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0020_哲学者の言葉に意味は無い『可能世界の空理空論』

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■サトエ
アマネさん、哲学の学習って、悩みの解決とかの役に立つ?
ある悩みに対して、過去の哲学者はこう云っている、みたいなの良くあるけどさ。

■アマネ
あー……飽く迄私の考えを述べるなら、何の役にも立たない。

■サトエ
え、立たないの?

■アマネ
うむ。
ある哲学者の思想は、その人がそう思ったと云うだけでしかなく、正解ではないし、もっと云えば間違っている。

■サトエ
えっ、間違ってるの?

■アマネ
弟子や後世の哲学者に批判されていたりするしな。
哲学はそもそも、そうして批判を繰り返す事で、否定できない確かな智を目指す態度だから、ある哲学者の思想が答だとか正しいなんて事になりはしないのだよ。

■サトエ
じゃあ、過去の哲学者の言葉って、何の役に立つの?

■アマネ
だから、役に立たないのだよ。
せいぜい、後世の哲学者が研究を進める際の叩き台になるくらいだ。
少くとも、日常生活に於ける何かしらのノウハウやハウツーやら、ライフハックになるようなものでは全くない。

■サトエ
えー……。
でも、「かの有名な哲学者誰それはこう云った、何とかはどうこうである」みたいなのってよく見かけない?

■アマネ
よく見かけるが、意味はない。
それらは飽く迄、カッコ良さや頭の良さの文芸的演出に過ぎないだろう。
だって、過去の哲学者と云うどこかの他人がそう云ったから、何なのかね。

■サトエ
ん、んー。

■アマネ
中には、偉大な哲学者でありながら差別的な発言をしている者もいるし、有名な言葉として取り沙汰されるものが普通に間違っているだけ、なんてのはよくある。
そんなもの、人生の役には立ちはしないだろう。

■アマネ
そもそも、数学だとかの普遍的言明ならともかく、具体的な対象や事態へのどんな思想も、必ずそれが主張された文化事情や個人事情に根ざしたものであるし、どんな結論も必ず前提とセットで成立するものだから、結論部だけ抜き出したって意味はないし、条件も踏まえるならつまり普遍性などありはしない。
或いは例えば、同じ「実体」と云う概念を据えながら、ある哲学者は「思惟」と「延長」がそうだと云い、後世の哲学者はそのどちらも不変でないから実体の定義に合致しないと批判したりする。
任意の結論は公理系に相対的だし、結論だけ取り出して云云するのはナンセンスなのだよ。

■アマネ
だから具体的な日常に即した無条件の普遍言明などと云う矛盾物はありはしないし、結局のところ何が正解なのかは事態に相対化されるものであって、数学等の一般論でも無い限り、過去の哲学者が一般的に述べられるようなものでもない。
悩み相談に即して述べるなら、人生だとか悩みと云うのは各人固有の事態であって、その時点で客観的な普遍性だとか、時代も文化も異なる過去の誰かがどうこう太刀打ちできるものではないのだよ。

■サトエ
じゃあ、過去の哲学者の言葉は、何の意味も無いの?

■アマネ
日常レベルでは、そう思って良いだろう。
まあ飽く迄、私の考えなのだがね。

■アマネ
重要なのは、過去の哲学者の言葉に従って行動する事ではなく、過去の哲学者の哲学態度を参考に、自分で考えると云う事なのだよ。
何故なら自分の人生は自分のものでしかなく、自分でしか太刀打ちできないからだ。
普遍的に成立する正義だとかルールは勿論あれど、その範疇に於いて後どうしたいかは自分次第だ。

■アマネ
だから哲学の学習と云うのは、過去の哲学者が「何と云ったか」が重要なのではなく、「何故そんな考えに至ったのか」、「そうだとしたら何が云えるのか」など、哲学そのものを学ぶのが目的なのだよ。
具体的な知識や結論など、どうでも良い。
それらを学ぶのではなく、例えばそれらが出てくるような哲学という態度の方を学ぶものなのだよ。

■アマネ
それは云わば、技術を身につけると云う事、物の考え方を体得すると云う事だ。
職人は、使う道具の名前とかの知識を学ぶのが本質ではなく、その道具の使い方やそれを使いこなす技術を体得する事で、職人として生きていける。
スポーツ選手は、使う道具やルールという知識を学ぶのが本質ではなく、それらを駆使して活躍するのが本質だ。
哲学も同様で、知識など本質ではなく、例えばそのように結論が出せるのだと云う、哲学態度を学び、哲学を行っていく事を学ぶのが、哲学学習の本質なのだよ。

