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0013_論拠とは『可能世界の空理空論』

ゲーム本編は以下。無料でプレイできるフリーノベルゲームです。

■シン
僕はよく、それは論拠になっていないってアマネさんに指摘される事がありますけど、そもそも論拠って何なんでしたっけ?
どうしたら論拠を示した事になりますか?

■アマネ
ふむう。
論拠と云うのは、ある主張についてその正当性を保証する事実、或いはその結論が導出される必然的原因、と云う感じだな。

■シン
やっぱりそうですよね。
でも、僕は一応、何かを述べる時、だってこうだから、と云う理由を添えているつもりなんですけど、それでもアマネさんに、それは論拠になっていないと指摘されてしまうんですよね。
個個の事例では、都度アマネさんが詳細に説明してくれるから納得したつもりですけど、それでも根本的に、ちゃんと論拠を添えて主張できるようになるにはどうしたら良いんでしょう。

■アマネ
うーん、まあ口に出す前に自分で良くその主張を批判する、と云うところかなあ。

■シン
自分で批判、ですか。

■アマネ
うむ。
なんしろその主張は、自分が構築したものであろうと、自然法則に則った主張であるなら客観物なのだから、自分とは無関係に成立するものなので、十分批判検討をせねば正しいかどうか判らないのだよ。
自分の感情だとか、自分の主観であれば、自分でよく解っているだろうが、客観は自分が思いついたものであろうと自分のものではないので、批判せねば正しいかどうか判らない。

■シン
成程……。

■アマネ
そして批判の仕方だが、ここで重要になるのが、逆裏対偶の考え方だ。

■シン
何かありましたね。
元命題に対して、逆命題や裏命題は真偽が一致するとは限らないけれど、対偶命題は真偽が一致すると云う奴ですね。

■アマネ
うむ。
AならばBであるからと云って、BであるならAであるとは限らないのだよ。
論拠と云うのは、その両方が成立しているようでなくてはならないのだ。

■シン
ええ……。

■アマネ
例えば、私が今空腹だとしよう。
その理由を説明する仮説として、今運動したからだ、と云うものを想定したとしよう。
これを聞いたら君はどう思う?
私は今空腹だ、何故なら今運動したからだ。

■シン
まあ、そうなのかなって思いますけど。

■アマネ
まあ例えが私の状況だから、当人が云うならそうなんだろう、と云うような気にもなってしまうかもしれないが、実はこれは論拠になっているとは云えないのだ。

■シン
え、どうしてですか?

■アマネ
逆命題を考えてみよう。
私が空腹となる時は必ず、運動した後だ、と云う云い分は正しいと思うかね。

■シン
いえ……例えば長時間食事をしていない場合でも、空腹にはなりますね。

■アマネ
そう。
と云う事は、そうした他の可能性ではなく、何故選りに選って運動こそが原因となっているのか、と云う部分が説明されていないのだよ。
だからそれでは、納得できるものになっていないのだ。

■シン
う、うーん……。
そんなところまで考えなくてはいけないんですか?

■アマネ
だってそうでないと、どんな云い掛かりでもできてしまう。
例えば、ちょっと歩いただけで脚が痛いと云うのは運動不足だからだ、と決めつけて、実はただ脚を大怪我していただけの人に無理に運動をさせたら、却って怪我が悪化したりしかねないだろう。

■シン
確かに……。

■アマネ
ある説明である程度巧く説明できたからと云って、それこそが正しいと云う事にはならない。
未検討の何かが実は関係しているかもしれない、と云う事は幾らでもある。

■アマネ
例えば、だからこそ科学理論は研究が進むに連れて説明が覆っていったりする。
古典力学は大体の現象を説明したが、宇宙レベルになるとそうでもない事が判り、相対性理論などで更新されたとか。
或いは、素朴集合論にパラドクスが発覚したので公理的集合論に改めた、とかな。

■シン
学者達は普通にやっているんですね……。

■アマネ
だって目的は、確かな智に至る事だからな。
少しでも紛れがあっては確かな智とは云えないのだ。

■アマネ
ある説明が巧く云っているとしても、別に巧く云っている説明があったなら、じゃあ結局どちらなのか決定できないであろう?
だから基本的には、ありと汎ゆる仮説を想定して、唯一解を目指さねば何とも云えないのだよ。

■アマネ
まあ日常生活レベルでそこまで詳細に検討しようと云うのも大変だけれど、心構えとしては、決めつけになっていないか常に注意する、一度結論が得られたからと満足せず、都度批判検討を繰り返す、と云うような事が有意義かな。

