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哲学を学ぶとは

哲学を学ぶとは、どういうことか。哲学者の國分功一郎さんの答えは明解です。

「哲学を学ぶとは、概念を体得することであり、概念によるモノの考え方を身につけること」

「たとえば、空手で形を身につけたと言えるのは、何も考えなくても自ずとその形に沿って身体が働く、そういう状態になった時のことです。概念についても同じことが言えます。その概念が自ずと考えを導き、口から自然にその概念が出てくる・・・・・・そういう状態になってはじめて、概念を理解したと言えるのです。」(河出書房新社刊『哲子の部屋』‎より)

書店には、古代ギリシアから近現代までの哲学の本や、入門書があふれていますが、どれだけ多くの哲学者の軌跡を辿っても、「哲学を学んだ」ことにはならない。そうではなく、一つの概念を会得することが、哲学を学ぶこと。全くその通りだと思います。

そもそも一般人が哲学を学ぶ場合、先人の知恵に学び人生を豊かなものにしたい、自分らしい生き方をしたいといった、自己啓発的な目的が最初にあります。それは、より良く幸せに生きるための思考、つまり「概念」を求めているといえるでしょう。

ただ、そうであるなら、その概念を哲学の知識に求める前に、まずは自身の中に求めるべき。誰にでも、自分の核と呼べるものが既にあるはずで、それは幼い頃の体験だけでなく、思春期以降に触れたコミックや本、映画、ゲームなどかも。そうした心底大事に思っているもの、核となる概念を確認してから、それに近い哲学を探すほうが良いに決まっています。

はっきり言えば、過去の哲学者たちとは生きている時代も場所も違うので、現在の自分と完全に共鳴する哲学を見つけるなんて無理なこと。つまり、最後は自分なりの概念・哲学を打ちたてるしかないのです。そのために必死で考える。それが哲学ではないでしょうか。

「常に新たな概念を創造すること、それこそが、哲学の目的である。(略)自分の諸概念を創造しなかったと言われても仕方がない哲学者に、いったいどのような価値があるだろうか」(ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』河出文庫)

「哲学を学ぶ」とは「哲学する」ことであり、「哲学者になる」こと。そして、その面白さは、その方法やルールを自分で決められるうえ、何より実用的な「知」が実践を伴わなければ無価値なのに対し、それ自体が快楽であることです。それにアマチュアであれば、厳密性は求められませんし、人生の役に立つなら、矛盾だって許される。こんなに自由で面白い学問が、他にあるでしょうか。

なお、私なりに自分で打ち立てた哲学の原点は、『ジャズと爆弾』(角川文庫)という対談集の中の、こんな文章との出会いでした。

村上龍「うーん。ポール・ニザンの小説だったか、男を変え得るものは三つしかない、と言うわけ。1革命 2麻薬 3女 の三つしかないって」


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