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覚醒とは何か?覚醒のメリットと方法

こんにちは。松田です。

いよいよスピリチュアルの図書館を始動することができ、とても嬉しく思っています。これからスピリチュアルのさまざまなテーマについてドシドシ解説していこうと思います。

ということで、第1回のテーマ。
これは以前から決めていたのですが、

「覚醒(Awakening・アウェイクニング)」

について解説していきたいと思います。


1分で分かる本記事のまとめ

✅「覚醒」とは、思い込みから抜け出し、事実・真実に気付くこと
✅ 覚醒の究極は「悟り」
✅ 覚醒の起源は文献で確認できるもので約3,000年前
 信仰まで遡るとなんと1万3,000年前の可能性も
 覚醒の恩恵① 本心本音が分かり、願いが叶いやすくなる
 覚醒の恩恵② 絶対的な安心感が深まる
 覚醒の恩恵③ 幸福感が強くなる
 覚醒の恩恵④ 何をやっても成功しやすくなる
「一流」「本物」は覚醒が進んでいる
 覚醒の鍵は「感覚を磨くこと」と「内観」
「物質世界の覚醒」の次は「精神世界への覚醒」
 覚醒の行く先は至福の人生と世界平和


いきなり「覚醒」と言われても、

「覚醒っていったい何?」
「超能力に目覚めること?」
「なんか宗教みたいで怪しい」

とさまざまな疑問や疑念がある方も多いかと思います。あまり馴染みのない言葉ですし、ピンとこないかもしれません。

ですが実は、この「覚醒」という概念には、「人生を豊かにする秘訣」がとてもたくさん隠されているのです。

社会で活躍している経営者も、人々を熱狂させるトップアスリートも、信頼や人望を集める人格者も、世の中に新たな命を生み出すクリエイターも、お金持ちや富豪も、人を魅了するアーティストも、「一流」「本物」と呼ばれる人は、それぞれの領域において非常に「覚醒が進んでいる」と言えるのです。(本人が自覚していないケースも多くあります)

大雑把な言い方にはなりますが、

「覚醒が進む」=「幸せや豊かさが拡大していく」
「覚醒が進む」=「魅力や才能が発揮されていく」

と言っても決して過言ではありません。

それどころか、

「覚醒が進む」=「願いが叶いやすくなる」
「覚醒が進む」=「理想のパートナーシップが築きやすくなる」
「覚醒が進む」=「仕事の業績が上がりやすくなる」
「覚醒が進む」=「売上が上がりやすくなる」
「覚醒が進む」=「子育てで子どもの才能を最大限引き出しやすくなる」

というように、人生のあらゆる側面において素晴らしい恩恵があります。


人がブレイクスルーを起こすとき、ライフステージにシフトが起き、人生が大きく変化するとき、そこには何かしらの覚醒があります。

覚醒とは、実はすべての人の人生に密接に関わっている概念であり、私たちが人生を自分らしく楽しみ、悔いなく生きるために大きなヒントを与えてくれるものなのです。

本記事ではそんな「覚醒」について徹底解説していきたいと思います。



【1】 「覚醒」とは何か?

1.辞書に見る「覚醒」の定義


では、そもそも「覚醒」とは一体何なのでしょうか?
まずは辞書を引いてみましょう。

かく‐せい【覚醒】 の解説
[名](スル)
1 目を覚ますこと。目が覚めること。「昏睡状態から―する」
2 迷いからさめ、過ちに気づくこと。

出典「デジタル大辞泉」(小学館)


1つ目の意味は、私たちが毎朝体験している物理的に目が覚めることです。
重要なのは2つ目の意味、

「迷いから覚めること」「過ちに気づくこと」

という部分です。

では、「迷い」「過ち」とは何か。
これらは「認知」のことを指しています。

「認知」とは、実際に起きた出来事に対して意味づけを行い、解釈を加えた、

「これまでの体験に基づく思い込み」

のことであり、「エゴ」「ジャッジ」「マインド」「ビリーフ」「観念」「信念」などと呼ばれたりします。

これにはさまざまな種類がありますが、親から教わったことや、学校で習ったこと、周囲の空気から学び取ったこと、これまで痛い目を見て学んできたことなど、自身で見聞きし、体験することで「こういうものだ」と解釈したものは全て「認知」です。

本サイトではこの認知のことを状況に応じて「エゴ」「ジャッジ」「マインド」「ビリーフ」「観念」「信念」などと使い分けますが、その意味は全て同じで、

「これまでの体験に基づく思い込み」

のことを指しています。


認知には無限のバリエーションがありますが、例えば次のようなものがあります。

「幸せのためにはお金が必要だ」
「女性は美人の方がモテる」
「〇〇さんは嫌味な人だ」
「人はみんな優しい」
「私は正しい。相手が悪い」
「成功するためにはがむしゃらに努力しなければいけない」
「お金は汚いのでなるべく受け取らない方が美しく謙虚だ」
「私は運がいい」
「アルコール消毒で風邪を予防できる」
「子どもは褒めて伸ばすと自主性が育つ」
「〇〇すれば売れる」

こうした考えは、誰かに教わったり自らの体験で学んだりした極めて個人的な考えであり、これが「事実」かどうかは分かりません。
一部本当のこともあるかもしれませんし、全く検討はずれなこともあるかもしれません。


お金がなくてケンカばかりする両親を見て、「幸せのためにはお金が必要だ」と学んだのかもしれません。
でも、実際はケンカの原因はお金じゃなかったかもしれませんし、お金は必要最小限で幸せに生きている人もたくさんいるかもしれません。

「私は運がいい」と思っていても、もしかしたらそれは毎日幸せを感じて生きているために、偏った見方によって「運がいい」と捉えているだけかもしれません。

がむしゃらに努力して成功する人ばかりに触れてきて、「成功するためには果てしない努力が必要だ」と学んだのかもしれません。
でも実際は、軽やかに楽しく成功している人たちもたくさんいるかもしれません。

信念や思い込みは、ただこれまでの人生で「そう実感する体験」があったために、本人にとってはそれがさも事実であるかのように感じられているのですが、実際には「事実」ではないかもしれないのです。


これが「認知」は「迷い」であり「過ち」であるという意味です。


つまり、辞書で引いた「覚醒」の意味である、

「迷いから覚めること」「過ちに気づくこと」

は、

「当たり前のように信じていたことが、実は単なる思い込みに過ぎなかった」と気付くこと

という意味になります。

このことについて、もう少し具体的に深めていきたいと思います。


2.「りんご」に見えても「りんごじゃない」かもしれない


筆者が好きな絵本に「りんごかもしれない」という絵本があります。

「りんごかもしれない」
作:ヨシタケシンスケ 出版社:ブロンズ新社


この絵本は、一見「りんご」に見えるものが、もしかしたら「りんごに似た全く違う別のもの」かもしれない、という発想で広がっていきます。



「りんご」のように見えるけど、中はメカがぎっしりなのかもしれない。
「りんご」のように見えるけど、実は何かのタマゴかもしれない。
「りんご」のように見えるけど、実は心があって形が変化するのかもしれない。

