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スーパーナチュラルは、スーパーナチュラルでしかない。

その時はまだ「いや気のせいだよな」と思ってしまう癖が抜けていない時だった。

この曲を聴いたのは、確か7月に入る少し前だったかな?

宇多田ヒカルは昔よく聴いてた。
1st album は発売当時に購入し、全曲今でも好きで、たまにカラオケでも歌う。

アルバム曲のこの曲も今でも好きだけど、何年も聴いていなかった。

その日、
ドライブしながら YouTube music を聴いていた。普段は再生リストのリストリピートのボタンを押しているけどその時は押し忘れたようで、再生リストの曲が全部流れ終わると、自動再生で関連曲が次々と流れていった。

知らない曲もたまに流れるので、新鮮だった。

そんな中、この曲が流れた。
懐かしさの中にいると、歌詞の、あるフレーズが飛び込んできた。

『こんなにナチュラルな感覚が間違ってるわけないのに』

必死で否定しようとする自分と、奥底の自分
が、いつも闘っていたけど、
奥底の自分の言葉を、それは代弁しているようだった。

そのフレーズが飛び込んできた時、私はまさに、自分の『感覚』と葛藤している最中だったのだ。


どうしても、どうしても、信じきれなかった。

幼少期からすでにそうだった。

どうしてだろうとそこを深く感じた時に「恐怖」があることに気がついたのは、数年前。

今現在はもうその恐怖はほとんど払拭されているけど、

その瞬間はまさに、闘いの中にいた。

それもまた「感覚」からくるものに素直に従ってしまえば素直に信じられるし、もう信じるには十分なほどの体験を今まで何度もしてきたけど、

その『感覚』は私の中にあるものでしかなく、表現したところで表現しきることはなかなか難しいし、
たとえできたとしてもなかなか人に理解されるものではない。
間違って伝わってしまうばかりで結果的に孤独を感じることになったり、相手にされなかったり、嫌悪感を抱かれて相手が離れていくということも、
何度も経験してしまえばそれはトラウマのようになり、私はもう自分を殺すしかなくなっていた。

対 人 の事柄である場合、相手も同じように同じ感覚を抱いていてそれが顕在意識にちゃんとあり尚且つそれを素直に信じられるような相手でなければ、私は「ひとり試合」に向かうしかなくなるのだ。それはとても孤独なものだった。

フレーズが飛び込んできた時はまさに、そのひとり試合をまた、しばらく抱え込み続けていた時だった。
ドライブの最中に、感覚の沸き上がりによって、葛藤していた。

そんな私に宇多田さんは強烈に訴えかけてきたのだ。

が、それでもその時はまだ、受け入れきれなかった。

けど、その強烈さは、その後の私の心に何度も光を射した。


超常現象は英語でスーパーナチュラルと言うらしい。それは以前から耳にはしていたけど、
最初に聞いた時は
「どうしてスーパーナチュラルが超常現象なんだろう??」
と思ったのを覚えてる。きっと同じように思った人は多いことだろう。

私は今なら深く深く、理解できる。

きっと私の記事をずっと真剣に読んでくれていた人がいるならば、理解してくれる人もいるだろう。

けど本当の理解は、実際に体験し、腑に落とした時にこそ、できるもの。

私はまだ同じ体験をしているという人と出会っていない。
そのことについてただ楽しく話せたら
どんなに楽なんだろう。




山根あきらさん、素敵なイラスト画像を使用させていただきました🙏🏻ありがとうございます✨

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