「なんで勉強しなくちゃいけないの?」子供からの質問への身も蓋もない最終解答を示す。

学校の勉強、主に英数国理社の主要五教科について子供から「なぜ勉強しなくてはならないの?」という問いを投げ掛けられて困る大人は多いようだ。
遊んだり、他のことに興味がある年頃の子に、一見今すぐ役に立たないような内容の勉強をやらされるのはなぜなのか、特に勉強がうまくいってない子はそう思うことだろう。

それに対する答えとしては往々にしてネガティブなものだったり、現実味のないことや嘘、ごまかしなどの類いの、「この科目をやらなくてはならない」ということに対する説得力にはイマイチ欠けるものが多い。

ネガティブというのは大人になってから困る、まともな職業につけなくなるといったものだろう。こういった考えが、まだ社会に出ていない子供たちに説得力をもつのは難しく、却って意欲を削ぐことにもなりかねない。「自分は学歴がないせいで苦労した」だの、他人を指差して「学がないとああなる」といったようなニュアンスだろう。どちらも嫌なかんじだ。
だが、この考えは学校の勉強をしっかりやってきた人が社会で優遇されがちであるという現実を踏まえれば一抹の真理を含んでいるし、これが勉強しろという親の本音なのだろう。芸術やスポーツで身を立てるのは至難の技だ。ではなぜ現実はそのようになっているのだろうか。
本題に行く前にいくつかの「ポジティブ」な説明を検証しよう。

まず「勉強することは楽しいから」というのは楽しくないと言ってる人には全く響かない。それならせめて楽しく感じるように教えてあげてほしい。
私は学生への初回指導では、小さい頃算数や理科の分野で自分なりに考えていたことなどをやや大袈裟に楽しそうに話す。「本当に算数や理科を好きな人が教えてくれているんだな」と生徒に思ってもらえたらと思ってのことだ。どんな内容かは別記事に書いた。
医学部を受けるなどの理由でいやいや数学をやり始めるのだろうが、棒暗記でやりすごせる試験以外はへんてこりんなテクニックに逃げず、学習内容に真っ正面から向き合う方が受験も早くケリがつくと個人的には思っているし、そのように考えを改めてくれる生徒も多い。しかし、楽しめれば習得が早いというのは真理だが、勉強をしなくてはならない理由にはなっていない。

次に「知識は世界を広げる」といった類いのものだが、これも苦しい。学校の勉強なんかよりよっぽど世界を広げる体験は身の回りにいくらでもあるからだ。自分が楽しいと思うマニアックな学問があるのならそれだけを探求する方が、いやいややる科目よりも吸収がいいというのは先ほど話した通りだ。
映画や文学にどっぷり浸かることも、学校外の人間と多様な形で触れあうことも世界を大いに広げてくれる。嫌な勉強に時間を割く理由にはならない。

学校の勉強の知識が役に立つというのも、それは役に立つ場面があるというだけで、何かを知りたいと思えばそれはその時に学べばいいだけのことだ。網羅的に五教科を一時期にやる必然性はない。役に立つ場面の例を挙げたりしているが、たいていはこじつけレベルで、子供たちに説得力はなさそうだ。「学校の勉強の有用性がその程度のことであれば別の体験はもっと有用だ」と言われたらどうするのか。

ここで、学びそのものは学校の勉強を無理強いされるのとは違って否定されないということを言っておきたい。
新しい仕事に取り組むとき、それを必死で学ばないなんて人はいなくはないが認められることはない。いつ役に立つかわからない学校の勉強は真面目にやらなかったが、必要な仕事は素早く覚えて創意工夫をし、出世したり成功したりする人はたくさんいる。

ひろゆきさんは「勉強とは物事を調べてわかるようになり、自分で判断できるようにすること」だとし、生涯必要な能力だとしている。さらに「それは学校の勉強と同じ構造だ」とも言う。
ということは学校の勉強はより広い意味での勉強の訓練だということになるだろう。
では学校で一般的に学ぶ五教科である必然性はあるのか。
ある予備校の講師は「訓練のネタは何でもいい」と言う。ただしそれが論理的で、体系だった知識の集合であるということが必要であり、学校の教科というのはその点で整備されたものだということなのだろう。
特定の人間が恣意的に定めたり、利益を誘導する目的などはなく、検証や反証に耐えた一応中立的な知識体系。これが学校の勉強の特徴だ。

そしてこのことが本題と繋がってくる。
予め言っておくと、子供の質問への答えとしては今から話すことは面白くないだろうし納得もしないかもしれない。大人が読んでも何だかすっきりしないものが残るかもしれない。だが、大人が言葉に詰まりながら話す本音と直結した真実をこれから話すつもりだ。