そんなおもしろいユニークな発想がどんどん広がっていくのですが、私たちの人生も同じなのです。

机の上にりんごのようなものが置いてあるのを見て、私たちは過去の体験から自我意識が瞬時に「これはりんごだ」と判断します。しかし、よく見てみるとそれは、精密に作られた「りんごの置物」かもしれません。

もちろん、思い込みも場合によっては当たることもあります。「これはりんごだ」と瞬時に判断し、実際によく見て本当にそれが「りんご」であることもあるでしょう。

ですが、厳密に言えば、最初に「これはりんごだ」と判断したときは、「過去に見たりんご」を脳内で再生して、それと姿形が酷似していたために「これはりんごだ」と瞬時に判断しただけで、実際に「目の前のりんご」をしっかり見たわけではないかもしれません。

私たち人間が全く同じ人間がいないように、目の前のりんごの「色味」も「形」も「大きさ」も「ツヤ」もすべてがこれまでに見たりんごとは違っているはずで、厳密には「初めて見るもの」のはずなのです。

私たちの人生も全く同じことが起きています。毎日起きる出来事は、一瞬一瞬新しい瞬間であり、過去に全く同じ瞬間はなかったはずです。過去にどれだけうまくいかないことがあったとしても、未来はどうなるかは常に可変ですし、過去と全く同じことが起きるとは限りません。

ですが、脳は過去の体験から学ぶ習性があるために、過去の体験を引っ張ってきて、「今、この瞬間に初めて出会う出来事」を「こうに違いない」と決めつけて、無限の可能性がある「今、この瞬間」を過去と同じものと認識してしまうのです。

「私がやるしかない。私が休むわけにはいかない」
「何もしていない私は存在価値がない」
「私は主役にはなれない」
「言っても反対されるに違いない」
「成果を出すためにはもっと努力しなければいけない」
「任せても難しいだろう」
「役に立たないとここにいてはいけない」

果たして本当にそうでしょうか?こうした思い込みは、脳が過去の体験を引っ張り出してきて「こうに違いない」と決めつけているだけであり、「事実」ではないかもしれないのです。

私たちが「思い込み」によって判断していることは、あくまで過去の記憶や体験をもとに「予想」しているだけに過ぎず「事実」ではない、つまり「過ち」である、ということです。


3.「覚醒」とは「事実」「真実」が見えるようになること


ここまで私たちの思い込みがいかに個人的な体験に支えられた偏ったものの見方であるかを見てきましたが、「覚醒とは何か?」をまとめると、

「思い込み(認知)」に気がつき、「事実」や「真実」が分かるようになること

と言えます。

単なる「思い込み」と「事実」「真実」の識別が明確に為されている状態

と言ってもいいでしょう。


4.文字の成り立ちに見る「覚醒」


次は「文字の成り立ち」という角度から覚醒の意味を捉えてみましょう。

「覚醒」の「覚」という文字は、旧字体で「覺」と書きます。これは「学(上部)」と「見(下部)」で構成されており、文字通り「見て学ぶこと」を表しています。

「覚醒」の「醒」という文字は、「酒」に「星」と書きます。「酒」は酔っ払って事実を捉えられていない状態、「星」は澄み切って明晰な様子を表し、「酔っている状態からすっきり醒める」という意味になります。

つまり、「覚醒」とは「見て学ぶことによって、酔っている状態からすっきり醒める」というような意味合いになります。


【2】 「覚醒」の歴史と起源

1.仏教に見る「覚醒」の歴史


まずは辞書と文字の成り立ちを参考に覚醒の定義を見てきましたが、覚醒という概念の起源を遡っていくと、さらにそこに含まれた深い意味を汲み取ることができます。

「起源や歴史には興味がない」「早く覚醒の具体的な影響を知りたい」という方は【2】を飛ばして【3】に進んでいただいても構いません。

「覚醒」の歴史は、宗教と切ってもきれない関係にあります。なぜなら、仏教やヒンドゥー教、キリスト教、その他さまざまな宗教において「仏」「如来」「神」「キリスト」「救世主」と呼ばれている存在は、あらゆることに気がつき、この宇宙の真理・真実まで「覚醒した人」のことを指しているからです。

つまり、神が存在しているところ(信仰があるところ)には「覚醒」という概念があった可能性が高いと言えるのです。

前項で覚醒について、

単なる「思い込み」と「事実」「真実」の識別が明確に為されている状態

とお伝えしましたが、この「究極の境地」が仏教で言われている「悟り」であり「解脱」です。

「悟り」の意味・読み・例文・類語
さとり【悟り/▽覚り】
1 物事の真の意味を知ること。理解。また、感づくこと。察知。「―が早い」
2 仏語。迷妄を払い去って生死を超えた永遠の真理を会得すること。「―の境地に達する」

出典「デジタル大辞泉」(小学館)


仏教では、ありとあらゆる煩悩から解放され、真理に目覚めた人のことを「仏(ブッダ)」と呼びますが、これを簡単に言うと、

ありとあらゆる思い込みから抜け出し、宇宙の真理・真実を理解した人

となります。

ちなみに、仏教では「悟りには52の段階がある(五十二位)」としていますが、これは覚醒が進んでいく段階を表したもので、その究極を「仏の悟り」としています。

仏教では、悟りを得ることが人生の目的とされ、悟りを得ることによって人々は煩悩や苦しみから解放されるとし、悟りを開くための教えや教義が多数存在しています。

仏教は今から約2,600年前(紀元前600年)に創始者の釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が創設したと言われており、その頃にはすでに「覚醒」という概念が存在していたことが分かります。


2.インド哲学に見る「覚醒」の起源


さらに歴史を遡ると、釈迦(しゃか)が生まれたインドでは「インド哲学」が盛んであり、インド哲学にも「モクシャ(解脱)」という概念が存在しました。仏教はインド哲学の影響を多分に受けており、哲学に共通する部分も非常に多くあります。

ちなみに、「モクシャ(解脱)」の意味は「悟り」とほぼ同義であり、インド哲学において人生のゴールとされています。解脱するということは、この宇宙を生じせしめた源(ブラフマン)と一体化することであり、自己の本質はブラフマンそのものである、という真理を自覚することとされています。

これは余談になりますが、今では日本でも馴染み深くなった「ヨガ」は、元々は解脱のためのさまざまな行法のことを指しており、瞑想のヨガ、神を愛するヨガ、哲学のヨガ、行動のヨガ、マントラのヨガなど今の日本にはない様々なバリエーションが存在します。

しかし、インドの歴史を正確に把握するのは難しく、インド哲学の発祥は3,200年前(紀元前1,200年)と見られていますが、この頃にはすでに哲学的な教えが多数存在していたとされています。(出典:「インド思想史」東京大学出版会)

書物として「解脱」に相当する概念が確認できるのは、3,000年~2500年前(紀元前1000年~紀元前500年)に編纂された200以上ある書物「ウパニシャッド」であり、これが筆者が確認できた覚醒に関する最古の文献でした。

ウパニシャッドにはさまざまな哲学的な教えが記述されているのですが、最も有名な教えは「梵我一如(ぼんがいちにょ)」です。梵我一如とは、「『宇宙の根源』と『人間の本質』が同一であることを認識すること」とされており、この自覚こそが究極の真理の把握であり、あらゆる苦しみから解放される「解脱」である、という教えです。