■アマネ
何と云う哲学者が何と云ったかなどは、歴史書でも読めば書いてある。
しかしそんな具体的な知識に、実用的価値などありはしない。
そうでなく、彼はこのようにしてこの問題に挑んだのだな、じゃあ自分も彼のようにして眼の前の課題を解決しよう、というように学んでいくのが哲学学習なのだよ。
一般論を特殊事態に応用するようであれば結構だが、個人の人生に於ける具体的なノウハウのようなものなど、そもそも哲学ではないし、他者に判るようなものではないのだよ。

■サトエ
成程なあ……。

■アマネ
相対的な過去の哲学者の言葉は基本的に間違いだ。
その間違いを指摘できるようになる事、そして間違いを修正し改善する事、それが哲学であって、間違った事しか云っていない知識ばかりが豊富でも意味は無いのだよ。

■アマネ
だから例えば、過去の哲学に反対するようなある主張に対して、それは過去の哲学者の言葉に反するぞとか云う指摘もただの当たり前で意味がない。
哲学はそもそも、過去の成果を有難がって鵜呑みにするものではなく、過去の成果を叩き台に更に先へ進むものだからだ。
過去の哲学者は、乗り越える先達なのであって、追従する相手などではないのだよ。
従うべきは哲学者ではなく、正しさそのものだ。

■アマネ
「過去の哲学者はこう云った」と云う言葉に対する哲学的態度は、「それがどうした」と云うものだ。
それがどうしたのかが重要なのであって、そう云ったのだと云う事実だけでは意味が無い。

■アマネ
「私は今日寝不足だ」とだけ云われても、「だからどうした」ってなものだ。
そうでなく、「だから今日は作業ができない」などと続けば「じゃあ他の人員に作業を回す」など、次へと繋がっていけるのだよ。
だからどうした、が重要なのだ。

■アマネ
過去の哲学者はこう云った。
「女性は男性よりも劣る存在だ」「地球は宇宙の中心である」
こんな間違った主張が、だから一体どうしたのかね。

■サトエ
うーん……そんな事云っていた哲学者が居たんだ。

■アマネ
多分、一番と云って良い程有名な古代の哲学者なのだがね。
万学の祖とまで云われる彼が、それでもこんな間違いを犯したりもしているのだよ

■サトエ
へえ……そんな人でもそんな事云うんだ。

■アマネ
何しろ、科学も哲学も、彼らから始まったのだと云うくらい、最初期の哲学者なのでね。
いきなり真理に到達などできないのだよ。
まあ古代の哲学者は、殆どの処を説明してしまったりしていて恐ろしい程なのだが。

■アマネ
哲学者の言葉は、ただの個人的な考えに過ぎない。
だから、哲学者は思想家と呼ばれたりする事もある訳だな。
数学者達は固定した公理系下で定理を模索するし、科学者は現にある自然界を対象に据えて研究をするが、
哲学者は汎ゆる可能世界をも解き明かす為に、公理系自体を独自に設定したりするので、そこはもう云わば個人的な思想的領域なのだよ。

■アマネ
勿論最終的には、確かな智に至る道筋を辿るのだがね、その途中過程、アプローチは個人的なものなのだ。
だからそんな個人的なものをあてにするより、自分で考えた方が自分に即し適した結論が得られるだろう。

■アマネ
哲学は、ノウハウでもハウツーでもライフハックでもない。
正解でもなければ真理でもない。
確かな智への愛でしかなく、正解や真理を目指している永遠の途中過程でしかないのだと云う事に注意したまえ。
そこさえ解れば、過去の哲学者の言葉って、じゃあ役に立たないじゃんと解るはずだ。

■アマネ
過去の哲学者はこう云った? だからどうした、そいつが間違っていただけであろう。
そんなものより、自分自身で考えたまえ、確かな智を目指して。
それが、哲学者の態度なのだよ。

■アマネ
だから、哲学者だとか哲学思想など、日常生活であてになるものではない。
過去の哲学者なんぞよりも、自分自身の直感や、友人達の助けの方が余程あてになるし大事であろう。
何故ならそれらは、過去のものと違って、すぐ傍にある即時的なものだからだ。

■アマネ
哲学は、そもそもそう云う実用的なものでない、と云う事に十分注意したまえ。
哲学は悩みの解決などしない。
あるのは確かな智への愛のみなのだよ。

■サトエ
じゃあ、哲学の学習って、しなくて良い?