唐突だが、昔は生まれによって身分の上下が決まっていた。そして現代では建前上では、生まれによる差別はないことになっている。とはいえ、身分の上下がなくなったわけではない。誰かが組織の長として部下に指示を出し、意志決定の中枢となり、そして責任を取る。
誰が偉いのか、誰が責任者なのか、これが生まれによって決まらないとすると一体何によって決まるのか。
それこそが、感情や恣意性を排した中立的な知識体系や論理体系を扱う能力のある人間かどうかということなのだ。ユニバーサルに認められる、もしくは認めざるを得ない「正しさ」を扱う能力があることを示すことなのだ。生まれが平等である以上、恣意的な権力行使は単なる悪い暴力となってしまう。そこで誰もが認めざるを得ない正しさを自身が持ち合わせていることを示すことが必要なのだ。
簡単に言えば、自分が偉い人、責任者であるに値する人間であることを望むのならば勉強してその能力を示すべきなのだ。望まないならばユニバーサルな知識体系を吸収できるということを必死になって示す必要はない。

つまり、権力行使の正当性の根拠を示すこと

これが答えとなる。そしてこれは究極的には社会の統制原理としての法を扱うということに行き着く。これまたわかりにくいが、資格試験を受けたことがある人には理解しやすいかもしれない。
例えば医師国家試験では病気の原因やら治療法はもちろんだが、医療に関わる法律がかなりたくさん出題される。そしてこれがつまらない。「~の権限は『都道府県知事』が有する」だとか「医師の守秘義務の根拠法は医師法か刑法か」だのを暗記させられる。
他の資格試験も似たようなものだろう。業務内容とは別個に関連法をチマチマと暗記させられる。
もっと内容豊かな問題を作れないのかとは思うが、それはさておき、◯✕がはっきりとつき、医療行為をやってもよい根拠を自身が知識としてもっていることを示すことが必要だ。医師なら医行為の始原的な権限をもち、責任者でもある。しかし、その行為内容も何が許されるか許されないかは法で決まっている。それを適切に理解できていることを示せないとその権限行使は許されないのだ。

自動車でのスピード違反が、警察官による現行犯ではなく、取締装置によって取り締まられ、後日違反の通知が来ることがあるそうだ。そのときに違反者が違反したという事実に対して納得できないという申し立てがあったときはその装置での測定が「ドップラー効果によって~という原理で測定され、誤差率は何%で~」「だから最低でも時速◯◯キロ出していたはずです」といったような物理学的な説明がなされるのだそうだ。
日常生活でドップラー効果の計算式を求められることはないだろうが、警察権力の執行に疑義があると国民から言われれば、いざとなればその正当性が学問的なつまり恣意性のない正しさ、ここで言うと物理学をもとに説明がなされなければならないということなのだ。
権力行使の正当性の根拠とはこういうことだ。

公務員試験などはTHE学校の勉強というかんじだ。論理や正確な知識を扱えることを示すことをもって法に基づいて運営される行政権の行使の主体となりうるというのが建前なわけだ。

大学への入学やその後の民間への就職においても、雛形は同じであり、文句をつけられない権限行使の考え方をもっていることがここでも要求される。生まれで決まらないのはもちろんのこと、例えば喧嘩が強いなどの他の能力ではなく(喧嘩が強いことが社会的序列を決めた時代や社会もあったかもしれない)、論理や知識体系を扱う能力によって序列が産み出されるという現実があるのだ。
生まれによる差別がないということになっている現代社会の原理原則としてこの発想は根付いており、その能力に応じて、期待される職務内容やもっと言えばエントリーできる企業群が振り分けられ、それが序列となっていくのだ。

しかし、そのような能力は創造的ではなく、イチャモンはつけられない、横暴ではないという専らネガティブなものだ。そんな中与えられるものと言えば生活の最低保証のようなものだ。
いみじくも先日YouTuberのヒカルさんが「早稲田なんて何千人も受かるのだから大したことない」と言ったそうだが、その通りだ。だが、才能やセンス、行動力抜群でヒカルさんのような成功を収めるなんてほとんどの人が無理だ。だから「お勉強して最低保証の水準を高めておけ」ということなのだ。
以上の話の現実的な重要性は子供には分かりにくい。だからこそ大人による強制が行われるのだ。

なんだかネガティブな話になってしまったが、私自身は各教科の勉強を面白いと感じているし、私の中では役に立っている。また教養というものがいかなる意味で大切かということも考えており、これらはまた別記事で話したい。
さらに資格試験や医学部入試のバカバカしさについても後に論じたいと思う。





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