このウパニシャッドの教えは、現時点では世界最古の哲学的思想だと言われています。(出典:「世界の歴史(3)古代インドの文明と社会」中央公論新社)


3.世界中で見られる宗教的活動の痕跡


ただし、書物や文献という形ではなく、信仰や宗教的活動という形で見るのならば、起源はさらに古くなっていきます。ウパニシャッドで語られている哲学についても、書物として編纂されるまでは、長きにわたって口伝によって伝えられてきており、教えそのものは3,500年ほど前に生まれたとされています。

先にお伝えしたように、覚醒という概念は宗教と密接な関係を持っています。

宗教では、神話、抒情詩、信仰、儀式など、様々な形で神を讃えてきました。悟りや解脱とは、こうした神なる性質や働きが自らのうちにあることに気づき、自らの本質が神(宇宙)そのものであるという真実の自覚に至ることを指します。

そのため、宗教が存在し、何らかのものを神とみなして信仰してきたところには、覚醒という概念が存在していた可能性があるのです。


例えば、12,000年前(紀元前1万年)に建造されたと見られている世界最古の遺跡「ギョベクリ・テペ遺跡(トルコ)」では、円形の礼拝所と見られる建造物が20ヶ所見つかっていたり、頭蓋骨に死語加工を施した「頭蓋信仰」の跡が見られることから、神殿や宗教施設だったではないかと推測されています。

ギョベクリ・テペ遺跡(紀元前10,000年頃)
遺跡で発掘された男性像


日本においても縄文時代には、女性を模した土偶や男根を模した石棒など、呪術に使われたと思われる出土品が多数見つかっており、安産祈願や子孫繁栄などの呪術があったと考えられています。

さらには、希少性の高い装飾品(耳飾りやネックレス)も数多く発見されており、祭祀を行う特別な存在(シャーマン)が存在し「すべてのものに神が宿っている」という自然信仰(アニミズム)があったと見られています。

これは筆者の個人的な考えになりますが、すべてのものに神を見ていたということは、縄文人が非常に高い精神性を持った目覚めた存在であり、その中でも祭祀を行うシャーマンは特に覚醒が進んだ解脱に近い領域にいたのではないでしょうか。


これまで発掘された土偶の中で最も古いものは13,000年前のものと見られており、相当古くから信仰が存在していたことが窺えます。

また、縄文時代は約1万6000年前~約2400年前と非常に長いにも関わらず、縄文土器には人を傷つける武器が一つも出土されておらず、縄文人はみな非常に高い精神性を持ち、平和的な暮らしを営んでいたのではないかと見られています。

滋賀県「相谷熊原遺跡」より出土した
日本最古の土偶(紀元前11,000年頃)
新潟県で出土した数々の装飾品。
その希少性から祭祀を行うシャーマンや首長が
身につけていたと考えられている。


ここまで歴史を振り返りながら「覚醒」や「悟り」「解脱」の起源について見てきましたが、覚醒というものが、

「思い込み」と「事実」「真実」の識別が明確に為されている状態

という、「人間の意識状態」である以上、言葉にはなっておらずとも、もっと古くから覚醒した人や悟りを開いた人は存在したと考える方が自然ではないかと思います。

しかし、確かにに言えるのは、解脱や悟りは少なくとも3,000年以上も前から究極の幸せや人生のゴールとして多くの人々に求め続けられてきたものである、ということです。

次項ではいよいよ、なぜ「覚醒」が私たちの幸せや成功につながるのかについて具体的に見ていきたいと思います。


【3】 なぜ「覚醒」が幸せにつながるのか?

1.覚醒が進むと幸せが大きくなる3つの理由


ここまで覚醒の定義や起源を見てきましたが、ではなぜ覚醒が進むことが「幸せ」につながっていくのでしょうか。

覚醒の恩恵は数多くありますが、ここでは大きく3つに分けてご紹介したいと思います。

1つ目は、潜在意識に眠っている「深い本音」に気が付き、「真の願い」を叶えられるようになるため。

2つ目は、ネガティブ感情を生み出している「思い込み」から抜け出し、「深い安心感」を感じられるようになるため。

3つ目は、微細な「豊かさ」に気が付き、「幸せを感じる瞬間」が増えるためです。

それぞれ詳しく解説していきます。


①「深い本音」に気が付き、「真の願い」を叶えられるようになるため


やりたいことができることや、願いが叶うことは、シンプルに幸せなことですよね。常にやりたいことに身を任せている子どもはいつも楽しそうですし、長年の夢にしても、七夕の願いにしても、新年の目標にしても、何にしても「願いが叶う」というのは誰もが嬉しいものです。

人生は毎日、毎瞬、選択の連続ですが、ケンブリッジ大学のBarbara Sahakian教授によると、食事や移動、言葉、その他あらゆる事柄を含め、人は1日に35,000回も選択をしているそうです。(出典:Barbara J. Sahakian,Jamie Nicole Labuzetta 『Bad Moves: How Decision Making Goes Wrong, and the Ethics of Smart Drugs』)

もし、これらの毎日の選択、仕事、家庭、パートナーシップ、人間関係、子育て、お金の使い方、時間の使い方、こうしたあらゆる場面で、「一番選びたいこと」を選択できたとしたらどうでしょうか。好きな仕事をやりたいときにする、好きな人とだけ付き合う、自分らしく振る舞う、好きなものにお金を使う、喜びを感じることに時間を使う。「やりたいことができること」「願いが叶うこと」は大きな幸せの一つではないかと思います。

反対に、これらの毎日の選択が「本当はやりたくないこと」だったり、「自らの願いにそぐわないこと」ばかりだとしたら、苦しいことは容易に想像できますよね。

経営者にしろ、アスリートにしろ、アーティストにしろ、活躍している人はみんな自らの情熱が燃える「やりたいこと」を突き詰め、夢や目標を叶えています。

覚醒にはさまざまな段階がありますが、覚醒が進めば進むほど、やりたいことができるようになり、願いが叶いやすくなっていきます。なぜなら、自らの「深い本音」に気づけるようになっていくからです。

覚醒するということは、思い込みを抜け出し「事実」や「真実」が見えるようになる、ということです。「事実」「真実」と言ってもさまざまなものがありますが、自分自身が本当に望んでいること、つまり「本音」や「願い」も真実のひとつです。

つまり、覚醒が進めば進むほど、今までは気づいていなかった、より「深い本音」や、潜在意識に眠っていた「真の願い」に気づけるようになっていくのです。

当然ですが、何がやりたいのか分からない状態で「やりたいことをやる」ことはできませんし、願いが分からない状態で「願いが叶う」ことはありません。どんな仕事がやりたいのかが分からなければ選ぶことはできないですし、誰とどんな関係を築きたいのかが分からなければ、理想の人間関係を築くこともできません。明確になっていないものは選べないからです。

