頬粘膜がん 239日目 感謝なんかさせない
頬粘膜癌 239日目。
血圧 113-80 mmHg
血糖 - mg/dL (朝食前)
酸素 99 %
脈拍 61 拍/分
体温 36.5 ℃
体重 68.3 kg
今日は午前からイベント参加。
石川県視覚障害者協会71回福祉文化金沢大会というイベント。
毎年開催されているのだが、県内の視覚障害者が一同に会して情報の交換や交流を図る事を目的にしている。今後の活動の方針を発表し、全員で意思統一して福祉の整った社会の発展に寄与する事を誓いあうわけだ。
また、業界や視覚障害者福祉に寄与された方々、長年障害を持ちながら第一線で活躍され自立してこられた会員の方々の表彰なども行われる。(ちなみに去年は僕も表彰された。まさかその後こんな事になったりするとはこれっぽっちも思ってなかったw)
今回は、記念講演として株式会社アメディアの望月代表取締役がお話をされた。
株式会社アメディアは視覚障害者用のソフトウェアーの開発をするとともに視覚障害者用機器などの販売も行う会社だ。
音声と拡大読書機のアメディアテクノロジーで障害者の自立支援!印刷物・ホームページの読み上げ、音声と振動のバリアフリーマップ、アクセシビリティならお任せください。
パソコンやスマホを使って、印刷物を撮影しそこに書いてある情報を文字に変換して読み上げてくれるソフトやハードを開発している。視力を失うと、毎日郵便受けに届けられる封書やはがきなど、何処の誰から何の内容で送られてきた郵便物かがわからない。役所からの大切な案内だって、そうとはわからないわけだ。
”当たり前”のことができない。それが”障害がある”という事だ。僕は今、病気の後でたぶん以前のように仕事ができないんじゃないかと思ったりする。当時は当たり前にできたことだが、今はそんなふうに生きたら、息があがってくたびれ果ててダウンしてしまうんじゃないだろうか。
もちろん、郵便物なんかは家族がいたりあるいはボランティアや文章を読み上げてくれる福祉サービスなどもあることはある。だが、自立というのはそういう事を全部人に任せてお願いしながら生きる事とは少し違うのだ。もちろん、すべてを自分で行う事はできないかもしれないが、誰かに頼む事もそれが積み重なれば精神的に負担になるということだ。
障害とは状況は多少違うかも知れないが、自分が介護が必要な老人になった時に、ベッドで寝たきりでエアコンの温度を変える事もテレビのチャンネルを変えることも、なんなら寝返りしたり、飲んだり食べたり、そして排泄する事にいたるまで誰かの世話にならなければ生きていけないとしたらどうだろうか。それが一時的なものではなく、ずっと続くとしたら。当たり前ができなくなってしまったら。
何かをしたい時に、誰かにお願いしなければならない。手伝ってくれる人は嫌々に手を貸してくれるのではないとわかっていたとしても、それが永遠にそして頻繁に起こるとしたらどうだろうか。
下(しも)の事ぐらい自分でできたらいいなと思う。なんなら食べる事ぐらいは自分でできたらいいなと思う。寝返りぐらい自分でできたらいいなと思う。好きな本くらい自分で読めたらいいなと思う。テレビのチャンネルくらい自分で換えられたらいいなと思う。
そんな当たり前がなかなか叶わないというのはかなりな事だ。
僕は、一時的にそんな状態だった。術後の1日ぐらいかな。まともに起き上がることもできなかったし、体や顔や首やそこらじゅうが痛い。動けなくて辛い。寝返りするのにもナースコールを押さねばならないし、ベッドのそばにあるトイレまでだって自分1人では移動できない。喉がいがいがして痰がからまってもどうにもできなくて息が詰まりそうになる。死ぬかと思う。そんなことがたった24時間ですでにかなり絶望的な気分になったりするのだ。
だから、はがきが読めるとか、封書の内容がわかるとかって小さな事のように思えるかも知れないがとてつもなく大きな違いなのだ。
望月さんは視覚障害者が外出するときにガイドになってくれるアプリの開発もされている。外に自分で出かけていくことの大変さ。それが自分でできるということの価値は計り知れない。
そういう意味では社会が発展して、自動化が進んで駅員が不要になり無人駅が増えて駅の構内を移動することが難しかったり切符の購入が大変だったり、スーパーやコンビニで自動支払機がどんどん普及したりすると世の中的には便利になっていくのかも知れないが視覚障害者が今までできたことがどんどんできなくなってしまうことだってあるのだ。