■アマネ
これだけ考えたんだから大丈夫だろうとか、そこまで考えてたらキリがない、などのようにして勝手に切り上げては拙いのだ、と云う事を根底に据えて、後は時間制限だとかと巧く折り合っていく、と云うのが実践的な態度となるだろう。
何にせよ、これが正しいはず、と決め付ける態度ではいけない。
逆に、間違っているはずだと云う指摘全てが成立しない事を確認する事で、じゃあ正しいんだなと判る、と云うようなものだと思いたまえ。

■アマネ
反論は弾き返すものであって、拒否するものではない。
反論を跳ね返せないような貧弱な主張に固執したって意味はないのだよ。
何故なら正しさとは、反論に対してビクともしない、確固たるものだからだ。

■シン
論理思考って、実はかなり大変ですね。

■アマネ
手間は掛かるかもしれないが、やってる事はシンプルだから、まあ後は慣れだ。
余り思い詰める事はない。
確かな智を目指しさえすれば、どういう態度が適切かも判るはずだからな。
大事なのは論理思考のやり方だとか具体的な態度やテクニックではなく、確かな智への愛なのだよ。

■アマネ
さて、もう少し論理学的に説明をしてみよう。
重要なのは、要するに必要十分である、と云う事だ。

■シン
何か、数学の授業で聞きましたね……。

■アマネ
p→qと云う命題がある時、
qである事は、pである為に必要な条件であり、
pである事は、qである為に十分な条件だ。
そしてこの両方が成立する時、必要十分である、と云う。

■シン
それ、結局良く意味解らないんですよね……。
つまり、どう云う事なんですか?

■アマネ
例えば、君は人間かね?

■シン
え? ええ、人間のつもりですけど……。

■アマネ
と云う事は、君は必然的に、哺乳類でもあると断言できる訳だな?

■シン
まあ、人間は哺乳類なんだから、人間である僕も哺乳類でしょうね。

■アマネ
この時、
「君が哺乳類である」と云う事実は、「君が人間であると云う事実が成立する為に、絶対に必要な条件」だと云えるのが判るかな?

■シン
えーと……。

■アマネ
必要と云うのは、それが無かったら成立しない、と云う事だ。
例えば、もし君が哺乳類でないとしたら、君は絶対に人間ではないはずであろう?

■シン
はい、そうですね。
人間は哺乳類なんだから、ある動物が哺乳類じゃなかったら、それは人間じゃないですね。

■アマネ
と云うように、
「哺乳類」と云う事実は、「人間だ」と断言するには絶対必要な条件であり、それを「必要条件」と呼ぶのだ。

■シン
そのままのネーミングなんですね。

■アマネ
先程のpとかqとか云う式に立ち返ると、
「qである」と云う事実は、「pである」と断言する為に、絶対必要なのだ。
だから、「qはpの必要条件」と呼ぶのだ。
「qはpである為に必要だ」とか、自分で理解し易いように云い換えても良い。

■アマネ
今の例で云うなら、
「人間である」→「哺乳類である」と云う事だ。
「人間である」と云う事実が成立する為には、「哺乳類である」と云う事実も必要なのだ。
何故なら、「哺乳類でない」なら、その動物は「人間ではない」からだ。

■アマネ
先程君が云ってくれたように、こんな感じで対偶論法で考えれば判り易いだろう。
p→qの対偶はqでない→pでない、と云う事だが、
もしqでないならpじゃないと断言できるからには、qはpである為に必要だ、と云う事だ。

■シン
ふむふむ。

■アマネ
この時、矢印の向き先が必要条件と呼ぶらしい、などと表層的に捉えていては、混乱するだけだ。
ちゃんとその意味、本質に向き合えば、実は当たり前の事しか云っておらず、ずっと理解し易いはずだ。

■シン
確かに、呪文のように憶えてましたね……。

■アマネ
本質に向き合い、理解する事を大事にしよう。
それではもう一つの方、十分条件とは一体何か、本質から考えていこう。

■アマネ
そもそも「十分」と云うのは、「少くともこれがありさえすれば大丈夫だ」と云うような意味だ。

■シン
日常的な意味での「十分」なんですね。

■アマネ
うむ。
また具体例で考えてみよう。

■アマネ
今度、五人でパーティをするとしよう。
但し、来られる人も居るかもしれないし、来られない人も居るかも知れない。
では、食料は何人分用意したら良いだろうか。