逆に、自分自身の本音や真の願いに気が付くことができれば、それを満たすことを選べるようになります。「本当はゆっくり休みたい」「本当はもっと力を抜いて楽に生きたい」と気が付くことができれば、「休む」「力を抜く」「楽に生きる」という選択肢が生まれるように、本音や願いに気が付くことによって「本音を満たす」「願いを叶える」という選択肢が生まれます。


ですが、人は多くの場合、「本音」や「真の願い」を自覚していません。自分が本当は何を求めているのか、自分でも分かっていないことが多いのです。

何がやりたいのか、何が嫌なのか、何が好きなのか、何が嫌いなのか、誰と一緒にいたいのか、誰が好きなのか、人とどのくらいの距離で関わりたいのか、どんな働き方をしたいのか、どのくらいのペースで働きたいのか、何を任せたいのか、何は自分でやりたいのか、どこに住みたいのか、どんな家に住みたいのか、どんなライフスタイルが理想なのか、どんな時間の使い方をしたいのか、どんなお金の使い方をしたいのか、何をやりたくないのか、何をやめたいのか、本当はどうしたいのか、本当はどうしてほしいのか、人生をかけて為したいことは何か、この命をどう使いたいのか。

こうした数々の問いに対して、実際に自分自身に喜びをもたらす選択、つまり本音を自覚している人は稀です。さらに言えば、自分では「こうしたい」と本音を自覚しているつもりでも、よくよく心の内を観察し、掘り下げていくと、本音だと思っていたものが「エゴの願い」であるケースも非常に多いのです。

以下にいくつか「一見本音に見えるエゴの願い」の例を載せておきます。

「『これ叶ったら幸せになれるはず』と思っているだけの本当は求めていない願い」
例:「月収100万円欲しい(そうすれば苦しみが消えて幸せになれるはず)」

「世間一般の幸せイメージに影響された願い」
例:「早く素敵な人と結婚したい(そうすることが幸せだよね)」

「他人に愛されるための願い」
例:「もっと痩せたい(そうしないと私は愛されない)」

「心の欠乏感を埋めるための願い」
例:「成果を出して世の中に認められたい(そうしないと自分に価値が感じられなくて虚しい)」

「他人より優位に立ちたい、称賛されたいなどのエゴの願い」
例:「もっと売上をあげたい(そうしないと負けた気がして情けない気持ちになる)」


こうした「エゴの願い」は痛みの体験から生まれた「思い込みの一種」であり、一時的な高揚はもたらしても持続的な喜びや幸せをもたらしません。さらに、怖れや不安がベースにあるために「願いを叶えること」「行動すること」が苦しく、モチベーションが上がらず思うように頑張れないケースも非常に多く見られます。

覚醒していくということは、自分自身に喜びをもたらす「深い本音」「真の願い」に気がついていく、ということであり、上記の「エゴの願い」と「真の願い」の識別が自らの感覚を持って正確になされていくということです。

このテーマは非常に奥が深いテーマのため、詳しくは別記事で紹介したいと思いますが、覚醒が進むことによって「エゴの願い」に翻弄されることなく「深い本音」や「真の願い」を明確に自覚していくことで、仕事においても人間関係においても「自分を喜ばせる選択」が選べるようになっていきます。さらには、高いモチベーションで願いの実現に向けて日々淡々とやるべきことを積み重ねていくことができるようになっていきます。

毎日の35,000回の選択が、「本音の選択」に変わっていったら人生はどうなるでしょうか。間違いなく喜ばしい人生になっていくはずです。


②「思い込み」から抜け出し「深い安心感」を感じられるようになるため


怖れ、不安、焦り、孤独感、無力感、無価値感、怒り、イライラ、悲しみ……ネガティブな感情にはさまざまなものがありますが、誰もがネガティブ感情に翻弄されて動けなくなってしまったり、苦しくなったことがあるのではないでしょうか。

「立ち止まったら、すべてが崩れてしまうんじゃないか」
「このままではいけない。何とかしないと」
「あいつのせいでこんな酷い目にあった!」
「私には到底できない……」

こうしたネガティブ感情に支配されているとき、人は「安心感」を失い、「心の自由」を失っています。つまり、心は不安でいっぱいで「〇〇するしかない」と不自由になっているのです。

こうしたネガティブ感情を生み出しているのが、これまで何度も登場している「思い込み(認知)」です。


アインシュタインは、

「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない(Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen.)」

と言いましたが、人は生きていく上で様々な体験をし、その体験で、

「〇〇しなければいけない」
「〇〇するべきだ」
「〇〇してはいけない」
「〇〇するしかない」
「〇〇に違いない」

といった「思い込み」を身につけていきます。本音を選ぶことが難しい理由は、先に述べた「自分の本音を自覚していない」ことの他に、無意識の思い込みによって「そんなことはできない」と信じきっているからです。


例えば、

「本当は今の仕事を辞めて、好きなことを仕事にしたい」

という本音があったとしても、同時に、

「そんなことしたら生活していけない」
「どうせ私にはできない」
「生活のためには働くしかない」

という思い込みがあると、不安や無力感や諦めなどさまざまなネガティブ感情が湧いてきて、本音を選ぶことが難しく(怖く)なります。

本来、仕事を辞めることも、転職することも、起業することも、どれも自由に選べるはずなのに、仕事を辞めてしまうことで、

「生活していけないのではないか」
「家族を養えないのではないか」
「無力な自分と直面するのではないか」

などの怖れ不安が湧いてきて、安心感が奪われ、「仕事を辞める」という自由が心理的に奪われてしまうのです。

これは言い換えれば、本当は望んでいる「本音の選択」が選べず、痛みを避けるために我慢して「望まない選択」を選ばざるを得なくなってしまう、ということです。


こうしたパターンは無数に存在し、他にも、

「成果を出すためには努力し続けなければいけない」
「動きを止めたら周りに追い越されてしまう」
「成果を出し続けなければみんな離れていってしまうから休めない」
「人から馬鹿にされたくないから、弱い自分は見せられない」

など、様々なバリエーションがあります。

こうした思い込みは、主に幼少期の両親との関わりや家庭の空気によって無意識のうちに形成されていき、自分でも自覚していないケースがほとんどです。

この、

「自分が思い込みに囚われている自覚がない」

というところが思い込みの最も厄介なポイントで、なぜなら、囚われている自覚がないままでは「思い込みを手放す」という発想すら出てこず、「思い込みを手放す」という選択肢すら生まれないからです。

すると、理由もわからず不安が湧いてきて、なぜか不安、なぜか強迫観念が出てくる、ふとしたときに孤独を感じる、なぜか寂しい、なぜか無力感が出てくる、なぜか虚しさを感じる、なぜか焦りが消えない、というように、「原因不明のネガティブ感情」に悩まされたり、

「本当は〇〇したいのに、それは無理だから〇〇するしかない」

という葛藤に苦しむようになっていきます。

こうしたネガティブ感情や思い込みが強烈な場合、うつ病やパニック障害、燃え尽き症候群など、心を病んでしまうことも少なくなく、人生にも大きな影響を与えてしまいます。


では、覚醒が進むと、これらのネガティブ感情や思い込みにどのような影響を与えていくのでしょうか。

覚醒が進むと、まずはこうした今まで気付いていなかった「思い込み」を持っていることに気がつき、「思い込み」からネガティブ感情が生まれていることに気がついていきます。