できない事をひとつずつできるようにアプリやハードを開発する望月さんの会社はとても素敵な会社だと思う。
世の中の矛盾とまでは言わないが、難しいなぁと思うことがある。
お金を出して何かサービスを受ける事は当たり前だ。サービスとお金が釣り合ってお互いに納得の上で同等の立場でやりとりする。(お客様は神様だ、その態度は何だ謝れ!)って同等じゃないと思ってる人もいたりするかもしれないが。お金を出す事は偉いわけじゃない。
それじゃ、困っている人が周囲の人に助けて貰うことは当たり前だろうか。当たり前だと思うけど、サービスをした側は強く求めていなくても自分の誠意によるサービスには感謝のお礼を求める。さも当たり前だと知らん顔で立ち去ろうとすると”なんだい、お礼も言えないのかね”なんて思ったりするかもしれない。コンビニのレジの店員はお金を払った人が”ありがとう”って言わなかったからってそう思うかな。多分、思わない。
多少大げさに言っているがつまり、障害者が周囲の人になにかしてもらう時には同等の立場で当たり前にうけられるサービスを受けているわけではないということだ。感謝してしかるべしで、誰もそんなことは言わないし思っていないかも知れないが、何かしていただいているという上下関係がそこにはある。言ってしまえば実は対等ではない関係性なのかもしれない。やや大げさだし、酷い物言いにも聞こえるかも知れない。でも、”やや”おおげさなだけかもしれない。そんなことはあるはずがない! そこには上下関係なんてまったくないし、対等でお礼なんかも求めてないし、素知らぬ顔でお礼もせずに立ち去ってもらって全然問題ない! とは言えなくないですかね。すくなくとも、感謝することは人間として当たり前の行為で誰もがそうあるべきなんだって別の角度からもの申す人もいるかもしれないが、そんな人はコンビニで自分の前の客が黙って立ち去ろうとしたら”感謝の意を示すことは人間として当たり前の行為だから、あなたそんな素知らぬ顔で立ち去るなんて人でなしだ”と美しい世界を作るために邁進していただきたい。(なんか、こういう風に書くとすげぇ感じ悪いな)
とまれ、誰かの世話になっている人達の多くは常に心に負債を抱えている。お金で買ったサービスならそこまで負債に感じる事はない。お金を媒介にしないからこそ心の負債は大きくなる。この負債は大きくなると心が壊れたりする。
もちろん、周囲からのサービスを受けている人の中にもトンデモな人もいる。なんで、もっと周りの人は自分にサービスしないのか! 配慮が足りない! 気持ちが足りない! 足りない! なにもかもが足りない! と思ってる人もいたりする。それはそれで本当にいかがなものかとも思うのだけれど。
障害がある人達や困っている人がいたら誰もが手助けしてあげてほしい。自分も誰かの手助けができるようにありたいとも思う。だがその手助けをすることで相手が心の負債を感じないですむようにできればいいのにとも思う。なかなかできないし、そんな風に考えられない瞬間瞬間だってある。
世の中にはとても親切でいろいろ世話を焼いてくれる人がいる。世話の代わりに感謝を求められているとは思わないが、親切で優しい人でも当たり前だからやっているという感じにはなかなかならないものなのだ。やってあげているは違うし、やらせて貰ってるも違う。やりたいからやっているのよってのも多分違うのだ。
道を歩いている時に、目の前に小石が落ちていて躓きそうだから拾って横の草むらにほかしたときに、僕たちはとてもフラットな感覚でそれをやってる。当たり前に。
そういう風にありたいものだ。
たまに、ちょっとぶっきらぼうな感じなんだが手を貸してくれて、さっさと立ち去っていく人がいる。急いでいるのかも知れない。”ありがとう”ってお礼を言う間もあるかないか。にっこり笑って振り向いたりしない。ちょっとこっち向いて軽くうなずくぐらいな感じが丁度いい。だって当たり前な事なんだもの。
明日から、誰かの手助けをしたらさっさと”急いでるから!”って立ち去ってみようかな。相手にお礼を言う隙なんか与えないぜ。親切な感じなんて出さないんだもんね。ちょっと雑につっけんどんに。それぐらいの演出が丁度いい。
え?
感じがちがうのからなんか変?
もしかして相手の事よりも自分の満足が足りないだろうか?
感謝なんかさせないぜ。
当たり前大作戦だ。
どう?
今日もいい1日であった。
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