■アマネ
さてここで、全員が来るとしたら五人だから、五人分あったら取り敢えず十分だと云えるのではないかな。

■シン
ええ、そうですね。
全員で五人なら、五人分あれば十分大丈夫ですね。

■アマネ
もしも四人分しか用意していなかったら、全員が来た時に足りなくなる。
だから、最低でも五人分は必要だ。

■アマネ
しかし、五人分より多く用意する必要はない。
六人分用意しようが百人分用意しようが、最大で五人分あれば良いのだから、そんなには要らない。

■シン
はい。

■アマネ
これを論理式で書くならこうだ。
「食料は五人分ある」→「五人でパーティができる」

■アマネ
五人でパーティができる為には、食料は五人分あれば十分な訳だ。
だから、p→qに於いて、qである為には、pであれば十分だ、と云う事になる。
或いは、「pであり」さえすれば「qの為には十分だ」と云う事だ。

■シン
ふむ……。

■アマネ
先程の哺乳類の例ならこうなる。
「人間である」→「哺乳類である」と云うのは、
何か哺乳類の動物を用意したい、と云う場合、猫でも良いし犬でも良いが、別に人間であっても良いだろう、と云う事だ。
人間は確かに哺乳類なのだから、人間であるなら十分だと云える。

■シン
成程……。
他のものでも良いけれど、人間でも良いのだから、人間で十分間に合う訳ですね。

■アマネ
そうだな。
それが、十分条件と云う名前の由来であり、本質なのだよ。

■シン
数学の授業では、
「x=2」→「x^2=4」
みたいな例で、よく意味が解らなかったんですけど……。

■アマネ
それも同じだよ。
2を2乗したら4になると云う事実があるのだから、
xが2である為には、x^2が4になってくれるようでないと困る。
だから、「x^2=4」と云うのは、「x=2」の為に、必要なのだ。

■シン
p→qで、
pが「x=2」で、qが「x^2=4」ですね。

■アマネ
うむ。
qはpの為に必要だから、「x^2=4」は「x=2」に対して必要条件な訳だ。

■アマネ
そして、2乗して4になる数は、「2」と「-2」の2つある。
そのどちらも2乗して4になるのだから、「x^2=4」が成立する為には、そのどちらでも構わない。

■アマネ
だから、xは別に2でなく、-2の方であっても良いのだが、別に2であっても良いのだから、
まあxが2なのであれば十分であろう、と云う事で、
「x=2」は「x^2=4」である為には十分なのだ。

■シン
そうか、必要とか十分って言葉が、何に対してなのかよく解らなかったんですけど、
片方の為に必要か十分か、って話だったんですね。

■アマネ
そうだな。
xが2であれば十分だよと云われても、何が十分なのか意味が解らないだろう。

■アマネ
その意味は、矢印の先にある「2乗したら4になる数」という事実が成立する為に、それで十分、と云う事なのだよ。
-2でも成立するから、2でなくてはいけない訳ではないが、まあ2であれば十分な訳だ。

■シン
成程……2でなくても良いんだから、2である事は、2乗して4になる為に必要とは云えないんですね。

■アマネ
うむ。
一方で、ある数が2乗して4になると云う事実は、その数が2である為には絶対に必要な訳だ。
何故なら、2と云う数は、2乗したら4になるはずなのだからな。

■シン
へー、成程……。

■アマネ
そして、pとqが、お互いの為に必要である時を考えてみよう。

■シン
互いに必要?

■アマネ
例えば、2と云う数は、1という数の次の数であるし、
1の次の数と云えば、それは2でしかあり得ない。

■アマネ
この時、
「2 → 1の次の数」と云う主張を考えてみよう。

■シン
えーと、「1の次の数」と云う性質は、「それが2である」為に必要な訳ですね。

■アマネ
では、
「1の次の数 → 2」と、矢印の左右を入れ替えた命題はどうだろう。

■シン
えーと、これも、「その数が2である」と云う事実は、「それが1の次の数」である為に、必要な訳ですね。

■アマネ
と云う事は、
「1の次の数」と云う条件と「2である」と云う条件は、
どちらも互いが成立する為に必要な訳だな。

■シン
そう、ですね……。

■アマネ
この時、この2つは「同値である」と呼ぶ。
つまり、「1の次の数」と云うのと「2である」と云うのは、全く同じ意味だ、と云う事だ。

■シン
はあ、成程。

■アマネ
そしてこの同値関係にある場合、互いを、必要十分条件と呼ぶ場合もある。

■シン
十分って言葉も入ってくるんですか?