「あ!私、『休んだら置いていかれてひとりぼっちになってしまう』って思い込みを持ってた!」
「はっ、私今『自分は好きなことで稼げない』って前提で考えてた……!」

といった「気付き」がやってくるのです。そして、徐々に「事実」が見えてきて、これらの思い込みが単なる「幻想」に過ぎなかったことが腑に落ちていきます。

「立ち止まってしまうと自分に価値がなくなると思っていたけど、そんなことはなかった」
「強くいなければバカにされてしまうと思っていたけど、そんなことはなかった」

今まで当然のように信じ切っていた思い込みが事実ではなかったことが腑に落ちると、思い込みに紐づいた不安が綺麗さっぱり消えていき、「何を選んでも大丈夫」という深い安心感を感じられるようになっていきます。

覚醒が進めば進むほど、この傾向は顕著になり、思い込みの手放しが進み、安心感がどんどん大きくなっていきます。焦りや不安、ネガティブ感情は目に見えて減り、「〇〇しなきゃ」と自分を縛ることもなくなって、どんなときでも、リラックスした自然体の自分で「その瞬間一番選びたい本音」を選べるようになっていきます。

安心感は日常生活の幸福度に大きな影響を与えています。幸せホルモンの一つである「セロトニン」が多く分泌されるようになり、日常の幸福度が上がっていきます。


③「豊かさ」に気が付き「幸せを感じる瞬間」が増えるため


覚醒とは、「思い込みに気がつき、事実が見えるようになること」と定義しましたが、思い込みから抜け出していけばいくほど、意識は目の前の「今、ここ」に向かっていきます。

例えば、

「早く売上を作らなければ」
「このままではいけない。何とかしなければ」

などと、思い込みに伴う何らかの不安や焦りがあると、どうしても意識は「思考」に向きがちです。「どうすればいいか?」ばかりを考えてしまうわけです。

その間、意識は考え事に向いていて、目の前の出来事を見ておらず、感じてもいません。どれだけ目の前に絶景が広がっていたとしても、どれだけおいしい料理を食べたとしても、頭の中が考え事でいっぱいなら、絶景の素晴らしさも料理のおいしさも感じられません。

このように、思い込みに囚われている状態では、意識が思考に向きがちで、目の前の出来事を見たり、聞いたり、触れたり、味わうことに意識が向いていないのです。

覚醒が進んで思い込みから抜け出していけばいくほど、先述した通り、安心感が深まっていきますが、安心感が深まっていくと心配事が減り、意識が目の前の「今、ここ」に向かっていきます。頭でごちゃごちゃ悩んだり心配することが減っていくため、目の前のことを見て、聞いて、感じて、味わう時間が増えていくのです。

すると、日常生活のふとした瞬間で、ゆっくりくつろいでいるときに幸せを感じたり、パートナーとの時間をしみじみ味わって「幸せな時間だなぁ」と感じたり、仕事で望ましい結果を作れたときや好きなことに没頭しているときに、「これも支えてくれる家族や応援者がいるおかげだな」と感謝を感じたり、「目の前の出来事から幸せを感じる瞬間」が増えていきます。

幸せには人それぞれの形や定義がありますが、すべての人の幸せに共通するのは「幸せとは感じるものである」ということです。

思考や妄想の世界を出て、目の前の「今、ここ」に意識を向けて味わったとき、実にさまざまな体験があり、今まで見えていなかった数えきれないほどの豊かさが発見され、多種多様の「幸せ」がここにあることに気がつきます。

さらにより繊細に、より深く目の前の出来事を感じ取り、味えるようになり、些細なことでも大きな幸せを感じられるようになっていきます。ただ天気が良くて気持ちよくて幸せを感じることもあれば、映画やマンガに没頭して感動したり、人との出会いやご縁に奇跡や感謝を感じることもあるでしょう。

覚醒が進めば進むほど、さまざまな「豊かさ」に気がつき、幸せを感じる瞬間が増えていきます。


【4】覚醒は「成功」につながっている

1.「一流」「本物」と呼ばれる人の多くは覚醒が進んでいる


冒頭で、経営者にしてもアスリートにしてもアーティストにしても一流や本物と呼ばれる人たちはそれぞれの領域で非常に覚醒が進んでいる、とお伝えしましたが、覚醒が進むことは幸福度や安心感を大きくするだけでなく、仕事のパフォーマンスや願望成就に非常に大きく寄与します。

仕事にしろ、スポーツにしろ、音楽にしろ、ビジネスにしろ、どんな業界や職種であれ、大きな成果を残すためにはそこに多大な時間とエネルギーを注ぎ続ける必要があります。ですが、それは決して簡単なことではありません。

彼らがなぜそれができたかと言えば、最大の理由はやはり、「そこに並々ならぬ情熱がある」からであり、「深い本音に従っている」からと言えるでしょう。どんな業界でもやりたくないことを嫌々やって成功している人はいません。

そういう意味において、前項で述べたように覚醒が進むことによって「深い本音」「真の願い」を自覚していくことや、思い込みから抜け出し、安心感を深めていくことは、間違いなく願望成就や目標達成に寄与していきます。

自らの内なる本音に気づき、満たし続けていく中で、「打ち込みたいもの」「深めたいもの」が見つかったなら、内側から湧き出る情熱に従って多大な時間とエネルギーを注いでいくことができますし、怖れや不安が減ったならより目標に向かって没頭したり、愛や喜びを分かち合う前向きな生き方になっていくからです。


2.望む成果を出すために最も重要なこと


ただし、そこに時間とエネルギーを注いだからといって、必ずしも成果や成功につながるわけではありません。もちろん、可能性は上がるでしょうが、時間をかけたからといって成果が上がるか、売上が上がるか、受験に合格できるか、打率が上がるか、音楽が上達するかと言われれば、そうではないでしょう。

では、望んだ結果が出るかどうかは何によって決まるのでしょうか。

それは、「理に適っているかどうか」によって決まります。「理」とは言い換えれば「原理原則」とも言えます。

例えば、ビジネスで売上を上げたいのであれば、「顧客単価」「顧客数」「購入回数」のいずれかを増やすしかありません。それ以外の方法はないのです。「顧客単価」を大きくするのであれば「顧客単価」が上がっても売れるような施作が必要ですし、「顧客数」を増やすのであればそのための施作が必要です。冷静に考えると当然のことですが、これは、

「売上=顧客単価×顧客数×購入回数」という理

によって成り立っているからです。


「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助翁は代表的著作の一つ「実践経営哲学」で「天地自然の理法」について以下のように述べています。

私は自分の経営の秘訣というようなことについて質問を受けることがあるが、そういうときに「別にこれといったものはないが、強いていえば"天地自然の理法"に従って仕事をしていることだ」という意味のことを答える場合がある。
 天地自然の理法に従った経営などというと、いかにもむずかしそうだが、たとえていえば「雨が降れば傘をさす」というようなことである。雨が降ってきたら傘をさすというのは、だれでもやっているきわめて当然なことである。もしも、雨が降ってきても傘をささなければぬれてしまう。これまた当然のことである。
 そのように当然のことを当然にやっていくというのが私の経営についての行き方、考え方である。(中略)

