見出し画像

#3 先生は誰よりも現地の人々を尊重し、誰よりも現地の人として生きていた

皆さん、こんにちは。
中村哲先生記念講座でTAをしております、A.T.です。

中村哲先生記念講座は、今年度より九州大学に新設された講座です。
九州大学医学部のOBであり、長きにわたってアフガニスタンとパキスタンにて、医療活動、灌漑事業など現場に根ざした支援活動に尽力された中村哲先生の生き方にふれて、中村哲先生がやってこられた仕事の意味を理解し、それと同じ意味をもつことを自分がするにはどうすればよいかを、講演やグループワークを通して考えます。

講座の概要の詳細はこちらをご参照ください。

今回は記念講座の第3回の様子をお届けしたいと思います。60分講演、30分質疑応答という構成で行われました。


1.藤田千代子さんのご紹介


今回、講師を務めていただいたのは、中村哲先生と長年現地で医療活動を行い、現在PMS支援室長を務めていらっしゃる藤田千代子さんです。

藤田さんは1990年、当時中村医師が拠点としていたパキスタンのペシャワールに看護師として赴任されました。その後、中村医師と共に隣国アフガニスタンで山間部の無医村に診療所を開き、用水路の建設に関わるなど幅広く活動されてきました。2009年、治安の悪化を受けて帰国した後、現在は日本国内から現地の医療活動や用水路建設を支援していらっしゃいます。
また、今年にはアフガニスタンとパキスタンで人道支援に尽くした中村医師と長年にわたり現地で活動し、女性スタッフの育成に力を注いだことなどが評価され、赤十字国際委員会(スイス)より、顕著な功績があった世界各国の看護師などを表彰する「フローレンス・ナイチンゲール記章」を授与されることになっています。

国内、現地を問わず、中村先生を支えてこられた藤田さんが、現地での活動や共に活動されてきた中村先生の様子を具体的なエピソードとともに語っていただきました。

画像1

2.講演の内容

現地の人を尊重する
今回の講演では、藤田さんとPMS支援室の職員の方々が現地の民族衣装を実際に身につけて来てくださり、現地でどのような格好で活動をしているかを紹介してくださいました。
また、現地の女性は外出時、ショールやブルカといった大きい布で自分の肌や顔を覆う文化があります。藤田さんは38歳のときに現地で働き始めたそうですが、そういった習慣や文化の違いに驚いたそうです。
習慣や文化が日本とは全く異なる環境で働くうえで、中村先生は1991年に「らいセンターで働く人の手引き」を作成されています。そこには、公衆の面前で男女が親しげに話すことがない現地の習慣を踏まえ、異性と接する際に注意すべきことや、技術水準の低さが現地のレベルの低さではないということが書かれていました。
日本人が、日本では普通であるペースで仕事をすると、現地では”勤勉”になってしまい、現地の人が置いてけぼりになってしまうことがあったそうです。そういう時、決まって中村先生は日本人を𠮟り、いつか去っていくであろう日本人が全てを行ってしまうのではなく、あくまで現地が主役であり、現地を尊重することの重要性を伝えられたそうです。

画像2

土着化した医療活動を
当初、数千人の患者がいる中で、ベッドは16台しかなく、医療機器は自らバザールに行って探していましたが、めったに同じものは手に入らなかったそうです。現地の医師や看護師とは慣れない言葉を使いながら、お互いに現地のことや医療のことを教え合っていたそうでした。
1979年から1989年までソ連がアフガニスタンに侵攻して戦争が続き、ペシャワールにアフガン難民が押し寄せたことから、難民キャンプを巡回した診療も始めました。多くの難民がいる中でハンセン病患者だけ診るわけにもいかず、1989年にアフガン難民の中から医師や看護師を集めてJAMS(日本・アフガン医療サービス)を設立し、医療活動を行ったそうです。
また、「本当に医療を必要とする人は山から下りてきて診療を受けることができない」という現状に気付いたことで、「じゃあ、医療チームが出かけて行った方が早いだろう、たくさん治療できるだろう」と自分たちで山を登り、山岳地帯巡回診療を開始しました。ジープで行けない程狭い断崖絶壁の道は、恐怖心を抱えながらも馬に乗って移動したそうです。