■アマネ
思い出してもらうと、
pはqである為に十分なものであり、それが左右を入れ替えても成立するのだから、
2つの云い分は、互いに必要であるし、同時に互いに十分でもある、と云う事なのだよ。

■シン
ああ、そうか。

■アマネ
必要であり十分であるから、必要十分条件と呼ぶ訳だな。
絶対にこの要素が必要であるし、この要素がありさえすれば十分で他はもう要らない、と云う事だ。
「1の次の数」と云う条件がありさえすれば、それだけで「2なのだ」と特定でき、他の条件は要らないし、
「2なのだ」と云う事実がありさえすれば、「それは1の次の数だ」と断言できる。

■アマネ
そしてそれはつまり、どちらも同じ事を指しているのだ、と云う事で、同値だと云われるのだな。

■シン
はー、成程……。

■アマネ
と云う訳で、論理学的な意味合いを抑えたところで、論拠の話に戻ろう。

■アマネ
先程の、脚が痛いと云う例で考えてみよう。

■アマネ
例えば君が、脚を痛めていたとする。
その原因が何かは、今は判らないとして、xと呼ぶとしよう。
すると、その原因xが発生したなら、君の脚は痛くなる訳だ。
君の脚が痛くなった原因をxと今呼んでいるからだ。

■シン
はい。

■アマネ
つまり、xならば君の脚が痛む、と云える。
論理式で書けば、「x→脚が痛む」と云った処だな。

■シン
成程。

■アマネ
さて、xに該当するものは幾らかある。
例えば、運動不足と云うのもそうだろうし、大怪我をしたと云うのもそうだろう。
つまり、
「運動不足→脚が痛む」
「大怪我→脚が痛む」
と云う事だ。

■シン
はい。

■アマネ
さて、今解っているのは、君が脚を痛めていると云う事実だけで、その原因xは、まだ解っていない。
では、その原因xを探りたいとする。

■アマネ
つまり、脚が痛むと云う事実から、その原因を探りたい訳で、
論理式で書くなら、
「脚が痛む→x」
を解き明かしたい、と云うような事なのだ。

■シン
ふむふむ。
脚が痛むなら、xが原因だ、と云う事を云いたい訳ですね。

■アマネ
うむ。
では私が、「脚が痛むのは運動不足なせいだ」と決め付けたなら、それはどういう事になるか。

■アマネ
確かに、運動不足である事から、脚が痛む事が云えると、先程確認した。
「運動不足→脚が痛む」と云うのは、真だ。

■シン
はい。

■アマネ
だが、
「脚が痛む→運動不足」と云えるだろうか。

■アマネ
もしそう云える場合、
「脚が痛む事」と「運動不足」である事は、「同値」である事になる。

■アマネ
つまり、運動不足なら絶対に脚が痛むし、脚が痛むのなら絶対に運動不足なのだ。

■シン
でも、そんな事は云えなさそうですね。
例えばプロのアスリートが脚を怪我した場合、彼は運動不足ではないだろうけど、脚が痛む訳で。

■アマネ
そう。
そんなように、反例を示す事で反論となる。

■アマネ
従って、脚が痛むからって運動不足だとは断言できないはずなのだ。
運動不足である事は、確かに脚が痛むには十分な条件であろう。
しかし、必要な条件ではないのだから、脚が痛いからって運動不足だとはまだ断言できないのだ。

■アマネ
従って、こうなるのはこれが原因だ、などとは、簡単には断言できない、と云う事なのだよ。
その断言ができる為には、両方の云い分が同値である事を確認しなくてはいけない。

■アマネ
pだと云う事実のみからqであると断言するには、
p→qと、q→pの両方を確認し、即ちpとqが同値である事を確認しなければならないのだ。

■シン
ああ、だから論拠になってない、って事なんですね。

■アマネ
そうだな。

■アマネ
では、今度はこんな例ではどうかな。
運動不足なら脚が痛むのはそうな上で、君が確かに運動不足であるとしよう。
そして君は、今脚が痛いとする。
さて、この条件からは、「君の脚が痛い原因は、君が運動不足だから」と云えるだろうか?

■シン
えーと、運動不足だと脚を痛めて、僕は運動不足なんだから、脚を痛めるのは当然ですね。
だから、僕が運動不足だから脚を痛めたのだ、と云える訳ですか。

■アマネ
いや、云えないのだよ。

■シン
えっ!?

■アマネ
今確認したのは、
「運動不足なら脚が痛む」事と、
「君が運動不足である」事と、
「君が脚を痛めている」事だけだ。
「君が何故脚を痛めているか」は、まだ確認できていない。

■シン
あ、えっと……あれ?

■アマネ
君が考えたのは、いわゆる三段論法と云うものだ。
pを、君とし、
qを、運動不足とし、
rを、脚が痛むとしよう。
さて、「p→q」で「q→r」である事から、「p→r」は帰結できる。
だから、君が運動不足で、運動不足なら脚が痛むなら、君が脚を痛めるのも当然だと解りはする。

■シン
え、ええ……。

■アマネ
だが、「運動不足ではない別の原因のせいでも脚が痛んでいる」と云う可能性は、まだ残っているであろう?