雨が降れば傘をさすというのはだれでも分かることだが、これが経営とか商売になると、いささか分かりにくくなってくる。

 分かりやすい例でいえば、100円の原価のものを110円で売るということである。100円のものを100円で売れば、利益がないから商売にならない。だから、100円の原価のものは110円で売る。あるいは120円が社会的に見て適正、妥当な値段だと考えられる場合には、120円で売るということになる。それが天地自然の理にかなった経営の行き方である。

 さらにいえば、それを売るだけではいけない。売ったならば、必ず代金をもらわなければいけない。集金をしなければならない。これまた当然のことである。

 そのように、私のいう"天地自然の理に従った経営"というのは、当然なすべきことをなすということである。それに尽きるといってもいいかもしれない。その、なすべきことをキチンとなしていれば、経営というものは必ずうまくいくものである。その意味では、経営はきわめて簡単なのである。

出典:松下幸之助著「実践経営哲学」(PHP文庫)
松下幸之助(1894年-1987年)


こちらは経営についての話ですが、「当然のことを当然にやっていく」というのは、スポーツでも音楽でも何においても同様です。理に適った体の使い方をしなければ、体のパフォーマンスを最大化することは難しいでしょうし、そのための「最適な練習」や「取り組み」があるはずです。

これが、「こうやれば売上が上がるはず」「この練習で上達するはず」と、我流の思い込みによって動いていたなら、もしたまたま理に適っていれば成果が出ることもあるかもしれませんが、ほとんどの場合は効果的ではなく、望んだ成果が出ることは少ないでしょう。


また、全世界で4,000万部の世界的ベストセラーとなっている「7つの習慣」では、人生の原理原則について以下のように述べています。

人格主義の土台となる考え方は、人間の有意義なあり方を支配する原則が存在するということである。自然界に存在する引力の法則などと同じように、人間社会にもまた、時間を超えて不変であり異論を挟む余地のない、普遍的にして絶対的な法則があるのだ。(中略)

この人格主義では、「成功」と言われるような人生には、その裏付けとなる原理原則(以下、原則と呼ぶ)があり、その原則を体得し人格に取り入れる以外には、人が真の成功を達成し、永続的な幸福を手に入れる方法はない。

出典:スティーブン・R・コヴィー著「完訳 7つの習慣」(キングベアー出版)


このように、多くの成功者がビジネスおいても人生においても「原理原則」の重要性を説いています。つまり、望む成果を得るためには、

原理原則の体得(理を体感によって理解すること)

が何よりも大切と言えます。一流や本物と呼ばれる人たちは、多くの挑戦と失敗を経験し、それらの体験の中で「原理原則を発見し、体得した(理を理解した)」からこそ、望む成果を出すことができたのです。


3.原理原則と覚醒の関係


では、この「原理原則の体得」と「覚醒」がどのように関係するのでしょうか。

覚醒のメカニズムについては後ほど詳しく述べますが、覚醒とは知識や頭の理解ではなく、自らの体験と感覚(主に五感)によって事実、真実を発見していくことです。

つまり、覚醒が進めば進むほど、「何をどうすればどのように結果に影響するのか」という物事の因果関係や法則が体感で理解されていきます。

例えば、20m先の人に向かって野球のボールを投げるとき、ほとんどの人が斜め上に向かって「山なりに」ボールを投げると思います。これは私たちが、「地球には重力が存在し、まっすぐ投げると下に落ちる」という法則を体得している(腑に落ちている)からです。

では、なぜ体得できているかと言うと、実際に重力を「体験」して、どのくらいの重さのものを、どれくらいの力で投げれば、どこまで届くのかを「五感で感じ取っている」からです。


もし重力というものを、

「地球の重力(重力加速度)は 9.8 m/s2 である」
「地表近くで自由落下する物体の速度は毎秒9.81 m/sずつ増加する」

と、単なる知識として頭で理解しているだけなら、正確に狙った場所にボールを投げることは難しいでしょう。実際に重力を「体験」し、ボールを投げて「感覚」を掴むことによって初めて体得ができ、扱えるようになるわけです。

これらはスポーツにおいても、音楽においても、芸術においても、仕事においても、人生においても同様です。

世の中には素晴らしい教えや書物がたくさんありますが、知識を得ただけで扱えるようになるのであれば、誰もが簡単にトップアスリートや名経営者になれてしまうでしょうし、誰しもが自分らしく幸せを生き、望む結果を手に入れているはずです。

それが扱えないのは、学びが腑に落ちておらず、体得されていない(感覚によってつかめていない)からに他なりません。知識は実際に自分の体験、感覚によって体得するまでは単なる「思い込みの一つ」に過ぎず、自らの体験と感覚によって腑に落ちたものだけが「智慧」となり、扱うことができるようになります。


つまり、望んだ成果が出るかどうかの鍵となる「理」「原理原則」は、頭で理解するだけでなく、体験と感覚(主に五感)によって体得する(腑に落とす)必要があるということ。

そして、体得できるかどうかの鍵は、どの程度感覚が開いていて、どれだけ目の前の出来事やそこに働いている原理原則を「感覚」によって捉えられるか、つまり「どれだけ覚醒しているか」にかかっているのです。

よくスポーツにしても、音楽にしても、仕事にしても、すぐにコツをつかんで上手になっていく人のことを「センスがいい」と言いますが、「センス」とは「感覚」という意味であり、「センスがいい」という言葉は「感覚が優れていて、何をどう動かせば望む結果につながるのか(原理原則)を感覚でつかむのが早い」という状態を指しているのです。

どの業界でも「一流」や「本物」と呼ばれる人は、特に自らの専門分野について、原理原則を深く理解しており、何をどうすればどのような結果になるのかをよく知っています。お金の専門家なら、お金の流れやどう扱えばどう増減するのかをよく理解しているでしょうし、野球選手ならどのように体を使えば最も効果的なスイングができるかを熟知しているはずです。

さらに言えば、どの業界であれ突き詰めた人ほど「人としての在り方」や「哲学」も共通する部分が見えてきます。目に見える世界の原理原則だけでなく、「人の心」や「自然法則(真理)」といった目に見えない世界の原理原則にまで覚醒が進んでいるのです。


覚醒が進むことは、物事の体得スピードに直結してきます。そのため、人間関係であれ、仕事であれ、どんな業界であれ、覚醒が進めば進むほど原理原則が体得されていき、望む結果を出しやすくなっていきます。

人生なら人生の原理原則、人間関係なら人間関係の原理原則、心なら心の原理原則、スポーツなら体の原理原則、仕事なら仕事の原理原則、お金ならお金の原理原則、ビジネスならビジネスの原理原則、音楽なら音楽の原理原則、これらの「真理」をいかに理解し、「理に適った行動」をとっていくことによって成功につながっていきます。


【5】どうすれば覚醒は起きるのか?

