水を忘れて泳ぐ その1

 青がまだ黒かった日でも、綾瀬結菜は人生に飽きることなんてなかった。平成29年が終わっても、恋愛のない噂話に新たな解釈を想像する。その日も綾瀬は、古びた弁当屋のカウンター越しに一番に気に入っていた嘘をついた。そこから綾瀬の口数は減り、赤く染まった川の音が聞こえてきた。

 綾瀬にとって安定とは悲しいもので、掴みどころのない世界に振り落とされないように生きることの方が魅力的に思えた。実際に綾瀬の三年間は、誰から見ても色鮮やかで奇抜なものだった。綾瀬の携帯電話から流れる時間が、頬杖を突いた横顔に風と揺れる。
まだ冷たい日差しが差し込む中、また綾瀬の平凡に色が浮かび上がった。三日ぶりに会う二人は、まるで昨日も会っているように微笑み、カウンターに寄りかかった。

「結菜、今日は何か面白い話があるの?」莉子が問いかける。

「うん、実はね…」

赤く染まった川の音はもう聞こえなくなっていた。




「それ、前もやったけど失敗したじゃん。」と莉子は呆れたように言うが、綾瀬の突飛な発想は、彼女にとって密かな楽しみであり、生命維持活動に欠かせない養分だった。

「そうだっけ?でも結構楽しかったでしょ?」
綾瀬は目を輝かせる。綾瀬は以前、5時間かけて自転車で琵琶湖に行き1周するという計画があった。思った以上に遠く、湖に着く頃には夕方になっていたが、滋賀湖周辺で育ったという井伊直弼の伝記を読みながら湖畔で過ごした。
 また突飛な計画として、綾瀬は日本の音楽界を変えるというものがあった。その理由はどうやらカラオケで自分の曲を歌いたかったからというものだった。その時も何軒もレコード会社に行くのに振り回され、自転車がパンクし、足にまめができるほど歩かされた。

彼女の無謀な挑戦は、莉子の平凡な日常に新鮮な風を吹き込み、そして百戦錬磨の大作戦ばかりだった。さらに綾瀬は、周りからどう見えるかやSNSでの評価を気にせずにいることも莉子にとって魅力的で、綾瀬はただ己の今を楽しむことを優先しているだけでなく、莉子や綾瀬の周りの人々も楽しむことを優先していた。言葉にこそしないが、莉子は綾瀬に対して憧れや失望されたくないという誰に対しても持ったことのない特別な感情を抱いていたし、その感情は莉子だけが持っているというものではなかった。

「じゃあ、どうする?」

「莉子、私たちで平成を終わらせようと思ってるの。」

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