■シン
あ、あー……?

■アマネ
運動不足なら脚は痛むし、君は確かに運動不足だとすると、成程運動不足故の脚の痛みは絶対にあるはずだ。
だがそれと別の脚の痛みもあるかもしれない可能性を、別途検討しなくてはならないのだと云う事だ。
もし君が大怪我をしていたなら、君の脚は、大怪我と運動不足の両方で痛んでいる、と云う事なのだから。

■アマネ
論理記号で云うなら、rと云うのは実は、「運動不足故の脚の痛み」の事でしかなく、
「大怪我故の脚の痛み」をr’とすると、
君の脚の痛みが、rなのかr’なのかの確認もまたしなくてはならないので、
(p→q)∧(q→r)から(p→r)と云えても、それは、君の脚の痛みがr’だったとしたら、無関係なのだよ。

■シン
な、成程……一つの可能性が確認できただけでは、十分じゃないんですね。

■アマネ
そうだな。
「一つは確認できた」→「全部が確認できた」は成立していない。
つまり「一つは確認できた」事は、「全部が確認できた」と断言するのに十分でないのだよ。
全部確認せねば、全部確認できたとは云えない訳だ。

■アマネ
そして、脚の痛みを、運動不足故のものと大怪我故のものを区別せずに一緒くたに扱ったせいで間違いが生じるなら、
そうした誤り方を、「媒概念曖昧虚偽」と呼ぶのだよ。
異なるものを同一視しているから、訝しな事になってしまっているのだ。
君の脚の痛みが、運動不足故の痛みも確かにあるのだとしても、大怪我など別の理由に依る痛みもあるのであれば、運動不足「だけ」が原因とは云えないのだ。

■アマネ
運動不足故の脚の痛みをr、大怪我故の痛みをr’とし、その両方を脚の痛みとしてRで括るなら、
媒概念曖昧虚偽に気を付けて考えると、運動不足→Rとは云えるが、R→運動不足とはやはり云えない訳だな。
運動不足が事実だとしても、それとは別の理由も同時に成立し得るから、運動不足だけに限定できないのだ。
これも要するに、運動不足は汎ゆる脚の痛みの原因として必要とは云えない、と云う事だ。

■シン
は、はあー……。
正しさって、本当に何と云うか……絶対正しいんですね……。

■アマネ
うむ。
とても厳密に確認しているのだよ。
だから、こうであるのはこうだからだ、と安易に断言できるものではないのだよ。

■アマネ
こうした思考を実践している重要な職業の一つに、医者と云うものがある。
こういう症状がある、ああいう症状がある、だからってこの病気とはまだ限らない。
もし間違った診断をして間違った治療をしたら、患者が死ぬかもしれないのだ。

■シン
だから医者って、めちゃくちゃ頭良くないとなれないんですね……。

■アマネ
そうだな。
脚を大怪我しているにも拘わらず、脚の痛みは運動不足のせいだから運動しろなんて医者が口にしたら、大変な事になる。
運動不足云云の指摘自体が正しくとも、目の前の事態と無関係なのだからな。

■アマネ
どうせ風邪なんじゃね、知らんけど、なんて態度を医者が取ってみたまえ。
人類の歴史はそこで終わるぞ。

■シン
確かに……。
医者って、実はかなりとんでもなく凄い人達だったんですね……。

■アマネ
医者だ弁護士だ学者だと云うのは、基本的に皆とんでもない存在なのだよ。
皆根底に、確かな智を目指す態度がある。
特に医者や弁護士は、そうでないと患者や依頼人の人生が終わるかもしれないのだからな。
それらの仕事には、頭の良さが必要不可欠なのだよ。
頭の良さって、中中便利で凄いものだろう?

■シン
自分の主張に対して、全然検討が足りていないって、大変よく解りました……。

■アマネ
まあ、慣れない内は大変だから。
ゆっくり挑んでみたまえ。
その為のモチベーションが、確かな智への愛、即ち正しさを得たいと云う欲求なのだな。

■シン
だから学者って、こんな大変な事をやっていられるんですね……。

■アマネ
これが正しいって事でもう良いじゃん、みたいな態度は取らない訳だ。
だってそれでは、まだ正しさを実際に得た事にはなっていないのだからな。
学者は、取り敢えずの決着を得たいのではなく、確かな智自体を得たいのだよ。

■シン
学術とか正しさって、とんでもない世界ですね……。


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