1.認知心理学に見る覚醒のメカニズム


前項では、覚醒がなぜ幸せや成功につながるのかを見てきましたが、ではどのようにして覚醒は起きてくるのでしょうか。本項ではそのメカニズムについて見ていきます。

ここまでに覚醒とは、

・「思い込み(認知)」に気がつき、「事実」「真実」を捉えられるようになること
・「思い込み」と「事実」「真実」の識別が明確に為されている状態

と定義しましたが、では「思い込み」と「事実」「真実」は何が違うのでしょうか。

認知
認知(にんち)とは、心理学などで、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと。

出典: フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」

じ‐じつ【事実】 の解説
[名]
1 実際に起こった事柄。現実に存在する事柄。
2 哲学で、ある時、ある所に経験的所与として見いだされる存在または出来事。論理的必然性をもたず、他のあり方にもなりうるものとして規定される。
[副]本当に。実際に。

出典:デジタル大辞泉(小学館)

しん‐じつ【真実】 の解説
[名・形動]
1 うそ偽りのないこと。本当のこと。また、そのさま。まこと。
2 仏語。絶対の真理。真如。

出典:デジタル大辞泉(小学館)


「認知」とは、「事実」に意味づけをした「解釈」であり、言わば「一個人の考え」と言えます。
対する「事実」は、実際に起きている出来事であり、誰が見ても変わらない唯一のことです。
同様に「真実」も「本当のこと」や、揺らぐことのない原理原則を意味します。

つまり、「事実」を知覚し、知覚したものに対して「意味づけ」を行なったものが「認知」と言えます。

例えば以下のようなイメージです。

事実(実際に起きたこと):相手が不機嫌そうな顔をしている
認知(個人的解釈):私が何か気に触ることをしたから不機嫌になっているに違いない
真実(本当のこと):疲れが溜まり体調が悪くてイライラしていた


では、どうすればこうした「認知」から抜け出し、「事実」や「真実」が捉えられるようになっていくのでしょうか。

人は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚という五感をはじめとした「感覚」によってこの世界を知覚しているため、

「事実」は「感覚」によって知覚される

と言えます。五感が全て失われてしまえば、私たちはこの世界を知覚することさえできないからです。

対する「認知」は意味づけや解釈を行う「脳の働き」です。

ということは、脳を使って意味づけや解釈をするのを一旦やめ、「今、この瞬間」を五感をフル活用して感じることに集中すれば、さまざまな事実を発見することができるのです。

簡単に言えば、「考えることをやめて、今この瞬間に集中する」ということです。


2.感覚を使えば、事実や真実を捉えられるようになる


例えば、電車で考え事をしていたら、同じ車両に親友が乗っていても気づかないかもしれません。いつも忙しく時間ばかり気にしていたら、毎日顔を合わせているパートナーの髪型やメイクが変わったことに気づかないかもしれません。どれだけ素晴らしい料理も心配事で頭がいっぱいだと十分に味わうことができないでしょう。

逆に「今、この瞬間」に集中して、よく見て、よく聞いて、よく感じていたなら、さまざまな発見があるはずです。人をよく見ていたら「この人は嘘をつくときに愛想笑いをするな」と気づくかもしれません。空気や雲行きをよく見ていたら「空気が湿ってきたから雨が降りそうだな」と分かるかもしれません。

小手先の技術でごまかして失敗する人や事例をいくつも見て、「人間性や在り方が伴っていなければうまくいかないんだな」と感じるかもしれません。データや数字を見て、「もしかしたら、顧客はオンラインコンテンツよりもリアルで関わることを求めているのかもしれない」と気づくかもしれません。

こうして目の前の出来事を集中して感じ取っていくことで、数多くの「事実」を発見することができ、それらの「事実」の背景にある「真実」や「法則性(真理)」に気が付くようになっていきます。

さらに言えば、どのくらい「今、この瞬間」に集中して五感から情報を得ているかによって、どれだけ事実や真実が発見できるかが変わってきます。

感覚を総動員して高い集中力で、よく見て、よく聞いて、よく感じていたなら、嘘をつくときに愛想笑いするだけでなく、心の奥で嫌われることを怖れ、愛を求めていることを感じ取れるかもしれません。空気の湿りだけでなく、風の冷たさや雲の流れの早さを感じ取って土砂降りの夕立か小雨なのかまで分かるかもしれません。

小手先の技術も、短期的に見ればうまくいくこともあり、その後、人間性や在り方が伴うかどうかによって成功と失敗が分かれていくことに気づくかもしれません。データや数字を見て「顧客はリアルでつながって『共に生きている感覚』を求めているのかもしれない」という仮説が生まれるかもしれません。

「今この瞬間」に集中すればするほど、気付く事実が増え、得られる情報が増え、体感によって見出される真実、真理はどんどん増えていきます。だからこそ、何かに没頭し、一流・本物となった人は多くの真実・真理を体得しているのです。

この「感覚(主に五感)に基づいた観察・体験によって、事実や真実を捉えられるようになっていくプロセス」こそが「覚醒」なのです。


3.「内観」によって「思い込み」に気付く


この覚醒のプロセスを進めていくためには、もう一つ重要なポイントがあります。それは、内なる自分を客観的に観察し、思考や思い込みが働いていることに気づいていくことです。

人は基本的に自分自身が思い込みに囚われていることに気がついていません。思い込みに気がつくことができれば、それが事実でないことが分かってしまうので、自ずと抜け出すことが選べるようになるからです。(思い込みに痛みの体験が紐づいている場合は別の対処が必要になります)

つまり、「思い込みに気がついていないからこそ、思い込みに支配されている」と言えるのです。

自分自身を支配している思い込みはとても巧妙で、自分で気づくのは難しい部分もありますが、効果的なアプローチの一つに「内観」が挙げられます。

「内観」とは心を落ち着かせて、自らの心の働きを静かに客観的に観察することです。

先ほどの「今この瞬間に集中すること」と同様に、心配事や考え事の中に埋没していては自らの心の働きを客観的に観察することは困難です。ですので、内観する際は、ゆっくりと深呼吸をして交感神経優位(脳が優位)の状態から、副交感神経優位(感覚が優位)の状態へと持っていき、体をリラックスさせます。

その状態で、自分に対して「今何を感じている?」という問いを投げかけ、静かに全身を感じていると、さまざまな心の働きを観察することができます。

「疲れた。休みたい」
「売上に追われて動きたくない」
「もっと成果を上げなければ」
「分かってもらえなくてイライラする」

さまざまな思考や感情が湧いては消えて、次々と流れていくことを観察できると思いますが、こうした思考には必ず「前提」が存在します。

「疲れた。休みたい(でも、仕事に行かなければ会社に迷惑がかかる)」
「売上に追われて動きたくない(でも、売上がないと生活できない)」
「もっと成果を上げなければ(そうしないと、惨めな思いをしてしまう)」
「分かってもらえなくてイライラする(話してもどうせ分かってもらえない)」

これらの「前提」こそが「思い込み」であり、自分自身を縛っているものなのです。

具体的な内観の技術については、長くなってしまうので別記事で詳しく解説していきますが、静かに心を落ち着かせて心の働きを客観的に観察し、深掘りしていくことによって、自分を縛っている思い込みに気がつき、覚醒を進めていくことが可能になります。


本項の内容をまとめると、覚醒を進めるための主なポイントは、

・感覚(主に五感)を使って、「今、この瞬間」の出来事に集中すること
・感覚(観察意識)を使って、「今、この瞬間」の心の働きを内観すること

ということになります。


【6】覚醒の先には一体何があるのか?

