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要約『現代思想入門』 3分で読めて人生が変わる!

 十万部を突破した千葉雅也の『現代思想入門』は書評どおりの面白さ。しかも帯の「人生が変わる哲学」はホントでした。

はじめに(千葉雅也)

 今なぜ現代思想か。時代が、何でもクリーンに「きちんとする」、ある意味窮屈で面白みのない、単純化の方向へと向かっているから。なら、常識的な二項対立のマイナス側に逆張りし、人間の雑多なあり方を肯定してみよう。

 ただし、みんなバラバラ(何でもあり)でいいと言っているのではない。逆に、徹底的に既成の秩序を疑うからこそ、ラディカルに「共」の可能性を考え直すこともできる。

 主体性も大事だが、「他者」が介する能動性と受動性のもつれた「共」のグレーゾーンにこそ、人生のリアリティや面白さはあるのだから。

デリダ…概念の脱構築

 具体的には、
①まず、二項対立においてマイナス(非本質)の側に味方する別の論理を考える。

②対立する項が相互に依存し、勝ち負けが留保された「宙吊り」の状態を描き出す。

③そのときに、プラス(薬)にもマイナス(毒)にもなる、二項対立の「決定不可能性」を担うような、第三の概念を使うこともある。

 自己の安定を揺さぶる(二項対立する)「他者」の世界に身を開き、世界を「変動」的なものとして捉え直そう(脱構築しよう)。

ドゥルーズ…存在の脱構築

 なぜなら、あらゆる事物は「ある」のではなく、異なる状態に「なる」途中の宙吊り(仮固定)のできごとなのだから。しかも、すべては見えない糸でリゾーム状に絡み合いながらも切断され、いたるところに「変動」がある。この微細で多様なダイナミズムこそが「差異」であり、気遣いながらも距離を置く「愛」ともいえるだろう。

 だから安易な同一性を求めて、失われた「大きな物語」を探したり、自己啓発本のような外から与えられる固定モデルに身を預けるのは間違い。「他者」との多様な関係(や無関係)のなかでいろんなチャレンジをして、逃走線の先の外部に自分で「仮固定(的同一性)」のできごとを作り出すのだ。「本当の自分」を探求する必要などない。

フーコー…社会の脱構築

「自分探し」をすれば、アイデンティティ(同一性)が内面に現れ、罪悪感を抱え込んでしまう。人が自己抑制して、パノプティコンのような監視の内面化(規律訓練)を行うのもそのせい。

 社会の規範からズレようが、「これが自分の生き方(逃走線)だ」と開き直って、社会を脱構築することである。

ニーチェ

 初めに、溢れ出るディオニュソス的エネルギー(差異/非合理な盲目的意志/無意識/偶然性)があるが、それだけでは物事は成り立たず、秩序や同一性といったアポロン的形式(イデア/表象/思考/必然性)との拮抗において、何かが成立する。

フロイト

 精神分析による治療は、記憶のつながりを物語の枠組みに当てはめることではない。自我(自分の中の「言葉」=「他者」)を自由連想法で引きずり出すことで、無意識のなかで要素同士がどういう(偶然的)関係づけにあるかを脱意味的に構造分析し、物語的理由づけにより固定化した症状を解きほぐして、徐々に自分が総体として変わっていくことである。

マルクス

 人は生まれながらにして、それぞれに得意な能力や経済力を持ち、そこには偶然性がある。その「存在の偏り」を活かすかたちで、それぞれが力を取り戻し、自分にふさわしい努力ができる社会を目指さなければならない。

ラカン

 人間は過剰な動物であり、エネルギーを余している。だから、それを制限(去勢=客観世界=父)する言語(象徴界)によって、本能やイメージ(想像界)の再形成を行う。そのように、過剰で自由な認知エネルギー(欲動)として再形成された「倒錯」が、人間の生や性の在り方だ。

 一方、それらの向こう側(現実界)にある、どうしても手に入れたい特別なXをラカン用語で「対象a」と言うが、それはある種の見せかけであって、手に入れたと思った途端に幻滅して、次のX(失われた母子一体の快楽)を探すこととなる。

まとめ(千葉雅也)

(決して手に入ることのない)Xを求めたり、自己の現状を正当化する物語をいくらひねり出してもキリがない。人生を変えるなら、今ここで、脱構築しよう。

 それは世界の偶然性を肯定したうえで、固有の人生を世俗的に仮固定しながら、そのズレや変化を楽しむと同時に、切り捨てたものへの未練も残す、多層的な生き方である。

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