of April の Piano という曲が流れてきた。crank!からリリースされていたアルバムで、どうやら最近再発されたらしい。マリンバのような電子音とパーカッションがメインのかわいい曲で、最後にドラムとギターが入り、バーストする。アルバムのイントロとなる 1 曲目と、激しい曲調の 3 曲目の間に挟まったこの曲が、哲夫は大好きだった。

朝からやりきれない想いを抱いていた哲夫だったが、ふと、あまり気にしたことのなかった歌詞を google 翻訳にかけてみた。

There’s noone better no thing than you.
There’s noone better no thing better than you.

とりあえず、プレゼンはうまく行きそうな気がする。根拠はない。

哲夫は数分前とは違った面持ちでホームに降り、少しだけ背伸びをした。

2020年7月15日

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