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巌流島の決闘 by 神田南田

 時は慶長17年4月13日、西暦でいうところの1612年でございます。
 巌流島では佐々木小次郎が宮本武蔵を待っていた。
 ちなみに1612年と言う年は江戸幕府がキリスト教禁止令を出した年でもございます。
 それでも小次郎は待っていた。他にも駿府の銀座を江戸に移した年でもございます。

 なのに小次郎は待っていた。その他、山田長政がタイ王国に渡航した年でもございます。

 ああ、それなのにそれなのに、小次郎は、ずっと武蔵を待っていた。小次郎が待つこと23時間、やっと武蔵は現れたのであった。いや、そんなに待っては日が暮れて、また日が上ってしまう。実際に待っていたのは2時間余り、それでも小次郎を苛立たせるには十分であった。

「待たせたな、小次郎」
 そう言う武蔵が手にしているのは櫂の木刀。そう、この時の武蔵はまだ二刀流ではなかった。
 小次郎の苛立ちは限界を超えていた。刀をサッと抜くや否や、鞘を海中めがけて投げ捨てた。

「小次郎破れたり」

 それを見て武蔵がこう言ったとか言わなかったとか、諸説あるようではございますが、ここでは言ったと言うことにしておきましょう。当時の武蔵は29歳。油の乗り切った剣豪としてもイケイケの年齢だったのではないかと思われます。
 一方の小次郎はと言えば、これがまた諸説いろいろございまして、18歳の美少年だったとか、武蔵よりも年上の40歳のおじさんだったとか、60歳だったとか、70歳のおじいちゃんだったとかいう説もございまして、これではまるで老人いじめ。
 それはさておき、武蔵が近づいてくると小次郎は刀を真っ向から振り立て、眉間めがけて打ち下ろした。
 同時に武蔵も櫂の木刀を振り下ろしていた。
 小次郎の剣は武蔵の額の鉢巻の結び目を真っ二つに切っておとした。
 一方、武蔵の木刀は小次郎の額を痛打。倒れる小次郎。近づく武蔵。

 武蔵が息をもつかさぬ二段攻撃。その瞬間、小次郎の刃は横一線に払った。これが世に言うつばめ返し。

 武蔵の袴の裾を三寸ほど切り裂いた。
 が、武蔵の振り下ろした木刀は小次郎の脇腹、横骨を打ち折った。

何と言うあっけない幕切れ。

 しかし、武蔵も額の鉢巻、袴の裾と二度ヒヤリとしたのでございます。これが後に、相手の剣を1本の剣で受け止め同時にもう1本の剣で攻撃すると言う、二刀流という新型の流派の完成につながるのでございました。


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