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大西瀧治郎中将の責任の取り方

「神風特攻隊」生みの親である大西瀧治郎中将について所感を述べておきたい。


中将と言えども、当時は愚かな指導部の部下にしか過ぎない。

愚かな指導者の下で、使われるくらいなら、

指導者が愚かなことを知らない一兵卒のほうが、どれだけ幸せかわからない。


大西中将は、自ら慈しみ育ててきたパイロットを、むざむざ死ぬために、

太平洋に送り出すことは、断固反対だったようである。

「特攻は統率の外道である」

とまで、語っていたようようである


1944年10月20日、まさに最初の特攻隊を前にして、次のように訓示している。

日本はまさに危機である。
この危機を救いうるものは、大臣でも軍令部総長でも、私のような地位の低い司令官でもない。
したがって、私は一億国民にかわって、みなにこの犠牲をお願いし、みなの成功を祈る。

みなはすでに神であるから、世俗的な欲望はないだろう。
が、もしあるとすれば、それは自分の体当たりが成功したかどうかであろう。
みなは永い眠りにつくのであるから、それを知ることはできないだろう。

我々もその結果をみなに知らせることはできない。
私はみなの努力を最期までみとどけて、上聞に達するようにしよう。
この点については、みな安心してくれ。



多くの若者が、送り出されていった。


官舎の戻った大西中将は、妻とは一緒に暮らさなかったと言う。

ある者が「一週間に一回は、家に帰って奥さんの家庭料理でも召し上がられてはかがですか」

と勧めたらしいが、中将は

「君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。
614人もだ。俺と握手していったのが614人もいるんだよ」


と決して帰らなかったと言う。


日に日に、若い命と引き換えの特攻作戦も戦果が落ちていくが、

大西中将は、特攻作戦をやめることはしなかった。

「特攻を命ずる者は自分も死んでいる」 と言って、

自分の生命があるものとしての振る舞いをやめていたようである。


それだけの犠牲を強いても守らなければならないものがあったのだろう。

そのことについては、あえて触れない。

しかしながら、世界で一番長い王朝である、大和王朝は、

2600年と言われる間、外敵から国土を蹂躙されることはなかった。


2度の元寇も、ペリーが来航したときも、日清戦争、日露戦争のときも・・

しかし、今回ばかりは、国土の守りが危うかった・・

だからこそ、若い彼らも志願して、散っていったのだろう。


大西中将には、最期には必ず自分も特攻隊員の後を追うという覚悟だったのだろう。

だからとって、特攻作戦が正当化されるとは思っていなかったのだろう。


そして、敗戦の翌日未明、割腹自殺を遂げている。

その死に様は、駆けつけたものに、医者を呼ぶことを拒否し、

介錯も断り、数時間、苦しみぬいて逝ったという。

「吾死を以って旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」

とあった。



意見はいろいろあろうと思うが、前にも記したが、

特攻攻撃の責任者でありながら、

「後から必ず俺も行く」と言いながら、最後まで逃げ回った

「後から少佐」と言うのがいたそうだが、責任者としては、見事な責任の取り方だったと思う。


三島由紀夫氏と石原慎太郎氏が、

「男らしさとは何か」と議論し、紙に書いて、お互い出したところ、

「自己犠牲」

と、お互いが書いたと言う。



負けてのうのうと、威張っている連中は、男として最低である。

そして、自分勝手にやって、負けたら男の責任者に擦り付けるような連中は、もっと最低だ。

「負けた大将は責任を取る」

当たり前のことが、なされていないほうが危機ですね。



男らしさとは「自己犠牲」と三島由紀夫氏。

もっとも男らしくないのは「自己保身」だろうね。


勇ましく外国と喧嘩するのが男らしいのではない。

自分が責任を取る覚悟があるならやってみたらいい。

それくらいの覚悟を持って、発言してほしい。


あまりにも、「言うだけ番長」「後から少佐」。

人にやらせて、自分はやらない、卑怯な指導者のふりをした、

「ミスター自己保身」ばかりじゃないか?


公平、自由、自立。

がんばった人が報われる社会にしたいですね。

ではまた。



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