■アマネ
少くとも、個人的な日常生活上の悩みを解決する為には、哲学の学習は役に立たんだろう。
役に立てる事もできるだろうが、必須ではない。
何度も云うが、哲学者の言葉など、その後の哲学研究の為の叩き台以外の何物でもないのだよ。
頭良くなりたいとか哲学研究をしたいと云うのでもなければ、哲学はやらねばならないなんて事はないであろう。

■サトエ
なーんだ……。

■アマネ
悩みを解決したければ、自己分析と、事態分析をしたまえ。
過去の哲学者より、自分自身と向き合いたまえ。
過去の云い分より、目の前の事態と向き合いたまえ。
そこから解決策が算出され、後はその実践で解決される。
その為には哲学者の個人的な言葉よりも、国語や数学を学びたまえ。
そもそも国語や数学ができないと、哲学者の言葉など理解もできないのだしな。

■アマネ
態度として拙いのは、哲学書だか思想書だかと云う過去の誰かの個人的考えをただ知識として得て、何かを知った気になったり、悦に浸るだけで終わってしまう事だ。
何しろそれでは、事態は何も解決していないのだからな。

■アマネ
数学や科学は証明や実証に依って、未来でも通用する普遍的事実を扱えるから、これらを学ぶのは有意義だ。
だが、どの土台を採用するかに依って結論も違うから、土台が異なれば過去の成果は無意味になるのであって、
哲学はそうした、極めて広範な、ありと汎ゆる想定可能な全てを想定するものなのだから、その内容は大変に抽象的で、日常などの具体的なものは対象に据えていないのだよ。

■アマネ
過去の哲学者の中には、悩みを解決するにはこうせよ、みたいな事を述べている者も居るが、それらも結局は抽象的な一般論或いは固定された公理系に於ける主張でしかなかったりする。
そんなものを相手にしたって、却って混乱するだけだ。
大事なのは権威主義に陥る事ではなく、目の前の事態に即して対処していく事なのだよ。

■サトエ
哲学って、本当に役に立たないものなんだね……。

■アマネ
飽く迄、即時的にはな。
理論レベルでは全ての根本にあり、具体性を付与していけば、数学や科学と云った具体的な理論へと繋がる。
だが、その土台がどうなっているかを検討するのが哲学だから、実用性など無いのだよ。

■アマネ
地球があるからって、直ちに腹が膨れる訳ではないようなものだ。
地球は即時的に個人の役に立つものではない。
だが地球がある事で、色んな生物が存在でき、生活でき、個人の人生が成立する。
地球も哲学も、そうした土台でしかないのであって、即時的な何かではないのだよ。

■アマネ
空腹時は食料を頼るべきだし、寒い時は衣類を頼るべきだ。
空腹時に衣類を頼りにしたり、寒い時に食料を頼ってもしょうがない、と云う事だ。
哲学は確かな智への愛であって、実用的な何かではないのだ。
だから、先程は乱暴に、哲学は役に立たないと云ってしまったが、その本性は、哲学は役に立たないものと云うよりも、哲学はそもそもそう云うものじゃない、と云うだけの事なのだよ。

■アマネ
哲学知識が悩みを解決してくれるのではなく、
どうしたら悩みを解決できるか考える、その態度が哲学なのだと云う事なのだよ。
だから、哲学の学習とは、過去の哲学者の言葉を得る事ではなく、そこから哲学態度を学ぶ、と云う事なのだ。

■サトエ
ああ、だから自分で考えろ、なのかあ……。
過去の哲学者ではなく、自分が哲学者になれ、って事なのね……。

■アマネ
そしてその場合には、過去の哲学の学習は勿論有意義になる。
だから、哲学の学習は、即時性を求めるなら無駄だが、悩みを解決する為に哲学者になりたければ有意義なのだ。
哲学が無駄なのではなく、哲学への理解が間違っているのだよ。

■サトエ
難しいなあ……。

■アマネ
過去の哲学者の言葉と云うのは、間違った計算用紙のようなものだ。
正しい答に至るまで、色色間違った過程があったと云うだけ。
その間違いを克服して、より良い答を提出しているのだから、採点はその提出された答に対して行えば良く、今更過去の間違った計算用紙を見る必要は無いのだ。

■アマネ
哲学者の間違った言葉を、良い言葉だなあと鑑賞するのは別に構わない。
主観と客観は独立だからだ。
だがそれは芸術的観点であって、哲学的観点ではない。
間違った計算を、例えば、こんな間違い方をするのは凄いなどと鑑賞するのも別に結構だ。
だが採点は、提出された答だけで良いのだよ。

■サトエ
成程……だから過去の言葉は意味ないんだね。

■アマネ
どう間違ってきたか、どう克服してきたかという、歴史的意義があるだけであって、今更持ち出す必要は別にないのだよ。
バージョンアップをした後、古いバージョンにデグレードするのは、寧ろ拙い、と云う事だな。
勿論、過去のアイデアの方が面白かったからそっちでやり直そうとか云うのは結構だが、間違ってるものを今更持ち出す意味はない、と云う話なのだよ。

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