深呼吸

ASUSのPCがぶっ壊れた。ディスプレイの右側4分の1ほどがブラックアウトする状態だ。見えないことはないが、ウインドウを最大化したときに×ボタンをクリックできないのが致命的だった。
昨晩、妻が誤って踏みつぶしたのが原因なのは明らかだ。妻に文句を言っても詮無いし、一銭も出てこないのでカスタマーサービスに連絡する。
チャット形式だった。やりとりが非常にサクサクで好感が持てる。妻が踏んだことは隠し、原因不明の故障と説明した。
しかし、このチャット、やけにレスポンスが良い。AIなのか、それともこの奥にものすごい知識を持った人がいるのか区別がつかない。
仮に対人だとすれば、その人は毎日、僕のような無知なユーザーの要領を得ない要望に、逐一、光の速さで対応しているのだろうか。頭が下がる。彼(彼女)の時給はいくらだろうか?お休みはきちんととれているだろうか?と見えない相手の心配をしだしたところで、チャット上に理解不能な文字が刻まれた。僕は自分がゲシュタルト崩壊に陥ったのかと錯覚した。
「サポートセンターにお電話願います。」
僕の30分ほどをどうか返して欲しい。

極端に電話が苦手な僕は、億劫だったので直接ショップに行くことにした。赤坂見附駅からほど近く、大きな通りに面したショップはとてもお洒落で、ディスプレイの商品たちがどれも魅力的に見えた。一昔前まで、ひっそりと生産される通好みの商品を作っていた会社とは思えない雰囲気を醸し出していた。時代は動いている。
綺麗なPCに囲まれ、ほかの商品に目移りしていると、さほど待ち時間なく順番が回ってきた。対応者は外国の方だった。とても小奇麗な格好をしていて、日本語が上手だった。
彼は僕の目を見てきちんと話を聞き、持ち込んだPCの状況を丁寧に確認してくれ、預かって検査してくれることになった。本当は妻が踏んだことが故障の原因なのだが、そのことは終始黙っていた。それでも彼は親切に、丁寧に対応してくれた。
彼の時給はいくらだろうか。異国の地で毎日不安なく過ごすことができているだろうか。すっかり彼のファンになった僕は、この対応に十分満足し、店を後にした。この時には、チャットで不毛なやり取りをさせられた30分間のことは忘却の彼方であった。

夕方、サポートセンターからメールが来た。故障した箇所の部品が製造中止になった。こちらの責任なのでということで、故障したPCの製品価格の60パーセント以内の別の商品と交換してくれるらしい。本当は妻の足がやったことでASUSは何も悪くないのに、僕は、こんなに丁寧な対応をしてくれる会社の利益が心配になった。

その後1週間しても会社からなんの音沙汰なかった。
この間、PCのない生活をしていた僕は、携帯の通信量がオーバーし、大手携帯会社に追加料金を払っていた。しかしまあ、ここまでは妻の件で負い目があることもあり、何も気にしていなかった。
こちらからメールしてようやく、あと2週間以内には送ると連絡が来る。多少心に引っかかるものはあったが、店舗で対応してくれた彼の顔が頭に浮かび、「まあそのくらいは交換に時間がかかるだろう」と、自分を納得させた。

そしてさらに2週間が過ぎた頃、あの店舗を出た時の爽やかな気持ちはどこかへ消え失せ、あの店舗店員の丁寧な対応も逆に悪意のあるようなものに感じ、そして会社そのものもなくなれば良いと思うようになったし、チャットの奥にいる人の存在も信じられなくなったが、心を整えて穏やかなメールを送った。(忘れないでいただきたいが、そもそもは妻がPCを踏んだことが原因である。)
すると機械的な返信があった。
「大変申し訳ありません。生産ラインと発送ラインの連携がうまくとれていませんでした。1週間以内に発送します。」
今日送れ今日。
その言葉は飲み込んだ。

僕は飲み込む。
何気ない一言で傷ついた時。
ささいな約束が守られなかった時。
部下が納期を守らない時。
妻がPCを踏んずけた時。
PCの交換が遅々として進まない時。
飲み込んでたまった黒いかたまりを、できるだけ透明にして吐き出すために、浄化の効果を求め、音楽を聴く、映画を見る、小説を読む。
「いろんなことがあるねぇ。」
それはまるで深呼吸のように、飲み込んだものを吐き出すために。

携帯を取り出し、Applemusicを起動した。
おもむろに選んだ曲は、Polarisの「深呼吸」だった。

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Polarisというバンドの代表曲に「深呼吸」という曲がある。
Polarisの曲にドラマはない。淡々と日々を過ごす曲ばかりだ。だからこそ、毎日でもいつまででも聴いていられる魅力がある。
「深呼吸」はその中でも僕が永遠に聴ける曲の一つだ。
タラスタラタラスタラのリズム、「晴れのち曇り時々雨そんな時は深呼吸して」というテーマ、イントロから繰り返される主旋律。どれをとっても斬新というわけでもなく、圧倒的というわけでもないのだが、私にとってはどんなメロディーよりも心地いい響きであり、穏やかな気持ちにしてもらえる。

Polarisは2000年にデビューしたバンドだ。
この当時は宇多田ヒカルが衝撃的なデビューをしスターダムにのし上がったり、GLAYが20万人ライブを成功させたりと、音楽のメジャーシーンが最後の輝きを放っていた頃のように思う。
まだ、日本では音楽の多様性は十分浸透しておらず、先鋭的な音楽が大衆に評価される土壌は育っていなかった。
そのような中にあって、「日常」や「景色」を写実的に表現する曲を作り続けていたPolarisは、その分野において他にはない地力を持っているような気がする。それっぽい曲はたくさんあるのだが、心の刺さるホンモノは数少ない。

僕はこの曲を、人生を斜めに見ていた高校生の時に知った。
自分に対する過大な幻想から、今置かれた環境を呪っていた時期だ。
そんな時にありのままの現在を受け入れ、大事にすることを教えてくれ、
救ってくれたこの曲を、大事に大事に10年以上聴き続けている。

そんな理屈は抜きにして、仕事につらくなった時、
日常が大事に思えなくなった時、悲しいことがあった時、
たくさんの人にこの曲を聴いて深呼吸をしてほしいと思う。そんな曲だ。
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1週間後、きれいなダンボールが届いた。僕は静かに店舗の彼の、チャットの向こう側にいるかもしれない彼(彼女)の、配送センターのまだ見ぬお方の限りない幸せと、そしてASUSの益々のご発展をお祈りした。
晴れのち曇り、ときどき雨。そんな瞬間は深呼吸。
終わりよければすべてよし。人間万事塞翁が馬。
新品のPCで気持ちよく文書を書きながら、最終的には、PCを踏んでくれた妻に感謝をし、僕の平凡な日々は続いていくのであった。

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