看護師として中村先生と共に活動されてきた藤田さんは、医療器具が少ない現地で行っていた工夫についても話してくださいました。現地の人は気を使って薪で沸かしたお湯からお茶を入れてくれたそうですが、現地の人の生活を知っている中村先生は「貴重なものだから大切に飲みなさいよ」と常に仰っていたそうです。小規模の処置であれば懐中電灯を使ったり、レントゲン写真は日光にかざして読んだりと、何もなくても色んな診療ができる工夫を行いました。最初は、「こんなに何もないところで何ができるのか」と思ったそうですが、様々なもので代用できることは楽しく感じ、現地の人にもその工夫を教えていたそうです。

1998年、ペシャワールにPMS病院を建設しました。現地では、外国から来た支援団体は2、3年で帰ることが常識であったため、毎年現地の人々に「あなたたちはいつ帰るの?」と不安そうに尋ねられたそうです。しかし、ここに病院を建てたのは、日本から支援が続く限り土着化して支援を続ける、という中村先生の覚悟の現れでした。特に、屋上は患者さんのオアシスにしたい、と力を入れて憩いの場を作られたそうです。
また、毎朝の回診では、ドクターも検査技師もナースも交じって、相談しながら治療を進め、いい教育の場にもなりました。中村先生はいつも的確なアドバイスをしていて、現地の先生が、病院内で「ドクター中村は天才だ!」と言い触れたというエピソードも聴くことができました。藤田さんも現地の人にメディカルアシスタントとしてナースの仕事教えていたそうです。中には大学卒ながら、アフガン難民になったことで稼ぐために掃除員として雇われた方もおり、機転が利くからとメディカルアシスタントになった方もいたそうです。

画像3

井戸端会議ができるように
2000年、大規模な干ばつによる食糧不足に襲われました。子どもたちはどろ水を飲んでしまい、元々栄養失調であるため、ただの下痢でもすぐに亡くなってしまいました。そこで、先生は「井戸を掘ろう」と村の主たちに働きかけ、青年たちと共に直径5mの灌漑用の大井戸を掘りました。
下の写真は、中村先生が、裸足でヘルメットも被らず、井戸の中に降りている様子で、これを見た専門家の人に怒られていたというエピソードもありました。
現地では、多くの人が教育を受けれない状況であり、中村先生は”日本のお医者さん”という憧れの存在でした。その先生が自ら、自分たちのために裸足で作業する姿に現地の人の驚くき、同時に嬉しくと感じ、現地方々の士気が上がったそうです。そして、用水路事業までその様子は1つも変わらなかったのでした。また、中村先生の「井戸端会議は平和の象徴」という言葉が印象的だったと藤田さんは話してくださいました。

画像4

想いをつないだ食糧配給
2001年、ペシャワールに多くのアフガン難民が入ってきました。医療チームとして何かできるのではないかと難民キャンプの視察に行くとそこは難民のテントの海だったそうです。しかし、難民キャンプにたどり着き医療支援が受けられた人がいる一方で、国境を越えられない人たちはアフガニスタンの首都カーブルに集まっていました。「鉄クズやアーモンドの殻を拾って生きてる人がいる。誰もいかないならPMSが行こう!」と、2001年3月カーブルで医療チームが開かれました。当時、井戸掘り、診療、山岳部の巡回医療、と継続していた事業が多く忙しい状況でしたが、カーブルから届く情報では、今すぐにでも診療所を開く必要があり、急いで準備を進めなければならなかったそうです。
9.11以降、多くの国がアフガニスタンに爆弾を落とし始めました。そんな中、中村先生たちは、干ばつによる食糧難に加え、標高が高いカーブルに住む人々が、どうやって冬を超えるのか、誰も何もしないなら食料配ろう、と空爆がある中、食糧の配給も開始しました。
しかし、PMSには薬を買う余裕もない状況だったため、中村先生は帰国して日本人から寄付を集めることにしました。そこで、藤田さんたちは食糧の買い付けをしておくように頼まれたそうですが、日本のマスコミがタリバンを叩く中、本当に日本人からの寄付が集まるか、半信半疑だったそうです。その予想は裏切られ、億単位で寄付が集まって振り込まれました。この状況下で日本から届いた支援金に大変感動したそうです。

