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コネクテッド

最近よく考えること。社会とのつながりについて。

所属している組織の研修機会として、ポートランドのまちづくりについてのプレゼンテーションを受ける機会があった。
ポートランドは、DIYの街として、クラフトマンシップが高い街として、住民と政治が近い街として、少し前から有名である。
確かに、過去にDuck, Little Brother, Duck!という最高のバンドと共演、そのメンバーとパフォーマンス後の時間を過ごした僕にとっては、そのスピリッツは経験として刻み込まれている。

オンライン研修の場では質疑の場が設けられ、そこで数々の質疑・回答が飛び交った。それらの多くは「日本との違い」について、だったように思う。つい最近の出来事だったはずなのに、具体的なものはもう忘れてしまったけど「何かズレているなあ」と歯がゆさを感じずにはいられない場面があった。

その違和感を少し深く探ってみると、日本との違いを気にした人々の思いの根底にあるものはおそらく「仕組みやルールの存在による閉塞感」ではないだろうか、と考えるに至った。
「きっと同じことは日本では無理だろう」
「ここが障壁となってまず難しい」
このような意見が出てしまうのは、自分にとっては夢物語のようにも感じる、よその国の結果だけを切り取ってしまっているからではないだろうか。

いやいやそうじゃないよと、僕は思う。
ポートランドという街でそれを可能としたのは、そこで暮らす人々のスピリットの賜であろうと、僕は思う。誰かが最初にはじめて、少しずつ広がっていったんだと思うのだ。

話を一段落戻すと、誰もあなた個人に「それを成す誰かになってくれ」とは思っていない。ただ少しだけ、本当の意味でコネクテッドしてくれ、スピリットを共有し、多方面からの意見でさらにそれをブラッシュアップしてくれ、とは、思っているかもしれない。
そのスピリットが重なり、合わさったものこそが、何かを変えるきっかけになる。その重ね合わせる行為こそが、本質的に社会とつながることだ、と僕は考える。その相手は友達でもいいし、家族でもいいし、同僚でもいい。とにかく、自分が本当に影響を与えられる相手というものは、物理的に近い距離にしか存在しないと思うのだ。
おそらくただポートランドは、その物理的な距離の範囲がとんでもなく広かったか、この行為が非常に盛んであった。このどちらか、もしくは両方だったのではないかと考えた。あえていうのであれば、これこそがコネクテッドな街、そしてコミュニティ。

僕らはみんな、仕事や暮らしを通して社会とつながっている、と感じているだけで、基本的にディスコネクトである。どちらかというと、一方的である。ボーリングの球のように、ころがって、ぶつかって、また手元に返ってくるような。それを繰り返していることで、社会とつながっているような気がしてしまう。結果、変わらないものに対して憤りを覚えたりする。
選挙、チームの仕組み、友達との関わり合い、家族間のルール。いつまでたっても自分の意志が反映されないと「感じられる」ものごとと同じで、結果だけを追い求めがちな日本はどこにでも存在するのだった。

その中で僕は、どうスピリットを発信していけば良いのだろうか。どうやって重なり合う行為をする人々を、物理的に増やしていけば良いのだろうか。
もうお手本はどこにもいない。みんな正しくて、みんな間違っている。なにしろ何が起こるかわかんないし、誰も正解はわからなくなってしまったから。

ただディスコネクテッドを、コネクテッドにしたいだけ。言葉としてはひとつ接頭辞を外すだけなのだが、溢れる情報に対して取捨選択を強いられてしまう、今の時代の永遠のテーマのように思っている。生きよう。

2021.12.10 @ryotaroniimi

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