反反ルッキズム。表現の自由を守り、人間の劣化を食い止めるために。

今回は反ルッキズムについて、シンプルに論じよう。
まず人を外見に基づいて侮辱したり、傷つけるのがダメなのは当たり前だ。外見に限らずどんな評価基準であれ、人の尊厳を毀損したり、否定的評価をわざわざ当てつけがましく相手にぶつけること全般がいいことであるはずはない。
しかし、外見のいい人が個人と個人の間で他人からよい扱いを受けているとかそんなものは外見による差別とは何の関係もない。誰に親切にするかや誰を好きになるかはその人の自由だ。こんなものを本気で差別と同列に考える人は外見以上に、知性や人格を何とかした方がいい。
次にビジネスなどの外見が関係ないはずの場面でも外見のいい人が得しているとの論もあるが、これも誰とビジネスするかや誰を自社に採用するかはよほど非人道的なもの以外基本はビジネス主体や採用主体の自由だ。仕事の実力がない人を任命したり、採用したりして損をするのはその主体なのであり、彼らが責任を負うのだからご心配は無用だ。ちなみに何をもって損をしたかなんてそんなに単純ではない。個々の仕事が早かったり正確だったりするのは素晴らしいかもしれないが、社風に合う、コミュニケーションがとりやすい、グループの雰囲気がよくなるなど様々な観点から誰と仕事をするか総合して決めている。
このように各主体の責任、判断の範囲内のことをルッキズムとして圧力をかけることこそ社会による個への抑圧だ。「社会が個人を抑圧している」という図式は、ルッキズムではなく、むしろ反ルッキズムにこそあてはまる。そもそも「外見主義」は確かにあるかもしれないが「外見『至上』主義」なんてものは本当に社会に支配的なのか。私が鈍感なだけなのだろうか。

最近は「かわいい」を男性が女性に面と向かって言う場面も減ったが、これは「かわいくない人」「反ルッキズム」に気を遣っているのだろうが、肯定的なことを言うのを特定の「主義」に従って言わないようにするのは不健全だ。「かわいい」と言われたくないという人もいるが、これは反ルッキズムの観点の人もいなくはないが実際は違う要因だ。男性から「かわいい」と言われると「そういう目で見られている」と感じるからだ。女性から言われるのは不愉快ではないという人が多いのがその根拠だ。あとは誰が見てもかわいい人というのはいつもそれを言われるから飽きているのだ。人間関係としての不毛さにうんざりしているわけだ。相手が何に疲れているのか何に飽きているのか察してあげるのが人間関係のコツの一つだと思う。

表現の自由を毀損していることの他に問題なのは、人間の自然、本性を過剰に抑圧すると人間は感覚、感情、知性が劣化するという点だ。
本来の感情や感覚を押し殺していれば、それらを他者とぶつけ合う機会もなくなる。どのような感情が本当の意味で人としてヤバイのかなどコミュニケーションの中で精査され、磨かれていくことがなくなってしまう。建前と本音の区別がつかず、学校で言われた綺麗事を字義通りに受け取って「騙される」ことになったり、「はしごをはずされた」と将来感じることになる。とりあえず叩かれそうなことさえ言わなければ問題ないという無責任な人間や、損得にしたがって声高に「主義」を標榜するだけの人間が量産され、本当の善は置き去りにされる。

そして表現が抑圧されれば、想像力や人間を見る目もなくなる。表現の自由とは広い意味での教育問題だ。クラスで三番目レベルのアイドルもいていいが、彼女が画面に映る必然性やその経緯はどんなものなのか、大学在学中「他薦」されていなかった女子アナは人知れずアナウンススクールに通っていたのだろうか。だが「安心感」の見せかけの裏側には、ポーズだけとってほくそえんでいる真の「ルッキスト」の復讐心を感じてしまうが、根性の悪い憶測だろうか。

被害者意識は視野を狭くし、さまざまな動員に釣られやすくなる。僻みや嫉妬心を間違った形で掘り起こし、「目覚め」させる。理屈になっていない理屈を振りかざし、さらに孤立していく。外見であれ何であれ、いいものはいいと言い、そうでない人には尊厳を守って配慮する。配慮も確かに社会的抑圧の一種だが、素直な思いやりや共感は人間の本性に照らして決して不健全ではない。そこの区別をつけない「主義」の暴走は社会を不毛にする。

見た目が悪くともうまくやっている人はいる。「そんなことはわかっている。それでもうまくやれないことに憤っているのだ」そんな複雑な感情を無視したいわけではない。間違った攻撃性とそれに基づく息苦しさが社会を覆わないでも済むように、おかしな「主義」に釣られない人を増やしたい。どんな人にも思いやりをもって寄り添うという意味でルッキズム圧を下げた方がいいということであれば私も賛成だ。


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