画像5

誰が使い、誰が修理するのか
それから、用水路事業への話に移りました。地下水が下がったことで、畑用の井戸は掘らないようにと政府より発令されたことをきっかけに、中村先生はすぐに大河から水を引いてみようと提案されたそうです。藤田さんたちは、食糧の配給ができることは嬉しい一方で、いつまで続くのか、現地の人たちはいつまで食料をもらいながらの生活を続けなければならないのかというモヤモヤを抱えていたところだったので、自分たちで作物を作って育てることができると大変喜んだそうでした。ここで、緑の大地計画が進められ、重機を用いながらの用水路建設が始まりました。アフガニスタンは世情が不安定であり、日本のようなしっかりとした用水路をつくっても壊れたときに修理する人がいないため、農民たちがお金をかけず、自分たちでつくれて自分たちで修理できるものを目指しました。蛇篭を用いた方法は、アフガン人は石を積んで家建てるため、石を積むことに慣れていることから、現地の人のやり方に適していたそうです。このようにして、ガンベリ砂漠に用水を引いて畑につくることができました。

最後に
藤田さんは用水路建設の話の最後にこういった話をされました。「用水路をつくる上空は戦闘機の空路で、毎日いろんなものが通っていました。上空では殺戮をしている一方で、地上では専門家ではない人が水を引いて用水路をつくって命をつなげようとしている。その狭間で子どもたちはずっと生活しています。この子たちがどう感じて、どう育つのだろう、と一緒に用水路の中を歩きながら思っていました。」
そして、最後に下の写真を見せてくださいました。これは、2019年6月の報告会で中村先生が使われた写真で、ガンベリ砂漠の中、用水を引いたことで咲いたたくさんの花々です。干ばつは続いていますが、日本の支援、現地の職員、そして、住民の粘り強い頑張りのおかげでここまでできたんだという感謝を伝えられていたそうです。
こうして、藤田さんによる60分間のご講演は終了しました。

画像6

3.質疑応答


講演後は、受講生からの質疑応答の時間を取っていただきました。
質疑応答でも非常に盛り沢山の内容でしたが、一部をご紹介します。

Q. 藤田さんが活動された環境は過酷だったと思いますが、楽しかったことや日々心がけていたことはありましたか?
A. 日々心掛けていたのは、たくさん食べてたくさん沢山寝ることです。また、学校に行っていたときは、勉強があまり好きではありませんでした。しかし、現地で学んだ医療の知識・言葉を覚えて、自分の言葉で伝えられる。そしてすぐにそれが役に立つので、一番勉強した時期でした。その勉強がダイレクトに生きるのが楽しかったです。

Q. 中村先生が怒るエピソードを紹介していただきましたが、先生が怒るラインというものはどういった時だったのでしょうか?
A. 現地の文化を日本人ワーカーが踏みにじるようなことをしたとき、非常に怒っていました。「自分の物差しで判断するな」と、違いを笑い話にするのは嫌っていらっしゃいました。

画像7

4.次回予告


以上が第3回の講座内容になります。また、講座終了後には、希望した受講者と藤田さん、PMSの職員の方々による座談会も行っていただき、現地での具体的な話や、学生に年齢の近い職員の方々がどのような経緯でPMSで働かれているのかなどを聴かせていただきました。藤田さん、PMS職員の方々、この場をお借りして御礼申し上げます。
第4回になる次回は、中村哲先生の活動の意味を学術的に発信してこられた、関西大学特任教授の清水展さんにご講演いただきます。第1回、第2回とはまた異なる視点から中村先生についてのお話を伺えると思います。
では、また来週をお楽しみに!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?