60点台の人

でっかいエビです。


この前有志でした通話がとても有意義なものだったので、それを受けて自分がどう感じたかを書き残したいと思い、この記事を作成しています。


テーマは『創作』です。


何のために作品を作っていくのか

日々Twitterのタイムラインでは様々な作品が顔を覗かせてくる。それは絵であったり漫画の他にも、映画や音楽の広告(作品そのものと、その広告も作品である)、番組の宣伝なんかも作品の一つだ。

創意工夫があっての作品なので、誰もが同じように作れてしまうものは作品にはならない。泥団子に著作権が無い理由がそれだ。つまり著作は人の意志が介入せずには存在していない。誰かが作ろうとしたから作品になって姿を現したということになる。

日々そうして生まれてくる作品であるが、ではその作品の作者たちは皆、誰に頼まれて作品を作るに至ったのだろうか。

創作の意義

創作をしていくと必ずある難題と向き合う瞬間がある。「これでいいのだろうか?」という不足の不安だ。

自分の脳内にある傑作を外に放り出すのにえらく苦労を強いられ、またそれは必ずと言っていいほど思い通りに生れ落ちてくれない。不合格でないにしろ満点なんか取れたものではないのだ。

僕はこれは逆説だと気づいた。

先述の通話の話をさせていただく。

演劇に興味がある数人で、「どうして舞台に立つのか」という話になった。これにはいろいろな問題の捉え方があり、演劇という文化そのものにまで範囲が及ぶものであるが、今回は「できないと思いつつやり続ける理由」という書き換えをしてみよう。

つまり皆が知りたいのは、「プロに任せればいいのに素人集団が躍起になる意味」であり「得意かどうかもわからないことを続ける理由」であり「粗末なものなのに人にわざわざ見せる目的」のことであるわけだが、それこそが答えだという意見がこぼれた。

できないことがもたらすもの

演劇で言えば、台本を覚え、セリフを言い、身体を動かすという書けば簡単な行為に多々問題が生じる。自然じゃない、心が籠っていないなんてのは、役者であれば言われなれた文句。しかしそれこそが、創作の与える恩恵だと言ったやつがいた。


そうして自分ができることできないことに気づき、自分の領域を掘っていく。どう乗り越えようかと思考を巡らせることで、解決に向かう道の探し方を身に着ける。多くの作品は、完成して世に出てくるものではなくて、完成に近づけようと四苦八苦してできた贋作ばかりだが、その贋作には成功への道標が内包されていると考えられる。

作品は、完成品でなく、試作品だらけ。



僕はこれを聞いたとき、なんだか軽くなった。


水曜日のダウンタウン見た?

先日のTBS系列の水曜日のダウンタウンという番組内で、とある検証に参加した野田クリスタルが、番組の本意とは違う結果を残し、その映像がとくに脚色されることなく世に出た。

放送内で泣き出すクリスタル氏は直前の飲酒もあって、ひどく取り乱していたが、番組の反響は彼への絶賛に尽きた。これも、番組を作ろうとして奮励する彼の不足が、人の不足に手を伸ばしたからだと感じた。

及第を許さず、それでも杳杳たる完璧に手を伸ばすのを辞めない人間の動物としての習性とも言える性質が、多くの人の中で響いている。クリスタル氏が、その後SNSで感想を受け付けませんと投稿したのも彼自身の不足を最も認識しているのが彼であるのだから仕方ない。

そしてすべての番組で天才的に立ち回る芸人という満点に届きそうで届いてない彼もまた、不足の人々へ感動を与えるのだった。


個人として

もちろん知る人の中には、ほぼ完璧といっていい人生を送っている人間たちも少なからず居る。しかしそれも結局本人たちの満足とは違う塊で、今回の話は自分に対しての激励の意味が強い。

上手い文章が書けない、人を引き付ける絵が描けない。センスがない技術がない。そんな人間こそ、創作に向いているなんて思えるなら、強くね?


駄文御免。


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