1.「物質世界」から「精神世界」へ


ここまで、「覚醒が進むと、人生にどのような恩恵があるのか」「どうすれば覚醒を進めることができるのか」について、主に私たちの生活に近い「物質世界での覚醒」について解説をしてきました。

確かに、覚醒が進むことは「真の願いが叶いやすくなる」「安心感や幸福感が強くなる」「成功しやすくなる」といった様々な恩恵がありますが、これらは覚醒による二次的な作用のひとつであり、「覚醒」という概念の中でも、私たちの人生に密接した一部分における作用に過ぎません。

なぜなら、私たちが生きるこの世界には「目に見える世界(物質世界・現象)」と「目に見えない世界(精神世界・原因)」が存在するからです。

そして、目に見える部分についての事実、真実に気付いていくのは、覚醒における一つのステージに過ぎず、さらに知覚が繊細に、鋭敏になっていくと、「目に見えるもの」はすべて「目に見えないもの」によって支えられていることや、目には見えないけれど明確に作用している働きや法則があることや、目には見えない存在が動いていることについても知覚できるようになっていきます。

いわゆる「精神世界」や「スピリチュアル」と呼ばれる世界です。

悟りや解脱と言うとあまり身近に感じないかもしれませんが、「原因と結果の法則」「ご先祖様」「運」「神社参拝」「徳を積む」「潜在意識」「引き寄せの法則」「魂」「シンクロニシティ」「流れ」こうした身近なテーマであれば、もしかしたら一部その働きや存在を実感している方も多いのではないでしょうか。

さらに霊的な世界に入っていくと、「輪廻転生」「死後の世界」「霊」「波動」「量子力学」「チャクラ」「宇宙人」「霊能力」「リーディング」「チャネリング」など、非常にバリエーションに富んだ世界が存在します。

これまで述べてきたとおり、覚醒とは「思い込みに気がつき、事実や真実が分かるようになること」であり、単なる「思い込み」と「事実」「真実」の識別が明確に為されている状態のことを指しますが、「目には見えないエネルギーや、目に見えない存在や、目に見えない働きが存在している」ということも、精神世界に目覚めている人からすれば、明確な「事実」であり「真実」のひとつです。

これは、「地球を中心に他の天体が回っている」という「天動説」が信じられていた時代から、「地球を含む他の惑星は自転しながら太陽の周りを回っている」という「地動説」を唱えたニコラウス・コペルニクスによる大転換のようなものです。

人々が天動説を信じていたときもずっと地球は自転しながら太陽の周りを回っていた、というのが紛れもない「事実」であり「真実」なのです。


ただし、目に見えない世界については、各々の主観が入りやすく、その存在や働きを証明する科学やテクノロジーが現代ではまだ十分ではないため、慎重に見極める必要があります。

実際に体験を通して感覚によってこの世界の事実を知覚し、真実を見出したのか、それともただ自身の主観に従って妄想を見ているだけなのか、はたまた学んだ知識を鵜呑みにし、ただ知識レベルで語っているだけなのか、さまざまなケースが存在するからです。

本記事もそうですが、こうした目には見えない世界の概念や自分にとって未知の概念について学ぶときはそれを鵜呑みにせず、かと言って否定や疑いのスタンスで切り捨てるのでもなく、自分自身のこれまでの人生経験によって見出してきた智慧(論理)と、最も良い状態の冴えた「感覚」によって、その真偽を見極めるように努めるのが健全な在り方です。

その上で、一致するものは採用し、真偽を判別できないものについては「現時点では分からない」という結論を出しておき、置いておくことが最も誠実かつ、危険がない在り方だと思います。

これらの精神世界への覚醒については膨大なテーマが存在するため、改めてそれぞれのテーマについて別記事で扱っていきます。


2.覚醒の先にあるもの


では、こうした「覚醒」の先には一体何が待っているのでしょうか。

精神世界に目覚めていくと、

「この世界で起きる出来事はすべて自分が引き起こしている」
「私は自分の人生の創造主である」
「感情が動く出来事は、相手に原因があるのではなく、自分の中に反応する原因がある」
「肉体でもない、心でもない、『魂』が確かに存在している」
「すべての出来事は『本心本音(自己の本質)』を思い出すために起きている」
「この宇宙には愛しか存在しない」

と言ったさまざまな真理が、まるで目の前にあるコップを見るかのように疑いようのない形で実感されていきます。敵も、競うべき他者も存在せず、大いなる自分と、自我(思い込み)に囚われた小さな自分が存在するだけで、常に愛と至福しかない世界に入っていきます。

私たちの意識がより覚醒し、より多くの事実、真実を知覚できるようになっていくと、この宇宙の実在である「愛」「真理」「命」のみが観測、体験されるようになっていくためです。

その先にあるのは、至福の中で、ただ創造性を発揮して喜びを生き続けていく人生です。何かに焦ったり、不安になったり、孤独になったりすることなく、深い安心感と一体感の中で、ただただ湧いてくる喜びや好奇心や愛に従って導かれていく人生です。

インド哲学のある教えによると、こうした覚醒による幸福感、至福は、この世界のものをすべてを所有する喜びよりもはるかに大きいものだと言われています。


もしこうした本質的な喜びを生きられるようになってきたら、怖れ不安の幻想から解き放たれ、常に本心本音を生き、その瞬間瞬間「今ここ」の幸せを味わう人生を歩むようになってきたら、人生が悔いのない幸せなものになっていくのはもちろん、今社会で問題になっているさまざまなテーマが解決へと向かっていくのではないでしょうか。

紛争、自殺、貧困、環境問題、経済格差、支配、虐待、いじめ、食品問題、農作物問題、医療問題、あらゆる問題は他者を否定する心から始まっています。そして、その根底には攻撃する側もされる側も、支配する側もされる側も、同じ怖れ不安を抱えています。

こうした問題の種は、一人一人の心の中に誰しもが持っているものです。ブッダやイエスキリストをはじめとした数々の覚者が数千年のときを超えてなお、人々に喜ばしい影響を与えているように、一人一人が覚醒が進むことで、愛や喜びのエネルギーが連鎖して広がっていき、現実世界も喜びあふれる世界になっていくのではないかと思います。


【7】終わりに


大変な長文、ここまでお読みいただきありがとうございます。覚醒について定義からできる限り分かりやすく解説をしてきましたがいかがだったでしょうか。

筆者は、幸せや豊かさの根本は覚醒にあり、世界平和の鍵も一人一人の覚醒にあると考えており、一人でも多くの人が感覚を開くことを通して、意識が覚醒し、その人らしい最高の喜びを生きることを願ってやみません。

覚醒というテーマがあまりにも大きなテーマなため、本記事では個別のテーマについて具体的に詳しく説明しきることができず、全体像をおおまかに解説するにとどまりましたが、それぞれのテーマについてはこれからまとめていけたらと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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