開戦2022
■2022年
漢検が主催する「2022年を表す漢字一文字」は、
~ 戦 ~
に決まったらしい。
合点はいく。
なんせ某国と某国の間で、軍事的な衝突が起きた。
某元首相が、街角で銃殺された。
円安で、市場が大荒れした。
サッカーワールドカップが盛り上がった。
中国ではデモ活動が今も起こっている。
例のウイルスだって、今もなお収束には至っていない。
色々な場所で、色々な人たちが、色々な種類の戦いを繰り広げている。
でも振り返ってみれば、いつの時代も世界は、「戦い」に満ち溢れていたじゃないか。
■「たたかう」とは、「叩き合う」
平穏な時流にいた頃、僕は何をしていた?
叩いても平気な人をなるべく匿名で叩こうとして、でも自分は叩かれないように「埋もれる努力」をしたりして。
そういえば、誰かが言っていたな。
僕は今、中間管理職の座にあぐらをかいている。
どこにでもいる40歳だ。
戦っている自覚は、ある。
逃げてるつもりは、ない。
でも世界は恐ろしく速いスピードで変化し、置き去りにされる者に容赦しないんだ。
例のウイルスがなくたって、技術の躍進は目覚ましいものがある。
テクノロジーは不可逆。
コンピュータなしの世界なんて、もはや考えられない。
■デジタルネイチャーからAIネイチャーへ
2022年は、多くの人がAIに触れ始めた年だったように思う。
もちろんそれまでもプログラマーは機械学習でクエリを食わせ、
検索エンジンのアルゴリズムは日々異なるディレクトリを吐き出していた。
トレーダーたちの間ではbotが跳梁し、
SNSでは無為なるアカウントが跋扈している。
cookieレスを叫ぶ国に配慮しつつ、
映える写真をワンクリックで盛り盛り加工して、
ソフトバンクの店先ではペッパー君が遊んでいる。
歴史を紐解けば、AIは1950年代から始まっているのに、なぜ昨今、またAIが注目され始めるようになっているのか。
今回の潮流はひとえに開発者たちが、UI設計にデザイン思考を取り入れたからだろう。
稚拙な論理だけれども、市井の人はそれほどまでにUIに鈍感で、UXに夢中なのである。
でもさ。
そんなの僕たち、知ってたじゃないか。
幼心に、ファミコンでさ。
ボタンの少ないコントローラをカチカチカチカチ。
夢中にハックを試みたじゃないか。
そうして世界は進歩してきたじゃないか。
映像だって音楽だって十分あったのに。
コンピュータの中に夢を見たんだよ。
見てきたんだよ。
何も変わってないんだよ。
ちょっと性能が良くなっただけだよ。
■邂逅から膾炙へ
Midjourneyが世に知れ渡り、僕たちはこぞってAIにプロンプトを食わせている。
「食わせる」って表現もなかなか妙味があって、すでにどこかで機械を擬人化している節がある(日本人だけなのだろうか?)
中には大人数で徒党を組んで、機械学習のランダム性に偏りを生ませるために、情報処理のシーソー遊びを始めた人たいもいるらしい。
泣くケーキ、荒ぶるラーメン、泳ぐセフィロス。
もはや無茶苦茶である。
それは果たして創作なのか?
それも一つの作品なのか?
芸術性とは?
価値とは?
そんな淀みを孕みつつ、僕たちの遊びは終わらない。
Stable Diffusionを経て、日本では「お絵描きばりぐっどくん」が生まれた。マネタイズ施策もすでに宛先は投資家のようだ。
そして今、OpenAI(ChatGPT)が、世界中でおもちゃにされている。
私もしている。
作曲AIや小説AI、動画生成AIなど、もっと便利でもっと高性能なものが、僕たちの前に次々と現れてくるだろう。
開発者も戦っている。
ユーザーも戦っている。
戦国乱世は、終わらない。
世界の終わりが、まだ終わらない。
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